015 抗いの意思6 それはただの悪い夢
「お願い、戻ってきて」
強く、強く少女は願う。
「死なないで!」
強く、強く少女は願いを口にする。
目を閉じ、肌は冷たく、横たわるその少女はもう人と言っていいのか、それがアーティが一目見て感じてしまった印象だった。
人間の界素配列は複雑で恐ろしく緻密。アーティの界視力が恐ろしく高いと言っても限度はある。普段であればその断片であっても見ることなど出来ない、が今の彼女には意識せずともその構造を見ることは容易かった。
青い瞳。
アーティの瞳は青く透き通っており、その瞳が界視力を限界以上に引き上げ人間という視ることが不可能であるはずの界素構成の解析を可能にさせていた。だからこそ顔が絶望に歪む。
一切動かず力無く横たわるミーシェルの胸に両手を重ね押し当て、そのまま微動だにせずアーティは願いを口に込める。時間にして三十分以上がすでに経過している。
横に立つヒナは何もできずただ見つめるだけの自分に唇を噛む。
「アーティ、さん……」
「ミーシェル!」
名前を呼ぶ。何十回目のその言葉、しかし反応は一切ない。
ミーシェルの界素配列は、変性していた。挿入でも抽出でもない、変性だ。界素の配列はそのままで変化はないが、その配列を構成している界素の一個一個が見たことのない形、いや質と言った方がいいのか、変わっていたのだ。恐らくこれが黒書が行っていた儀式の結果なのだろう。一体何をしたらこんなことが出来るのか見当もつかない。
儀式は術式を構成する譜記術、詠唱術、無詠唱の三つとはまた別の方法を指すもので、広い意味で捉えれば譜記術に入る。簡単に言えば、恐ろしく難しい術式を構成するための方法、それが儀式である。記譜術も難しい術式の構成に用いられるが、儀式は一日で発動ができない、数日を要する術式に用いられる特殊な方法である。それ故に儀式を用いられて行われた今回の術が恐ろしく高度なものであることは想像できた。
儀式はもう止まってる。
後は、
「絶対に死なせない」
単純な話、界素が変性しているなら元に戻せばいいだけだ。
だがどうやって? 変性させた方法が、術がわからない。どっちにしろ五日かけて行われたという儀式、つまりこの界素の変性は五日かかるという事だ。同じ方法を用いて元に戻すとしても同じく五日かかるのでは意味がない。今の状態でさえ生きているとは言えないのだから時間はもうない。
ならどうやって?
(思いついて、思いついてよ! 私!)
ミーシェルの界素配列を解析しながら希望を探しあがく。
(ここで救えなかったら、何のために私は!)
青い眼は潤み、今にも雫が頬を伝い落ちそうになる。
(泣くな、思い出せ、あきらめるな! 今だけは今回だけは世界に、悲しみから悲しみが生まれるこんな世界になんて負けてたまるか!)
今までの出来事を会話を一から全て頭の中で思い出す。
(そういえば黒書はこの術について……)
―――― 不変領域を任意のものに移し替えることができたのならどうなると思う?
黒書が言った言葉、それが一瞬、脳裏に浮かんだ。
(そう、か)
不変領域を移すのだとしたら、不変領域自体には変性は一切起こしてないはずだ。いやそれは出来なった。ならこの変性は全て、変えることが出来る部分に限局していると言えるのではないか? 界素配列自体には異常がない、変性していることを除けば外傷もなく正常だ。
「なら! 大気中にある正常な界素を変性している界素と移し変えることが出来れば……!」
思わず口からもれた一筋の希望。
「アーティさん、そんなことが出来るのですか!?」
ヒナが思わず驚いた顔で口を開いた。
「ただの抽出や挿入はよくやってる。それと原理は同じ、ミーシェルの界素配列の中の異常な部分を抽出してその瞬間に大気中の正常な界素を挿入する。ただ…… 大気中の界素なんて術以外に使えるなんて分からないし、そもそも抽出や挿入自体、金槌ぐらいしかやったことないんだけどね」
アーティは苦笑いを浮かべ一筋の汗が頬を伝った。
「もし、その……失敗したら」
「成功させるよ。今の私なら、ううん、今の私じゃないと絶対に出来ないから。助けられるのは私しかいない」
「……頑張って、ください」
「うん」
(いくよ、ミーシェル)
と、その時だ。
大きな地響きが部屋を揺らす。
「まさか!」
ヒナは周りを見渡し天井を見上げた。
揺れは次第に大きくなり天井からは小さな石の破片が落ちてくる。
部屋の壁は石を積み上げたような造りで何もしなくても崩れるんじゃないかと不安になるほど雑だ。そう、いつ崩れてもおかしくはないと思っていたが、まさか本当に、そして今この時に。
最悪なタイミング。
徐々に振動は大きくなっていき崩れるのは時間の問題だろう。すぐに脱出しなければ生き埋めだ。
「アーティさ」
アーティは横たわるミーシェルをジッと見つめ、重ねた両手をミーシェルの胸に当てたまま微動だにしない。今の彼女は周りが一切見えていないのだ。
それを見たヒナは静かに座った。
◇ ◆ ◇
突如、アーティは息を荒げ咳きこみ始めた。
「アーティさん!?」
ヒナは心配そうに駆け寄る、がアーティはそれを手で制した。
「大丈夫。終わ、った」
「え、それって……」
横たわる少女を見れば、胸が僅かではあるが規則的に上下し、いつの間にか青白かった肌に血の気が戻りつつある。
「界素は全て正常のものと入れ替えた。後はミーシェルを信じるしかない」
「ア、アーティさんは大丈夫なんですか?」
たったの三分、アーティは治療を始めてからたったの三分で治療を終えた。しかしそんな短い時間であっても今の彼女を見ればそれがどれだけ大変なことをしていたのかがわかる。
呼吸は速く激しく、地面に両手を付けたまま震え自力で立つことが出来そうにないくらい消耗しているようだった。顔はとても苦しそうで、汗が噴き出すように流れ落ちている。
「正直ちょっときついかも。て、この地響きは何? もしかして崩れる、の?」
辺りを見回せば大小さまざまな岩が転がっており、何もなかった殺風景な部屋がいつの間にか変貌していた。見ている間にも天井からは小さな石がパラパラと落ち今まで崩れなかったのが奇跡に等しい。
「急いで脱出しましょう。私に捕まって」
ヒナが手を差し伸べる。
「無理だよ、ヒナちゃん。私は一人で脱出はできない」
「アーティさん一人だけを連れて行こうとは言っていません。友人も一緒に」
え? という疑問の言葉を言う前にヒナはアーティの手を掴みミーシェルの体も抱え、
「行きます」
その瞬間、音が消えた。
さらに驚くことにヒナは一歩、たった一歩で二十メートルは離れていた階段に足をかけた。ミーシェルを抱え、私を連れたまま。不思議なことにその間、ヒナに手を引かれた感覚は全くなかった。
(何これ……)
さらにヒナは一歩踏み込み地上へと続く階段をまるで重力がないかのように一気に駆け上がった。
◇ ◆ ◇
記譜結晶の専門店から出たその瞬間、頭上には太陽の光が降り注いでいた。
長い時間薄暗い所にいたせいか陽の光はとてもまぶしく、思わず目を細める。細めた眼の色はいつの間にか元の黒い色に戻っていた。
「ここで大丈夫」
アーティはレゾスタの街の、人の多く行き交う大通りまで歩いたところで、そう言って手を引き前を歩くヒナを止めさせた。
「そうですか? そうだ、ぜひアーティさんにはヘルメスに寄っていただきお礼の方をしたいのですが」
「ううん、寄りたい所があるんだ」
未だアーティの疲労困憊といった様子に心配な顔を向けるヒナに、こんな子だっけな、と少し微笑をもらす。
「寄りたい所ですか?」
「うん、喫茶店に寄りたくて」
「喫茶店……?」
「どうしても寄りたいんだ。せっかくのお誘いなんだけどごめんね」
「いえ。それじゃあ、そこまで友人を運ぶのを手伝います」
大通りから少し離れた所にあるオープンカフェ、喫茶ネコ郎。可愛い猫の絵が描かれた看板が掲げられ、大きくはないがけっこうお洒落な喫茶店だ。前にここの名物である超巨大パフェを頼んで大変なことになったのはいい思い出だ。
イスにミーシェルを丁寧に下ろすと、ヒナは一つ頭を下げた。
「ありがとうございました、アーティさん。本当は私がアーティさんを守るはずだったのに守られる側、でしたね。今回の任務はアーティさんがいなければきっと達成できていなかったと思います」
「そんなことないよ。ヒナちゃんがいなかったら未だにミーシェルがどこにいるか分からなかったかもしれない。ありがとね」
「いえ。それでは私はこれで」
一瞬ヒナは何かをためらった様子を見せたが、
「ヘルメスの方に報告しなければなりませんので行きます」
最初に会った時と同じように無表情で素っ気なく踵を返した。
「うん。フロルドさんによろしく伝えといてください」
「はい」
それだけ言うとヒナはやがて人の中に消えていった。
ミーシェルは実に穏やかに、まるで寝ているかのように目を閉じている。
救う事ができた、そのことにアーティはただただ安堵する。
時折後ろを胸に太陽の紋章を掲げる騎士が通るが今のアーティには関係のないことだ。
「う……ん」
ミーシェルが僅かに動いた。
「ミーシェル」
ミーシェルの目が僅かに開き、閉じる。また開き閉じて、ゆっくりとした動作で目が開き、焦点の合わない目で周りを何度か見て、そしてアーティを見た。
「ん…… アーティ?」
「うん」
その言葉を、ミーシェルの言葉を聞き、目から一筋の涙が頬を伝った感触を感じて何度も頷く。
「ここって…… 喫茶店? あれ、なんで? 頭がボーっとして、えーっと私……」
「大丈夫。いろいろあったけど…… きっと悪い夢だったって、思えるから」
「ゆ……め?」
「今すぐ、は無理だけど、また今度、買い物の続きをしよう」
アーティは涙を流しながら満面の笑みを浮かべ、
「次は絶対に遅刻しないから」
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