003 ラダラットと黒い血
北の森は、まだ太陽が真上を指しているにも関わらずその陽をせき止め影を作る。それは村から森に出てすぐに、静寂で、どこか寂しげな雰囲気を作りだしていた。
そんな静寂な森を一人の少女が歩いている。
歩きにくそうな荒れ果てた道は人の通りがないことを示し、時折聞こえる獣の声は人の侵入を頑なに拒んでいるようにも聞こえる。
少女の歩く小道の両脇には幾つもの、見渡す限りの大木が連なる。
アルデネの木だ。この森にある大木のほとんどがアルデネの木で、なんでも界素の感受性がいいという不思議な特性を持っているらしい。そのため加工がしやすく他の村や町でそれなりの値で売れるとか。
アーティが北の森に入って三十分、手に持つ方位磁石を確認する。
「方向は合ってるね」
目的のラダラットの巣はまだ当分先である。
ここら辺は薬の材料を採りによく来るので、まだ見知った道ではあった。
周囲に広がる草木が時折強い風に揺れては、立ち止まり警戒のため辺りを見回す。魔物がいるとは言っても今はまだ太陽が昇っているのだ、遭遇する確率は相当に低い、はずではある。
ただ、魔物に遭遇する時は遭遇するのだ。
その時に準備出来ていないなんてことは論外である。
実際にアーティ自身もこの森で魔物に遭遇したのは一回や二回どころではない、何十回もあった。
だからこそわかる。
第六感的なものが告げる。きっと今回も安全無事に何も遭遇しないというわけにはいかないだろう、と。
さらに三十分が経過したところで、アーティは歩くのをやめ周囲を見渡す。
微かな音と……危険を告げる自らの勘。
すぐにそれは来た。
「キィィィィイイイ」
人では発音できないような、そして知恵を持たないただ敵意だけの叫び声。
周囲の草むらから葉を舞い上げ飛びかかってきたのは、狼に似てはいるが額に目を一つだけ持つ、そう魔物だ。
アーティはすぐに手に持つヤッフェ白銀のナイフを構え、数える。
一、ニ……、六匹!
獰猛に並ぶ幾つもの牙が生える口を大きく開き、噛みちぎらんと一斉にそれらは迫る。
最初に飛び込んできた一つ目狼の牙を大きく避ける。
少しかかったよだれに嫌な顔をするが、すぐに姿勢を低くし、地を強く踏み込んだ。
続いて飛びかかってきた一つ目狼を、その勢いそのままに逆手で持ったナイフを深く刺し赤黒い血をふかせながら横に走らせる。そしてすぐに右手で持つナイフを左手に移し、左から大きく口を開き迫る一つ目狼の大きな目に突き刺した。
赤黒く染まったナイフを引き抜き、飛びかかってくる一つ目狼を姿勢を低くし下段から斬り上げ、力失い覆いかぶさってくるそれを力任せに蹴り飛ばす。
後ろに大きく一歩、と同時に水平に走らせたナイフは鈍い音と共に後ろから迫った一つ目狼を絶命させる。
あとニ匹、とわずか確認して、何の考えもなく飛びかかってきた一匹を横一閃に絶命させる。
野生の本能だろうか、私を恐ろしいものと判断したのか躊躇していた最後の一匹にナイフを投げつけ、見事にそのナイフは一つ目狼の大きな目に命中して、力なく最後の一匹も倒れこんだ。
フゥ、と肺にある空気を深く吐き出す。
周囲に倒れている内の一匹から刺さったナイフを引き抜くと、左右に振り払って赤黒い血を落とす。
「今日はついてないかも」
この幸先の悪さに不安を感じずにはいられない。
そして静けさを取り戻した森を再び歩き始めた。
それからしばらく歩くと目の前に大きな湖が視界いっぱいに広がっていた。
ちょっと休憩しようかな、と手に透明のコップを持ち湖の水を汲むと凝視すること数秒、一気に水を飲み干す。
「あー、生き返る!」
少なからず疲労していた体にしみる美味しさだった。
近くに座れるところがないかキョロキョロと見回し、適当な地面を見つけたので少し手で払ってから座り、すぐにカバンの中に手を突っ込む。
あったあった、と笑顔で取り出したのはパン屋のミーシェルお手製のアルゴビーフのサンドイッチ。パン屋のミーシェルは歳が近いせいもあり村一番の仲良しで、三年前に始めたアマイロ雑貨店の初めてのお客様だ。それ以来、一番の常連さんでもある。
ミーシェルの作るこのサンドイッチはどんなものよりも美味しいのだ。
一口パクッと。
「相変わらずいい仕事するわね~、ミーシェル」
美味しい美味しい、とあっという間に完食した。
「ごちそうさまでした」
と、今は村にいるだろうミーシェルに大きな感謝を述べる。
空を見ると太陽は森に入った頃よりだいぶ沈み始めている。
夜の森は魔物の活性化もそうだが、なにより迷う危険があるのでそれは避けたい。でもこのペースだったらきっと陽が暮れる前には村に帰れるだろう。
そんな事を考えつつ、しばらくボーッと大きな湖を眺め続ける。
すると急にアーティは勢いよく立ち上がり、
「巣までもう少し、頑張ろう」
自分自身に気合を入れ、森の奥へとその歩みを進めた。
それから一時間ほど歩いたところでアーティはカバンから紫色の液体が入った小瓶を取り出す。
その小瓶の蓋を開け、紫色の液体を地面に少量まいた。
すると紫色の液体は地面に触れるや否や吸収されたかのように一瞬で消え、代わりに人の足の三倍はある丸い楕円、足跡が黄色の発光で浮かび上がる。
「こっちね」
ラダラットは地中にあるグルシダの葉を手にもつ鋭い爪で掘り起こす。そのためラダラットの爪にはグルシダの葉の特殊な成分が付着しており、その特殊な成分と反応する液体をまけば足跡を追う事が出来る、というわけだ。
紫の液体を少量づつまきながら黄色く発光する足跡を追って数分、すぐにそれは見つかった。
一際大きな巨木にある大きな横穴、そしてその穴の奥にあるたくさんの黒い葉、グルシダの葉だ。
「見つけた。ラダラットは……」
どうやら家主は不在のようだ。
少し分けてもらうだけだからね、と巣の中の黒い葉に手を伸ばす。
しかし、アーティには一つだけ見落としがあった。
それは足跡の大きさである。ラダラットの足はどんなに大きくても人の足と同じかそれ以下で、三倍という大きさは異常だ。
不意に、自らの勘が後ろを振り向かせる。
そこにいたのはラダラット、ただし。
(大きい!)
怒り狂うラダラット、全長は人の三倍、アーティと比べたらそれ以上。
獰猛な雄叫びを上げ、突進の構え。
「これ、どう見てもおかしい。やっぱ今日はついてなかったかな」
「オオォォォォォォオオオ」
器用に後ろ足だけで立ち上がり、長い牙が並ぶ大きな口を空に向けて怒り狂う感情を吐き出す。人の三倍はあるその大きさは凄まじい迫力だ。
ラダラットは四足歩行、わかりやすく言えばネズミが巨大化したようなもで、ずんぐりした短い手足に長めの細い尻尾、大きさは牛か馬程だ。大きく力が強いが性格は温厚でこちらが何もしなければ危険はほとんど無い。
ただ、目の前にいるのは大きさが尋常ではない。
「や、やっぱ怒ってるよねー」
アーティは思わず一歩後ずさる。
と、すぐにラダラットの巨体が大きな地響きと共にすさまじい速度で突っ込んできた。
「うわっ」
それを大きく横に飛び込んで回避する。
ラダラットの頭が巨木に激突し大きな破砕音、すぐに葉や木片を舞い上げながら巨木がメキメキと派手に倒れる。
アーティにはここで逃げる、という選択肢が頭に浮かんだが、ウィランドの真剣な表情を思い出し、その考えを捨てた。
再びこちらへ突進姿勢をとるラダラットに向けヤッフェ白銀のナイフを構える。
「悪いけど、少し大人しくなってもらうね」
狙うのはラダラットの左前足、のさらに移動の起点となる大きな爪の付け根。
突進してくるラダラットに対してアーティは姿勢を思いっきり低くし、そのままの姿勢で地を蹴った。
真っ直ぐに迫るラダラットのわずか手前で、右足を軸に体を半回転、すぐ背後数センチに巨大な質量と風圧。
そしてラダラットが通り過ぎる前の刹那に右手で持つナイフを地面に深く突き刺した。
地面に刺さったナイフの刃が、走り抜けるラダラットの大きな爪とその隣の爪の間に入り込み、走る勢いそのままにラダラットの左前足を斬る、はずだった。
「え?」
横目で見るアーティは驚愕する。
空を舞う先の大きく欠けたナイフと、地面から数センチだけ出てる銀色に光る刃、そして同速度で走り抜けるラダラット。
それはナイフが折れた、という単純で、最も驚愕の結果だった。
「嘘でしょ!? 強化してあるナイフが折れるなんて、どういう」
どういう体、と言おうとして、再び突進してくるラダラットを大きく避ける。
異常な巨体に、強化したヤッフェ白銀以上の硬度。
おかしい、と思う他なかった。
ひとまず距離を空けるためにアーティは走る、が凄まじい速度で追うラダラットの脚力を前にしては一向に距離は広がらず、むしろ縮まっていく。
それを感じながら目の前の大木を視界に捉える。
アーティの視線が上を向いてすぐ、目の前にあった大木の根元を強く踏み込んだ。
さらに木の幹を一つ踏み、大きく伸ばした手が太い枝を掴む。そして重力を感じさせない軽やかさで三メートルの高さにある枝に自分の体を持って行った。
しかしそれを意に返さずラダラットは後ろ足で立ち上がり、鋭い右の爪を容赦なく振り下す。
が、同時に一歩大きく跳躍したアーティはラダラットの真上、その手に掴むのは斬り裂かれ舞い上がる一本の枝、をラダラットの右目に落下する重力と体重をかけて突き刺した。
「オォアァァァァア」
木の枝はラダラットの右目に突き刺さり、黒い血を吹き上げた。
「なっ、黒い、血!?」
それでもラダラットは攻撃の意思を止めず、それどころか敵意は強くなるばかりだ。
だがアーティはそれどころではない。
ラダラットの右目から流れる真黒な血を見ては何度も首を横に振る。
「黒い血……そんなはずない」
結論の出ない自分への問いを何度も繰り返す。
「でも」
(どちらにしても危険だ)
アーティは突進してくるラダラットを、真黒な血を睨む。
(ここで何とかする!)
アーティはカバンから黄色の液体の入った小瓶を取り出す。
小瓶の蓋を取り、勢いよく中身の黄色の液体を前方上空にまいた。
舞い散る黄色の滴が、木々の隙間からわずかもれる陽光に反射し、一斉に光を帯びる。
アーティは右手の五指を静かに開き、目の前に迫るラダラットに真っ直ぐに向ける。
「集え」
界素の構成は<水>。
アーティの右手がわずか光り、ラダラットの足元に突然、水の塊が出現する。
「降れ」
触媒で<火>を追加。
なお迫るラダラットに黄色い液体が触れた瞬間、触れた所から凍傷のように皮膚が赤くなってく。
「凍りつけ!」
ラダラットの足の水塊が黄色い液体に触れてすぐに凍り、そこから見る見る内にその巨体を氷が覆っていく。
<水>の“動”と<火>の“消失”を組み合わせた氷化術式の中では最も単純な術。
巨体の半分まで氷が覆って、とうとうラダラットの動きが止まる。
ごめんね、と一言。
誰にも聞こえない声と共に、氷がラダラットを覆い尽くし完全にその動きが止まった。
アーティは目をふせ少し考え込むが、すぐに巣へグルシダの葉を採りに行く。
木々の隙間から見える太陽はだいぶ沈んでいる。
今から急いでも明るいうちに帰れるかはギリギリになりそうだ。
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