第11話 事件発生?
保健室から出てきたのは、まさに目的の人物である立華だった。
一瞬で視界を染め上げるような、鮮やかなワインレッドのドレス。体にピタリと張り付くデザインは、スレンダーな彼女の体つきを上手く引き立てていて。艶やかな黒髪を高く結い上げ、派手になり過ぎない上品な化粧を施した様さまは、本物の『女王様』を彷彿させる、高貴な女性の色香を醸し出していた。
そんな婚約者様の華々しい正装姿に、司郎は不覚にも数秒魅入っていたが、すぐに正気に戻って首を傾げる。
開始時間に送れそうで焦っているというには、司郎が来た方向とは逆に走り去ろうとする立華の様子は、それ以上に鬼気迫るものがあった。
普段、日記のホンネは別として、表面では冷静沈着で毅然とした態度の彼女が、ここまで取り乱すなんて。
司郎は慌てて彼女の背を追い、そのか細い腕を後ろから掴んだ。
「おい、どうしたんだよ。何かあったのか?」
「司郎様……?」
――――振り向いた立華の表情は、頼り無げに情けなく歪められていて。
『氷の女王』と称されるような冷たさはそこにはなく、まるで迷子の幼子のような、不安を滲ませた弱々しい彼女の姿に、司郎は思わず息を飲んだ。
本当に、一体何があったというのだろうか。
近くでよく見れば、立華の瞳は潤んでおり、薄らと涙の膜が張っている。顔色も化粧の上からでも分かるほど、お世辞にも良いとは言えなかった。触れた腕は小刻みに震え、何処となく嫌な熱を持っている。
「は、離してください、司郎様。私は今すぐ、アレを探しにいかなくちゃ……っ」
「おい、落ち着け! お前これ、熱があるんじゃないのか。それに、探しに行くって何を……」
「……頭が痛くて、ソファーで休んでいたんです。ほ、保健室の先生は居なくて、私一人で。ほんの少し、目を瞑って休んだら会場に戻るつもりで。でも、途中から身体の怠さが増して……気付いたら、意識を飛ばしていたみたいで。そ、そしたら、その」
寝起きと熱で頭が朦朧としているせいか、それに加え不測の事態による動揺もあってか、彼女の説明はたどたどしく要領が悪かった。まるで遠い昔の、喋り下手だった頃のようだ。迷い無く話す現在の立華とは、明らかに様子が異なる。
それでも司郎は根気よく耳を傾け、何とか内容を噛み砕いていく。
「意識を飛ばして、それでどうしたんだ」
「わ、私、ソファに腰かけてから、膝の上に『アレ』を置いておいたんです。ふ、古いものだったから、保健室に来る前に金具が緩んで外れてしまって……休んだら付け直そうと思って。でも、お、起きたら無くなっていたんです」
「その『アレ』ってのは何だ」
「アレは、し、司郎様から貰った大切な……っ」
くしゃりと、彼女の顔が悲痛に崩れる。
そこで司郎はようやく、何が起こっているのか全貌を把握した。彼女が此処まで平静さを欠いている理由も。
話を簡単に纏めると、要は立華が保健室で休んでいる間に、外して置いておいた――――恐らく司郎が婚約の証に、幼い頃に彼女にプレゼントした、あの『ブレスレット』が無くなっていたと、そういうことだろう。
ホンネ日記のおかげで、司郎は彼女が今日、アレを付けてきていることを知っていた為、その辺りの理解は早かった。
司郎は焦りが伝染しそうになるのを押さえて、務めて冷静に彼女に問い質す。
「ちゃんと探したのか? 床に落ちてたりとか……」
「探しました。でも何処にも無いんです! も、もしかしたら、頭痛が酷くて記憶が曖昧だったから、置いたのも気のせいで何処かで落としたのかも……とにかく、探さなくちゃ。早く、早く見つけなくちゃ」
「! おいっ!?」
半分我を忘れている立華は、司郎の腕から逃れて再び駆け出そうとする。
しかし彼女の体調は、そうこうしている間にも悪化の一途を辿っていたようで。ドレスを纏った細い肢体は、ぐらりと重力に引っ張られるように斜めに傾いた。
それを、固い床に倒れる前に、司郎は辛うじて受け止める。
司郎の胸に顔を預ける立華は、荒い息を吐き出して、額に薄らと汗を浮かべていた。もはや、ダンスどころかブレスレットを探せる状態でもない。
にも関わらず、「探さなきゃ。アレは司郎様から貰った大切なものなんだから……」と、譫言のように繰り返す立華に、酷く居た堪れない感情が込み上げて、司郎は奥歯をキツク噛みしめた。
あんな玩具みたいな腕輪一つに、どうして此処までコイツは必死なんだ。
無意識に、司郎は立華の肩を抱く手に力を籠めていた。
とにかく、今は彼女を安静にさせることが優先だ。
司郎は立華の軽い身体を横抱きにして(俗に言うお姫様抱っこというものだ)、無人の保健室に駆け込んだ。髪型やドレスが乱れることなど、気を使っている場合ではないので、そのままベッドに彼女を寝かす。
布団をかけて、ひとまず先生を呼んで来ようと、司郎は急いで身体を反転させた。
――――その折の事だ。
保健室のドアの隙間からこちらを窺う、小柄で大人しそうな男子生徒と、司郎のブルーの瞳がバチリと合った。
「っ!」
瞬間、脱兎の如く逃げ出す男子生徒。
彼が何者なのか、何故こちらの様子を覗き見るようにしていたのか、一切分からず司郎は疑問符を浮かべる。得体の知れない誰かに構っている状況ではないので、捨て置けばいい話だが、妙に司郎は逃げた彼のことが引っかかった。
次いで浮かんだのは、日記や樹から情報を得た、ここ最近の立華の周辺で起こっている不可解な出来事の数々だ。
彼女に付き纏う不気味な視線に、無くなったというハンカチにペン。
先ほどの挙動不審な男子生徒の様子を思い出し、司郎が導き出した答えは一つだった。
…………先ほどの彼こそが、立華の周りをうろついていた言うならばストーカーで、ブレスレットを盗んだ犯人なのではないかと。
そこから判断は一瞬だった。
司郎は一度だけ立華の方を振り返り、「クソッ」と悪態を溢す。そして逃げた彼の後を追って、保健室から勢い良く飛び出した。
途中で運良く擦れ違った、これから会場に向かうところらしいタキシード姿の友人に、司郎は手短に立華のことを言伝て、徹にも話が行くようにしておいた。気の回る親友に伝われば、彼女の方は何とかしてくれるはずだ。
只ならぬ司郎の様子に、友人はすぐに了承してくれた。
そうこうしている間に、犯人の姿を見失ってしまったが、向かった方向は分かっている。司郎は友人に礼を告げ、再び全力で足を動かした。
何故こんなにも、自分は一心不乱に走っているのか、自分でも分からぬまま。
それでも間違いなく。
弁当の件で立華を捕まえに追いかけたときと同じ。あるいはそれ以上に、司郎は今、立華の為だけに走っていた。
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