012 抗いの意思5 青の瞳(前)

 二人は明かり一つない地下へと続く階段を下りていた。

 幅は狭く石を積み上げたような作りの壁は嫌な圧迫感がある上に、手をかけると落ちる細かな石の破片が突然崩れるんじゃないかとの不安を掻き立てさせる。また、とても暗いため時折足を踏み外しそうになり、その度に夜目が効くのか前をスイスイ進むヒナを見て、うらやましいなー、と感心の溜息をもらす。


 下り始めて十分、前を歩くヒナが立ち止まった。


「大きな部屋に出るみたいです」


 その言葉の通り、階段を下りた先はとても広い部屋だった。僅かだが明かりも灯っていて、暗くて何も見えない、という事はなさそうだ。


「何の部屋でしょうか」


 ヒナが辺りを見回すと、少し離れた所に誰かが横になっているのが見えた。


「あれは…… 女の人?」


 アーティもヒナの視線の方、それを見た途端アーティは走った。


 すぐに分かった、

 赤い紐で結わいている黒い髪。


 小さな石につまずき転びそうになる、でも走る。


 次いで分かった、

 その細い腕で美味しい美味しいアルゴビーフのサンドイッチをいつも作ってくれる。森に行く時はいつも行ってらっしゃいってその手を最後まで振ってくれる。


 手を伸ばす。


 そしてわかった、

 気の強い活発な性格なのにとても心配症な、


「ミーシェル!」


 アーティの手が床に横たわっているミーシェルに触れ、抱いた。


「ミーシェル! ミーシェル!」


 目からは涙が流れ、何度もその名を呼ぶ。


「ミーシェル……?」


 アーティはふと気付く、いくらミーシェルに触れてもその温かさを感じることが出来ない。それどころか顔や腕、手、足、見える部分はどこも青白く、とても生きているとは思えなかった。


「そん、な」

「悪いが儀式の途中でね、邪魔をしないでもらいたいのだが? いつかの森であった人間の少女よ」


 投げかけられたこの禍々しい声、きっと忘れたくても忘れることのできないものだろう。


「グリモワールの黒書……」


 アーティは最初に会った時と同じ言葉を口にした。


「グリモワールの黒書? なんで、アーティさんこれは一体」


 ヒナは珍しく驚いた表情を浮かべ、突如現れた宙に浮く黒い本に冷や汗を一筋流す。

 黒書は相変わらず宙にフワフワと浮き、何百枚はある黄ばんだページが時折パラパラとめくれる。


「やっぱり生きていたのね?」

「障壁を術なしで破った少年はいないのかね今日は…… ん? どうした? 顔をこちらに向けたまえよ」


 アーティは黒書に背を向け、横たわるミーシェルを抱えたままだ。

 黒書は少し無言になり考えた様子で、


「ああ、もしかしてその材料の知人だったりするのか?」


 アーティは息が詰まるのを感じ、代わりに答えたのはヒナだ。


「材料とは?」

「知らないでここまで来たのか? まぁいい退屈していた所だ、少し話してやろう。……ラルバ市長と会ったこと、それが全ての始まりだ。これは偶然だったよ。だが一目見てわかった、これは面白い事になるだろう、とね」

「やはりラルバ市長が関わっているのですね」

「その予感は裏切られず何を思ったか彼は魔族になりたいと願った、そこで教えたのさ。ならば人間の界素配列を魔族と同じにすればいい、魔族の事は私がよく知っている、全て教えよう、と」

「そんなの出来るはずない!」


 アーティは叫び、否定する。


「その通りさ、人間ごときが魔族になれるはずないのだから、本当に面白く愚かでバカな人間だったよ、彼は。クク」


 可笑しくて可笑しくて堪らないのか、黒書はひとしきり笑い、


「だがそれによって少し面白い事がわかってね、考えてみたまえ。確かに彼は魔族になることは出来ないが、その実験段階において魔族の証しである真黒の血を流す生き物を作りだすことに成功しているのだよ。まぁ彼にとっては失敗なんだが興味深いと思わないか?」

「何が言いたい?」

「人間と魔族は案外遠い存在ではないのかもしれない、そう思わないか?」

「話にならないよ黒書。人間には人間の不変領域がある、それこそが人間としての絶対のもの。例え魔族の証拠である真黒の血が流れたとしても、それは魔族ではない、人間よ!」


 黒書には、背を向けているアーティの表情を見ることは出来ないが、その言葉の込められた感情に疑問を覚えいぶかしむ。

 

「まるで魔族に会ったことがある、そんな言葉だな」


 アーティは無言だ。


「まぁいい。しかしそこだよ、その不変領域だ。魔族の界素配列に変換する上で障害になったのがそれだ。彼も考えに考えた」

「まさか」

「いや、不変領域を変えることは誰にもできはしない。もちろん彼も出来なかったが、ここが傑作なんだ。お前達人間は自らを構成する界素で実験を行おうとはしなかったのかね? 少なくとも彼は初めてだったらしく、人間の界素配列に手を加え、赤い血が真黒な血に変わった時、彼はすごく興奮していたよ。このまま実験が進めばいずれ魔族になれるのだと愚かにもそれで確信したのだ」

「狂ってる」

「そう、彼は狂いだしたのさ」


 首を傾げっぱなしだったヒナは話のきりがいいことを察し、知りたい事を口にする。


「記譜結晶とは一体何なのですか?」


 アーティは無言で耳を傾ける。


「さっき不変領域について触れたが、その不変領域を任意のものに移し替えることができたのならどうなると思う?」

(不変領域を、移す!?)

「分からないかね? この問いは物と術の違いを問うているのに繋がるのだが。物とはなんだ? 例えばその辺に転がっている石だ、これはいつまでたっても消えることはない。だが術はどうだ? いずれ消えてしまうものだ。どちらも界素の配列にすぎない、ならばその違いとは?」

「そうか…… 不変領域があるかないか、か。術の界素配列に不変領域を作ることが出来れば、物のようにいつまでも残る界素配列になる。でも不変領域を移すなんてそんなこと」

「それを偶然にも出来てしまったのだよ、彼は。人間を実験材料としているうちに、人間の不変領域を金属に刻んだ界素配列に移す、といことをね。そしてここでもう一つ分かった事がある。界素配列さえあれば術が何度でも発現出来るのであれば、術で発現した事象は界素が消費され消えるのではなく、界素の構成が崩れることによって消えてしまう現象だという事だ。狂っているからこそ出来た、世界がひっくり返るような大発見だ。残念なのはその発見者が一切興味を持たなかったことと、それを知ることが出来たのは聖十字教会だけだったということか」

(聖十字教会?)

「具体的にどんな仕組みで不変領域が移されるんだろうね。それは私にも分からないが…… ちょっと早いがそこにある材料で見せてあげようか?」


 黒書が指すのは間違いなくミーシェルだ。


「ミーシェルに何を、したの」


 その声に力はない。


「その材料は五日かかる儀式術式の後、最終的には結晶化しそれを触媒として記譜結晶は生成される。これが記譜結晶の生成法だ」


 アーティはとても小さな声で希望を見出すように尋ねる。


「まだ助か」

「もう助かることはない、あきらめるんだな」


 黒書の容赦のない残酷な言葉がアーティに投げかけられた。


 ヒナは明らかな迷いを見せる。こんな非人道的な生成法、いやヘルメスに報告するのは何の問題はない、むしろそれが私の任務だ。だけどそれは絶対にヘルメスだけには留まらない。もしこの非人道的な生成法が裏に流れ、何の感情もなく行う組織が出てきたら……

 と、いう思考は黒書の禍々しい言葉が途切れさせた。


「何にしてもこれを見てしまったのだ。まさか、お前達は生きて帰れるとは思っていないだろうね?」


 ヒナは腰にある小太刀を瞬時に抜くと音もなく距離を詰め、黒書を切り裂いた。黒書は障壁を展開する暇もなく石の地面に転がる。


「アーティさん、逃げてください!」


 アーティはうずくまったまま微動だにしない。


「アーティさん!」

「人間の絶望する姿とはいつ見ても素晴らしいものだな。お前の絶望は一体どんものになる?」


 ヒナは目の前に、何もなかったように浮かぶ無傷の黒書に思わずその目を見開く。


「なん、で」

「私はグリモワールの黒書だぞ?」


 その言葉と同時にヒナの体は凄まじいスピードで吹き飛ばされ石の壁に強く叩きつけられた。

 石の砕ける音を背後にウッ、という呼吸の止まる小さな呻きをもらし崩れ落ちる。咳きこみ、しかしその目は黒書ではなくアーティに向く。


「アーティ、さん」


 ヒナは痛みに顔を曇らせながらも、青白い一人の少女を抱えうつむき微動だにしないアーティを視界に捉え、よろめきながらなんとか立ち上がる。


「あれはもう駄目だ。それよりも自分だけで逃げた方がいいんじゃないのか? お前一人なら逃げられる可能性も微小ながらもあるのだろう? 今の珍しい術を使えば、ね」


 この黒書の言葉に改めてヒナは認識する、目の前に浮かんでいる物は本物の黒書だと。ヒナが障壁を展開する間もなく黒書を斬ることができたその本質、それを一度見ただけで見抜かれたのだから本物以外に何があろうか。

 だとしたら、そんなものを相手にして勝てる可能性は低い、そもそも戦う必要がどこにある? それに私の最優先任務はすでに達せられている、それを本部に伝えることこそが最もやらなければいけない事ではないのか? そうだ、それがヘルメスの意思だ。

 だが、

 ヒナの足は一向に逃げるための一歩を踏み出せないでいた。


「私はバカだ」

「どうした? 気でも狂ったか?」


 そうかもね、とヒナは僅かに笑みをもらした。


「あんなどうでもいい言葉をうれしいと感じてしまうなんて」

「何が言いたいんだ?」

「逃げてください! アーティさん! 私はあなたに死んで欲しくはない、そう思ってしまったから」

「何を言い出すかと思えば……」


 黒書は未だうずくまるアーティの方を向き、


「お前もあきらめたらどうだ? もう助からない、死んでしまったものをいつまで抱え」

「死なないよ」


 アーティの静かで淀みのないはっきりとした否定の言葉が黒書の言葉を途切れさせ、しばらくの沈黙を生む。


「死なない?」


 沈黙を破った黒書の禍々しい声はただ部屋の中で響き、その問いに対する答えは返ってこない。

 アーティはミーシェルを丁寧に地面に下ろし、ゆっくりと立ち上がった。


「ありがとね、ヒナちゃん」


 はっきりとした声音にヒナは胸をなでおろし、次いでどうやって逃げるかを考え緊張に顔を強張らせるが、それは次の言葉で疑問に変わった。


「もう決めたから大丈夫」

「決めた?」


 アーティは振り返り、

 うん、と一つ頷く。

 その顔は笑顔で、でもとても悲しそうだ。

 そう、この顔は街で一度見た。確か姉の話をした時の顔だ。


「忘れるのをやめよう。恐れるのをやめよう。大事な人が出来たから。死なせたくない人がここにいるから」


 その声は部屋中に凛と響き、僅かに揺れた、気がした。


「封印解除術式〈銀の花〉」


 黒書は叫ぶ。


「銀の花!? 貴様、その意味を知って、いや違うなぜその名が!?」


 アーティはゆっくりと息を吸い、一つの言葉を口にした。


滄溟そうめい剣姫けんき


 ヒナと黒書は同時に声を上げる。

 一つは愕然がくぜん驚愕きょうがくを、一つは狼狽ろうばい戦慄せんりつを。


「“暁の血族”……」

「“呪の血族”だと!?」


「ミーシェルのために剣を抜こう」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る