第8話 婚約者様の弟様
朝起きて、司郎は忘れていることがあった気がするが、それが何かまでは思い出せなかった。ぶっちゃけそれどころでは無かったのだ。
完全に寝坊したのである。
寝起きの悪い司郎は、目覚まし時計に加えて、スマホの大音量アラームが無ければ自力では起きられない。だけど生憎、彼のスマホは壊れて爆睡中だった。
司郎を起こす任を授かった、例のウサギゴムの新人メイドは、「とても心地よく寝ていたので……」と、声をかけることすらしなかったらしい。彼女に使用人頭から、二度目の雷が落ちたことは言うまでもない。
「くっそ、厄日……いや厄月、下手したら厄年かもしれねぇ」
中庭のベンチに背を預け、司郎は気だるげに、抜けるような青空を仰いだ。
もう梅雨入りを前にしているはずなのに、空気は優しく日差しは暖かい。司郎の憂鬱とは裏腹に、太陽は頭上で何処まで明るく輝いている。
――――結局、急いで準備し車を飛ばしてもらっても、遅刻は遅刻だった。
徹を筆頭に、友人たちからは『寝ぼけ皇帝』と揶揄され、案の定、婚約者様には「鷲ノ宮家の長男ともあろう方が!」とお小言を喰らった。
スマホもまだ修理に出してないので壊れたままだし、本当に散々である。
なお、その婚約者様は今日、委員会があるとかで昼を共にすることは出来ないらしい。弁当だけを渡して、心なしか残念そうに(たぶん日記を見れば、残念どころか『司郎様との昼を邪魔しやがって! 委員会爆発しろ!』くらい嘆いてそうだが)去ってしまった。
なので昼休みの今。
司郎は弁当をからかわれるのが嫌で徹のとこにも行けず、ベンチで膝上に桜色の弁当箱を広げて、一人でランチタイムを送っている。
自然と身についてしまった、正しい箸使いで魚のフライを解し、それをモグモグと粗食する。魚類はあまり好きではないのだが、それでも立華の創るフライは美味しかった。
そんなふうに弁当に舌鼓を打ちつつ、ぼんやり景色を眺めていた司郎はふと、少し離れた花壇のところで、一組の男女が何やら盛り上がっているのを見咎めた。
話声までは聞こえてこないが、時期と状況的に、男がダンスの誘いをして女がそれを受けたといったとこか。
遠目でも分かるくらい、二人は楽しげな様子だった。
「花舞宴か……」
脳裏に立華の顔と、『司郎様とダンスを踊りたい!』と言っていた彼女の本音が浮かび、司郎はポツリと言葉を落とす。
ダンスの相手選びにも、そろそろ着手しなくてはいけない頃合いだ。立華と踊るかどうかも、いい加減答えを出さなくては。
山積みの問題に、司郎はここ最近増えた溜息を、また深々とついてしまった。
「溜息をつくと、幸せが逃げるそうですよ、司郎さん」
「!?」
突然、背後から掛けられた声に、司郎は驚いて振り返った。
いつの間にそこに現れたのか、ベンチの背を挟んで真後ろに立っていた少年の存在に、司郎は目を剥く。
それは随分久しぶりだが、決して見知らぬ顔ではなかった。
「
「はい、いつも姉さんがお世話になっております」
――――彼の名は大道寺樹。
何を隠そう、司郎の婚約者様の弟である。
「ああ、本当に姉さんの手作り弁当を食べているんですね。ちゃんと司郎さんに渡せているようで安心しました。まぁおかげで俺は、最近姉さんの弁当を貰えず、お腹を空かせていますが」
「……自分の分も食べてるんだろ」
「俺、大食いなんです」
そう冗談めかして言うわりに、樹の表情は動かない。
昔はコロコロと表情が変わる立華と、似てない姉弟だと思っていたが、今の鉄仮面の彼女と脳内で並べてみたら、なるほど瓜二つだった。
陽光を受けて艶めく黒髪も、細身な体型も、何となく可愛げのない雰囲気も、嫌になるくらいそっくりである。
「此処は高等部の敷地だぞ。そんなことを言うために声を掛けてきたのか? あと、俺を見下ろすな」
「偶々用事があって通りかかったら、司郎さんの姿を見つけたので、少し世間話でもしようかと。話といっても、主に姉さんについてですが。見下ろすのがダメなら、横に座ってもいいですか?」
答えも聞かぬうちに、樹は後ろから回り込んで、司郎の隣に腰かけた。マイペースな黒猫のようなところも、幼い頃から変わらない。
姉の方はあんなに変わったのになと、司郎は内心で皮肉を零した。
「近頃の姉さんは、学校に行くのが楽しいようです。昔と違って分かりにくいですが、あれで姉さんは、司郎さんと昼を食べられて嬉しいんだと思いますよ」
「アイツ、家族にも日記みたいな本性は見せてないんだな……」
ボソッと思わず出た呟きを、樹の耳は拾わなかったようだ。彼は眉一つ動かさぬまま、淡々と話を続ける。
「司郎さんとの仲も良好なようで、俺としては何よりです。あ、でも」
「何だ?」
「……気付いていますか、司郎さん? どうも最近、姉さんを付け狙う人物がいることを」
声のトーンを落として囁かれたその内容に、司郎は息を呑んだ。
これは日記に書かれていた、あの『謎の視線』のことだろう。
「あ、ああ、まあな。俺も気に掛けているつもりだ」
「助かります。姉さんも勘付いてはいるのですが、あれで昔から結構抜けているとこがありますから。……それと関連しているかは分かりませんが、どうも姉さんのお気に入りのハンカチとペンが無くなったという、嫌な出来事もあったみたいで」
「! お、おい、それってストー……」
「ストーカーなのかは、まだ判断出来ませんが。警戒しておいて損はないでしょう」
何やら爽やかな天気にそぐわない、どうも暗雲漂う話だ。想定していたよりも芳しくない事態に、司郎は密かに焦りを募らせる。
すっかり箸の動きを止めて、真剣に考え込み出した司郎に、樹は涼やかな目元をスッと細めた。
「……姉さんは確かに、昔に比べてしっかり者になりましたが、同時に人に頼るということも、一切しなくなりました。弱音も不安も、表に出すことはありません」
「まぁ……そうだな」
「それにはきっと、何か理由や原因があるんだと思います。弟の俺でも、姉さんにどんな事情があったのかは分かりません。ただ、えっと、『氷の妖精』? でしたっけ?」
「クリオネか。氷の女王な、女王」
「ああ、それです。氷の女王なんて呼ばれてますけど、姉さんの本質はきっと、言うほど変わってはいませんよ。俺としては偶に、無理に気を張っているようにも見えて、少し心配なんです。だから、司郎さん」
――――俺の分までちゃんと、姉さんのことを見ていてあげてくださいね。
どうかよろしくお願いしますと、急に殊勝な態度で頭を小さく下げた樹に、司郎は反応に困ってしまった。
それでも彼の真剣さを感じ取り、答えに窮しながらも、司郎は了承の意を込めて頷きを返す。
「ありがとうございます」と、それに対し満足そうに口の端を緩めた樹の表情は、数日前に立華の見せた笑顔とよく似ていた。
「さて、そろそろ俺は行きますね」
しれっと立ち上がって身形を直す彼は、またいつもの無表情に戻っている。
そのまま立ち去るかと思いきや、「あと最後に」と、サラサラの黒髪を揺らして司郎の方を振り返った。
「今年こそは、姉さんを花舞宴に誘ってあげてください。平気なふりしてますが、たぶん去年一緒に踊れなかったこと、姉さんは残念がっているはずですので。司郎さんから誘ったら、きっと喜ぶと思います」
「……余計なお世話だ、マセガキ」
「姉想いなだけですよ。お二人が無事に一緒に踊れることを、俺はひっそり祈っています。それでは」
そう言って樹は、今度こそ司郎の前から去って行った。
残された司郎は、まだ半分以上ある弁当に視線を落とし、釈然としないわだかまりを感じつつも考える。
『花舞宴』は、来週の金曜日。
もうちょうど一週間後だ。
お相手を選んで声を掛けるとしたら、今日が決め時というやつであろう。
「司郎様……? まだこんなとこに居たのですか?」
「もう授業が始まる時間ですよ」と、次いで後ろから声をかけて来たのは、まさに話題の中心にいた立華だった。委員会は終わって、教室に戻るところだったのであろう。
代わる代わる現れては、何かと振り回してくれる姉弟だ。
まるで計ったかのようなタイミングでの立華の登場に、もしや樹がダンスに誘いやすいようにお膳立てしたんじゃないよな? とか、司郎は下手な勘繰りまでしてしまう。
しかし、誘うとしたら今しかないのもまた事実。
この機を逃せば、司郎はまたうだうだと余計な思考のループに陥り、『誘う、誘わない』の問答を一人繰り広げることになるだろう。
此処はもう、男らしく腹を括るしかなさそうだ。
「授業に遅れてはいけませんよ。今日はただでさえ遅刻して、心象が悪いのですから。もっと節度ある行動を心がけて……」
「……なぁ、急で悪いんだが」
「何ですか、話を遮らないでください」
司郎のモヤモヤした気持ちなど露知らず、お説教染みた言葉を飛ばしてくる立華の言葉を、今日ばかりは綺麗に無視をする。
そして首を後ろに向けて、彼女に視線を合わせながら。
司郎は異様な気恥ずかしさに耐えて、ようやく口を開いた。
「その、お、お前の相手が、まだ余裕があるならでいいんだけどさ。――――花舞宴は、良かったら俺と踊ってくれねぇか?」
――――その日の夜。
開いた立華のホンネ日記の内容は、過去最高の文量とハイテンションで、司郎にダンスに誘われた喜びが綴られていたのであった。
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