第12話 雲のち雨

階段を一段飛ばしで駆け降りて、踊り場に着いたところで司郎はようやく、前を行く男子生徒の、男にしては華奢な肩を掴んだ。


 無様な悲鳴を上げて、眼鏡の彼は尻餅をつく。

 その際、その腕から零れ落ちたペンやハンカチに、確かに見覚えがあった司郎は、「やっぱりコイツが犯人か」と、乱れた息を整え男子生徒を睨みつけた。


 長身の司郎に見下ろされ、見た目のまま気弱な性格らしい少年は、ヒッと喉をひくつかせる。

 タキシード姿も不格好で、丸眼鏡に素朴な顔立ちの彼は、何処からどう見ても草食系……いやもう、草食を通り越して草だ。しかも観葉植物とかの隅に生えてそうな感じの。


 こんな害の無さそうな少年が、あの立華相手にストーカー行為を働いていたというのだから、世の中分からないものである。


 ひとまず事のあらましを聞き出そうと、司郎が彼の胸ぐらを掴もうとした矢先。

 意外にも、勢いよく口火を切ったのは少年だった。


「ま、待ってください、鷲ノ宮くん! 絶対、絶対何か誤解してますよね!? きっとたぶん、僕のことを大導寺さんのストーカーだとか、そんな感じに思ってますよね!? ごめんなさい誤解です。僕はそんなんじゃないんです!」

「あぁ? どっからどう判断してもストーカーだろうが!」

「だから違うんです! お願いですから話を聞いてください!」


 土下座でもしかねない勢いに押され、些か昂ぶりが削がれた司郎は、仕方なく少年の話に耳を傾ける。


 ……彼の話を纏めるとこうだ。

 何でも彼は、立華と同じ委員会に所属していて、密かに彼女に憧れを抱いていたと。

 これは司郎の知らぬ話であったが、立華は一部の生徒に絶大な人気があり、ファンクラブ染みたものまであるそうだ。あの冷たい態度が良いのだという。


 少年もその内の一人だが、決してお近付きになりたいとか、ましてや悪質な行為など働くつもりは微塵も無く。

 ただ偶々、委員会の会議で立華が置き忘れたペンを、少年が見つけたのだと。

 それを返す機会をずっと窺っていたが、なかなか憧れの立華に話しかける勇気が出ず。ハンカチに関しても、立華の周りをうろつく内に、彼女が落としたのを拾っただけなのだと。


「つまり何だ? お前は結果的に、物を返すためにアイツに付き纏う形になっていただけで、ストーカーでは無いと」

「そ、そうです! 大道寺さんって意外と抜けているとこがあるというか、いやそこも素敵なんですけどね! 僕自身も薄々、『あれ? これってストーカーっぽくない?』とは思っていたんですが、憧れの彼女にどう話しかければいいか分からず……あ、良ければ鷲ノ宮くんから、これとそれ、返しておいてくれると助かります!」

「……くっだらねぇ。というか紛らわし過ぎる!」


 いそいそ薄桃のハンカチとペンを差し出す少年に、その粗末な真相を明かされた司郎の方は、心の底からもう一度「くだらねぇ」と吐き出した。

 とんだ茶番にも程がある。


「大体なんだ、アイツにファンクラブって。そんなに物好きがいるのかよ」

「わ、わりと有名な話ですよ? 僕みたいな見守りタイプが多い感じですが。鷲ノ宮君、婚約者の癖にそんなことも知らないんですか?」


 ことのほか歯に衣着せぬ少年の物言いは、司郎の神経を逆撫でしたが、ここは言い返すことが出来なかった。


 ――――司郎は立華のことを何も知らない。

 それは確かな事実だったからだ。


 ファンクラブ云々のことだけでなく。

 キツイ態度の裏側であんな内面を隠していたことも、変に抜けているとこが昔と変わらぬことも。

 ずっと自分のために弁当を作っていたことも、あげたブレスレットを宝物のように大事にし続けていたことも。

 ホンネ日記の存在が無ければ、きっと一生司郎は知らぬままだっただろう。


 その事実がまた、司郎の胸中に嫌な苦味を広げていく。

 しかし、ふとそこで彼は、眼鏡少年を追い掛けていた本来の目的を思い出した。


「おい、じゃあお前、アイツのブレスレットは?」

「え、ブ、ブレスレット?」


 きょとんと首を傾げる少年に、司郎も訝しげに金糸の睫毛を瞬かせる。


「お前がブレスレットを盗んだ犯人じゃねぇのか?」

「だからそんなことしませんて! た、確かに具合の悪そうな大道寺さんが、大事そうにそれらしきモノを持って、保健室に入って行くとこは見ましたが……。僕は心配で、保健室の周りをうろうろしていただけです。無実です、無実!」

「じゃあ誰が……」


 ストーカーの件は片付いても、ブレスレットを取り戻せなければ、司郎が全力疾走した意味がない。

 少年が嘘をついているようにも見えず、難しい顔で腕を組む司郎に、おずおずと少年は口を開く。


「あの、でも。大道寺さんが休んでいる間に、一人だけ保健室に入っていった人は居ましたよ。すぐに出てきて、今思えばちょっと挙動不審だったような……」

「……それは誰か、特徴とかは分かるか?」

「あ、はい。というか、あの人はたぶん、鷲ノ宮くんの――――」


「司郎!」


 新たな情報を司郎が聞き出す前に、階段の上から不意に聞き慣れた声が降って来た。反射的に顔を上げれば、タキシードの袖を捲り上げ、切羽詰まったように呼吸を荒くする徹の姿が。

 驚きどうしたのかと司郎が尋ねる前に、彼は胸を上下させながら、次の厄介事を告げる。



 立華の姿が消えた、と。



●●●



「くそっ、アイツ、あんな酷い体調で何処行きやがった!」 


 外履きに履き替え、中庭を目指して、司郎はまたしても走っていた。

 水分を孕んだ灰色の雲からは、ポツリポツリと点のような雨が落ちてきている。整えた髪は乱れ、上質なタキシードの生地には水滴が沁み込んでいくが、そんなことを構う余裕など、今の司郎には無かった。


徹が少し目を離した隙に、立華が保健室から失踪したというのだ。


 ブレスレットが無いことに、あれほど取り乱していた彼女の事だ。起き抜けに自分の身体のことなど顧みず、探しに行ったとしか考えられない。

 目立つ赤いドレスが、中庭の方へ向かっていたという目撃情報を聞き、司郎はこうして此処まで来た。


「! いたっ!」


 雨粒を受け止める花弁を無数に開かせた、紫陽花の咲き誇る花壇の側。

 いつも二人で弁当を食べていた木製のベンチで、立華はぐったりと座り込んでいた。


 慌てて司郎が駆け寄って様子を見れば、移動中に力が尽きたのか、彼女は気を失っているようで、瞳を閉じて小さく呼吸を繰り返している。

 木陰のおかげで雨粒を凌げているが、彼女のせっかく着飾ったドレスや髪は、水と跳ね返った泥でぐちゃぐちゃだ。


 何してんだ、このバカ。

 熱があるって分かってんのかアホ。

 大人しく保健室で寝てろよボケ。


 そんな陳腐な文句が司郎の口から飛び出しかけたが、眠る立華にそんなことを言っても仕方ない。

 代わりに司郎は、届くことはないとは思いながらも、「ブレスレットは必ず見つけてやるから、さっさと戻るぞ」と、それだけ呟いた。


 もうブレスレットの在処……盗んだ犯人にも、司郎には心辺りがある。あの少年からしっかりと聞き出したあとに、司郎は立華のことを追ってきたのだ。


 本当に、ここ最近は可愛くない婚約者様に振り回されっぱなしだ。


 深々とため息をついて立華を背負い、遅れて傘を持ってきた徹と一緒に、司郎は校舎に向かって歩き出した。



 結局、今年もダンスは一緒に踊れそうにないなと、そう思いながら。

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