第93話 記憶の空白
気を失ったタケルを抱えて、クシナダは川を下っていた。
先ほどタケルを放り込んだ池には明らかに人の手が入った痕跡があった。人工的なため池だ。
「ということは」
池をぐるりと回ると川に繋がっており、下流へと流れていた。おそらくこの下には誰かかが住んでいる。ため池を作るということは、何らかの作物を作っているはずであり、ため池を作るからにはかなりの労力が必要となってくる。近くに村があるとクシナダは確信した。
川に沿って山を下りながら、彼女はどうしてこんなことになったのかを考える。彼女の記憶では、タケルの調子は、新しい力を取り込もうとした辺りからおかしくなっていった。
前回の戦いで戦った時に、タケル、というか彼が持つ蛇神の剣は水と炎の二つの力に触れている。彼は、剣がその二つの力を取り込んでいるんじゃないか、と言った。自分たちが今操っている空気や電気が、元は敵が持っていた力を吸収して使えるようになったのと同じように、今回も炎や水を操れるようになるのではないか、と。それで、試してみよう、という流れになり、まずは、とタケルは剣を取って目を瞑った。前の時のように集中しているのだろう。そう思って眺めていた。次第に剣が夕日のように赤く発光し、次第に離れていたクシナダにまでわかるほどの熱気を帯び始めた。タケルの言っていた通り、火も操れるようになっている。
ここまでは良かった。焚火をするのが楽になったと喜んでいたのだが、その夜からタケルは体調を崩した。発熱に咳、クシャミ、鼻水、嘔吐、めまいと、完全に風邪の諸症状だった。ただの風邪ならそこまで厄介ではないはずだが、風邪引いている本人が厄介だった。じっとしていないのはまだ可愛い。クシャミするたびに制御不能になった炎の熱が手から噴き出して辺りを焼いたのだ。先ほど池に放り込んだところ、水中で盛大なクシャミでもしたのか池の水が蒸発するまでに至った。それですっきりしたらしく、今は大人しく眠っている。抱きかかえてみたらさっきまでの高熱も嘘のように引いていた。風邪を引いた原因は分からなければ治った原因もわからないが、好機だ。ともかく弱った彼を休ませなければならない。弱らせたのは自分ではあるが。
そんなわけで、クシナダは山を下っていた。池から降ること一時間。彼女の耳が物音を捉えた。枯れ枝を踏み折る音、土を蹴る音だ。かすかだが声も聞こえる。運がいい。人がいるのだ。クシナダは音のする方へと歩みを進めた。声の主はクシナダの方へと近づいてくる。この辺りで、彼女は首をかしげることになる。声は一人分。しかし、足音はどう考えても複数だ。それに、たまに聞こえるのは鉄と鉄がぶつかり合う硬い音。おそらく剣戟の音だ。戦っているのか? 前にも似たようなことがあったなあ、と過去に思いを馳せる。日数的にはまだ一年も経ってないが、ずいぶん前のような気がする。その頃は、こうやってタケルを担ぐなど考えられなかった。
懐かしいなあ、と当時のことを思い出していると、やがて彼女の目が近づいてくる人物を捉えた。
若い男だった。年は自分よりも少し上くらいだろうか。背が高く、引き締まった体躯の美丈夫だ。きりっとした切れ長の瞳が、焦りからか、それとも怒りからか吊り上り、目の前の敵を憎々しげに睨みつけている。特徴的なのは、男の頭部には三角形の、まるで犬や狼のような耳があり、尻にはふさふさした尻尾が生えている。
男が剣を相手めがけて振り降ろした。見事に相手の肩から胴を斬り裂く。
「くそ、ダメか!」
男がすぐさま剣を引き抜いて後ろへ飛んだ。切られたというのに、相手は意に介さず目の前の男に迫ったからだ。倒すことを諦め、再び逃げることを選択した男が振り返り、クシナダと目が合った。男は驚愕に目を見開くも、すぐさま我に返り
「逃げろ!」
と叫んだ。
「前にもこんなことがあった様な・・・」
クシナダが首を捻った。あの時も、敵に追われて逃げる男と出会い、逃げろと言われた気が・・・あ、アレはタケルの方だったか。
「何をしているんだ! 早く逃げろ!」
焦る男の声でクシナダは我に返った。逃げろと言われたからには何か危機が迫っているわけで、ぼうっとしている場合じゃない。弓を構えようとして、タケルを肩にひっかけたままなのを思い出す。どうしよう。一旦降ろすべきか。
迷う彼女を、男は強引に回れ右させようとして肩に手を置いた。
「え、ちょっ」
「いいから早く逃げるんだ! 俺が時間を稼ぐ!」
クシナダを押しのけ、男が再び敵と相対した。どうやらクシナダのことを恐怖で動けなくなったのだと勘違いしたようだ。見ず知らずの女性でも守ろうという気概は立派だ。
「いっ?!」
男の背中から覗き込むようにして、クシナダは敵を視認した。瞬間、彼女の背筋がぞわりと粟立った。以前も似たようなのと相対したが、それは遠距離からであったり、彼女の近くに到達するまでに仲間たちが駆逐していったからきちんとその姿、造形を観察してはいなかった。
しかして今回は敵を食い止める前衛はなく、彼女はその敵と相対する。この時ばかりは、彼女の優れている視力が本人にとって仇となった。
敵は二体とも腐っていた。本来目が合った場所にすでに目玉は無く、真っ暗な穴があるばかりで、しかもそこから虫が這いずり蛆が沸いた。白く見えるのは骨だろうか、内側からの圧力に負けた青や緑、鼠色した皮膚は裂け、肉がはみ出している。先ほど男が斬りつけたであろう裂傷からは内臓がポロリと零れ落ち、骨がプランプランしている。血は赤を通り越して黒く染まり、粘性を帯びて糸を引く。
俗にいう、ゾンビ、屍鬼の類だった。
「ひぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!」
あまりのおぞましさに、クシナダは悲鳴を上げた。いかに怪物たちと戦い続けてきた彼女であっても、生理的嫌悪感の前にすれば普通の女性のようになる。ただ、普通の女性の場合、以降はへたり込んで腰を抜かすか、全力で逃げ出すかを選択するのに対し、彼女はやはり普通とは違った。
「へ?」
間抜けな声を上げたのは男の方だ。背中に庇った女性が自分を追い越して前に出たのだ。呼び止める間もなかった。
迫りくるゾンビに対し、クシナダは錯乱しながら一歩踏み出した。そして
「近寄るなぁあああああああああああああああ!」
背中に担いでいた、相手を殴るのにちょうどいい大きさのものをフルスイングし、ゾンビに叩きつけた。バチュン! と水面を勢いよく叩いたような水っぽい音と共に、ゾンビの上半身が消えた。
「お前もだぁあああああああああああああああ!」
返す刀でもう一撃見舞い、もう一匹のゾンビが首だけ残して消えた。
ぜえ、はあ、と荒い息をつきながら、クシナダは掴んでいたものを手放した。どさり、という音に、はっと我に返る。錯乱状態だったため、自分が何で何をしたかよくわかっていなかったのだ。いつの間にか、彼女は肩から重みが消えていることに気付いた。
さあっ、と顔から血の気が引いた。恐る恐る、顔を今しがた、記憶にはないが自分が落としたであろう何かに向ける。
上半身が腐臭と腐肉にまみれた相棒の姿があった。
彼女は本日二度目の悲鳴を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます