第16話 彼の本音


 表紙の名前欄には、確かに立華の名前があった。

 紛れも無く司郎が書いた、少し右上がりので癖字で、『大道寺立華』と。


 だけど今。

 その立華の名前は、二本の線が引かれ消されている。


 そしてすぐ上には、同じ筆跡で別の名が――――『鷲ノ宮司郎』と、そう記されていた。


「どういうこと、でしょうか。この日記は、表紙に名前を書いた方の本音が、ノートに現れるというお話で……。私の名前をシローさまが書いたから、あ、あのように、私の心の声が書かれていたわけで……。じゃあ、このシローさまのお名前は……?」

「……言っただろ。俺は『最初に』、お前の名前を書いたんだって。『次に』俺は、お前の名前を消して、自分の名前を自分で書いたんだ」


 司郎がその行動を取ったのは、つい四日前のことだ。

 立華の心を覗いていた件を含め、ホンネ日記という厄介な道具にどうケリをつけるか。色々と模索していた際に、ふと思ったのだ――――例えば『自分の名前を書いたのなら、日記の効果はどうなるのだろう』と。


 言ってしまえば、それはただの思い付きである。

 そして司郎はまず、立華の名前を線で消した。あわよくば、こうしたらもう、立華の方の更新が止まらないかとも考えて。

 次いで自分の顔を思い浮かべ、自ら『鷲ノ宮司郎』と書いたのだ。


 普通に考えれば、日記は効果自体を発揮しないか、発揮しても書かれるのは、所詮は己の『本音』。


 単に司郎が、日常の中で感じたことが綴られる、何の変哲もない通常の日記になるのではないか。司郎はそう予測していた。


 ――――しかし。

 征一郎お墨付きの『ホンネ日記』の真の効力は、そんな甘いものではなかった。


「とにかく、6月6日よりも新しい日付のページを見ろ。そんでしっかりと読み込め。それで全部わかるだろうから。……いや、やっぱりしっかりは読むな。流し読みで良い。むしろ軽く目を通すだけにしろ」


 憮然と司郎がそう早口で言い放てば、ペラペラとページを捲る音が室内に満ちる。


 そして現れたのは――――



『6月9日(月曜日) 天気・快晴


 今日、立華のやつは学校に来なかった。

 やはりまだ熱が下がっていないのか。昔からアイツは、一度体調を崩すと長引くタイプだったから、悪化しているんじゃないかと不安だ。


 徹に「立華ちゃん、大丈夫かな。心配だな」と話しかけられたときは、つい「ただ風邪を拗らせただけで、大袈裟に騒ぐこともねぇだろ」と返したが。


 ぶっちゃけ、本当は心配で気が気じゃない。


 明日は登校できるのだろうか。またブレスレットの時みたいに、無理されても困るが……今は無性に、アイツの顔が見たい。ちゃんと無事な姿を確認しないと落ち着かねぇ。

 やっぱり日記とブレスレットを持って、明日か明後日のうちには見舞いに行こう。


 昼は久しぶりに徹と食堂に行って、好きなメニューを選んだが、何だか味気無かったな。

 立華の作る弁当の方が美味い。

 バランスや盛り付けも、アイツの方が上だな。ろくに褒めたことはなかったが、すげぇ料理の腕を上げたと思う。

 本当はもっと直接言ってやるべきなんだろうが……上手く褒められねぇし。

 でも間違いなく、アイツの作る弁当は、下手なシェフより美味しいし感心する。


 そういえば、あのストーカーもどきが言ってた、立華のファンクラブ? だっけか。

 徹に聞いたら、「え、知らなかったのか」って呆れた顔をされた。何だ、あの憐れむ目。俺だけ知らなかったって事実に、すげぇ腹立つんだが。

 ひとまず今日中に、危ない奴がファンクラブにいないかは、それとなく調べといた。

 ……立華はわりと、ぼんやりしているとこは昔から変わってないみたいだからな。俺に小煩く言うわりに、結構迂闊なんだよ、アイツ。


 まぁ最近は、立華の小言も前よりは煩わしくないが。

 むしろ、もっとちゃんと聞き入れるべきなんじゃないかとも、思い始めてはいる。……まだ反発していた名残もあって、簡単には受け入れられそうにはないが。


 それでもアイツの想いには、少しでも応えてやりたいとは思う。


 てか、何なんだろうな、アイツ。

 会わなかった間に、氷の女王なんかに転身したかと思えば、あんな暴走気味な内面を隠していて。ホンネ日記を最初に見たときには、軽く引いたし、戸惑いしかなかったのに。


 今ではそんなアイツのことを、俺は誰よりも、かわ――――』



「――――そこでとりあえず止めろ!」

「あっ! か、返してください、シローさま!」


 司郎は一旦、立華の手からホンネ日記を取り上げた。


 限界だった。


 自分で決意して立華に手渡したわりに、元より赤い顔をさらに赤く染め上げ、目の前で自分の『本音』を熟読する立華に、司郎の精神はついに限界を迎えた。


 体中の血液が沸騰しているのではないかと思うほど、全身が隈なく熱い。

 金の髪や制服のシャツですら、肌に張り付いてきて鬱陶しくて仕方がない。

 今の司郎は、立華に負けないくらい耳まで紅潮し、此処から逃走しないように、足を床に縫い付けるので精一杯だった。



 ――――ホンネ日記は人の深層心理にある『本音』を、日記形式で浮かび上がらせる、えげつないアイテムだ。


 ノートに記される内容には、嘘も偽りも無い。

 ありのまま、表紙に名前を書かれた人物の心の内が、赤裸々に余白を埋める。


 司郎は自分の名前を書いたことで、司郎自身も無自覚だった……いや、自覚することから『逃げていた』、己の立華への感情を、文字としてはっきりと突きつけられたのだ。


 最早、素直じゃない態度も、言い逃れも出来る余地はない。

 あれが、あんなのが。

 一日中、立華のことばかり心配したり褒めたり。彼女のことに意識を奪われている、あんな内面が。


 鷲ノ宮司郎の――――もう誤魔化しようもない『本音』だった。



 これを見たときの、司郎が真っ先に抱いた感想は一つ……羞恥心で、人は殺せる。



「残り半分のページは、俺が『お前の本音』を見てきた分、今度はお前が、『俺の本音』を見ていい。表紙の名前だって、俺が自ら書いたんだし、お前が後ろめたさを感じることもない。この日記はもう後でお前にやる。だからせめて今、本人の居る前でこれ以上は読むな……っ!」


 司郎は奪った日記を背に隠し、乱暴な動作で椅子に座り直した。


 立華にホンネ日記のことを明かし、謝罪する。

 そして今までの償いとして、今度は自分の本音を立華に晒す。


 そこまでが、司郎が自分の婚約者に対して、つけると覚悟した『ケジメ』だった。


 目論見通り、立華の方の日記の更新は止まった。6月6日以降は今日までずっと、あの恥ずかしいなんてものじゃ無い、司郎の本音だけがバッチリ更新されている。

 あれを毎日、これから立華が見ていくのかと思えば、何かもう跡形もなく消えたい気分だが、そこは堪えるしかない。


 これでようやく、お相子なのだから。


「……司郎様。ひとまず私に、その日記を渡してくださいませんか」

「嫌だ。読むのは後にしろって言っただろ」

「読みませんから。少し貸してください」


 まだ頬に赤みは残るものの、落ち着きを取り戻した立華は、司郎に蒲団の上から白魚の如き手を向けた。

 相手が焦っていると、自分は冷静になるというやつだろうか。いつの間にか、喋り方も流暢な響きに戻っている。


 淡々と催促する立華に、司郎は渋りつつ再び日記を手渡す。するとまた立華は、「良ければペンも貸して下さい」と言ってきた。


「ペン……? お前、なにするつもりだ?」


 訝しげに眉を寄せながらも、司郎はバッグからボールペンを取り出す。それを受け取って、立華は躊躇いなく、日記の表紙にペン先を走らせた。


 軽快な音を立てて、『鷲ノ宮司郎』の名前が、『大導寺立華』の名前と同じ、二本の線で消されていく。


「何してんだお前!?」


 呆気にとられる司郎。

 これでホンネ日記には、誰の名前も書かれていないことになってしまった。


 いや、まず司郎が立華の名前を書き、それを自分で消した。そうしたら日記の更新は止まり、次に司郎は、自分で自分の名前を書いた。すると司郎の本音が更新され始め、そして現在。

 立華が司郎の名前を消したから……。


「どうなるんだ、これ? なんか大分ややこしくなってきたな……」

「これで、司郎様の本音の更新が止まらなかったとしても、私はもう、この日記を開くつもりはありませんよ。……残念な気持ちは否めませんが。私には、こんな日記は必要ありません」


 その代わり、と立華は言葉を切る。

 そして心なしか、その黒水晶のような瞳に期待を滲ませ、伏し目がちに司郎を見つめた。


「直接、言ってください、司郎様。どんな言葉でもいいですから。あの日記に書かれていたような……その、司郎様が私のことを、お、想ってくださっていると分かるような。そんな言葉を、司郎様の口から言って欲しい……です」

「急に照れんなよ……」


 こっちが照れるだろうが! と、司郎はまた叫びたくなった。


 今日一日で、司郎は立華の新たな一面ばかりを見せられる。幼い頃でさえ知らなかった顔だらけで、本当に司郎は振り回されっぱなしだ。


 だけど、厳しい立華も、ハイテンションな立華も、自分と一緒に居たいと泣く立華も。

 司郎にわりと難しい要求を、照れながらもしてくる立華も。


 どれも『悪くない』と思っている時点で、司郎はこの目の前にいる婚約者様に、きっともう一生勝てはしないのだろう。


「……しっかり聞いとけよ」


 そして司郎は腰を浮かし、腕を伸ばして立華を正面から抱き締める。

 カチンと固まった、腕の中の彼女の身体は想像より細く、髪からは鼻孔を撫でる清楚な良い香りがした。



「立華は、俺の自慢の婚約者だ。お前はちゃんと……可愛いよ」



 吃らなかったのは、男として皇帝様として、最後のなけなしのプライドだ。

「ふふっ」と鈴を転がすような笑い声が、司郎の耳を擽る。



 そして司郎の可愛くない婚約者様は、綻ぶ大輪の華のように、ただただ幸せそうに微笑んだのだった。

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