第7話 日記の注意書き

 部屋に入ってきたのは、裾の長い上品なメイド服姿の、二人の使用人だった。

 一人は古くから鷲ノ宮家に努める使用人頭。もう一人は、以前にウサギの髪ゴムを司郎に貸したこともある、新入りの年若い女性だ。

 角度も完璧なお辞儀をして、先に厳格な雰囲気の使用人頭が口を開く。


「夜分遅くに申し訳ありません、司郎様。実は先ほど、夜間の見回り当番だったこの子が、リビングに置き忘れていた司郎様のスマートフォンを見つけ、お届けしようとしたのですが……」

「スマホ?」


 言われてようやく、司郎は手元に自分のスマホが無いことに気付いた。夕食後にリビングでくつろいでいた時にでも、机の上に放置したままにしていたのだろう。

 うっかりしていたなと思いながら、手渡された機器の黒い画面を、指先で何気にタッチする司郎だが。


「? 反応しない。電源……も入らねぇな」


 シンプルだが質感の良いケースに包まれた司郎のスマホは、うんともすんとも反応しなかった。

 夕食後の段階では、問題なく使えていたはずなのに。


 首を捻る司郎に対して、新入りの女性は蒼白な顔で頭を下げる。


「も、申し訳ありません、司郎様! 私が手にした瞬間に、ちょうど旦那様からお電話がかかってきまして。びっくりして私ったら、そのっ」

「スマホを取り落とした上に、近くにあったピッチャーを倒し冷水を浴びせ、慌てて取り上げて拭こうとしたら、今度は手がすべって床に叩きつけ、さらに動揺して思い切り踏みつけてしまい、司郎様のスマホを大破させたのだそうです」

「奇跡的なドジだな」


 青褪め狼狽する部下に替わり、使用人頭の女性がした説明に、司郎は呆れが先立ち怒る気力さえ沸かなかった。そこまでのコンボを喰らったら、いくら最新機種のスマホとはいえ息を止めるだろう。


 何度も謝罪を述べて頭を下げる新入り女性に、司郎は軽い注意だけを行ない、さっさと部屋から出て行ってもらった。

 どうせこのあと、彼女は厳しい上司から雷を喰らうだろう。司郎の方はもう叱る気にもなれない。


 それより気になったのは、スマホの修理をどうするかと、『旦那様からの電話』……つまり征一郎から司郎に対して、連絡があったという点だった。


 父からの電話自体については、頻度は少ないが、珍しいというほどでもない。緊急の用件があった際や、息子に対して急にオカルトトークをしたくなったときなど、征一郎は外国に居ても時差など無視して、わりと気軽にかけてくる。


 ちなみに割合的には、緊急二割、オカルトトーク八割だ。

 つまり司郎にとっては、ほぼどうでもいい電話が多い。


 家電でも使って掛け直すべきかという考えも過ったが、緊急ならむしろあちらから家の方にかけるだろう。 

 それならもういいか、どうせ『人魚の涙を手に入れた!』とか、そんなんだろう。

 そう思って、司郎は心停止したスマホを乱雑にベッドへ放った。


 立華に絡む謎の視線に、ダンスの相手選び。それにスマホの修理まで加わり、重なった憂鬱事に眠気も相俟って、司郎は一旦すべてを投げ出し布団に転がる。

 日記を手に入れてから厄介事や気苦労が増えつつあるのは、気のせいでも何でもなく、紛れもない事実だ。

 やっぱり親父のオカルトアイテムなんて碌なもんじゃないと、司郎は疲れたように瞼を下ろした。


 しかし。


 『厄介事』とは総じて、続くときは本人の与り知らぬ場所でも、何かしら進行しているものである。そしてそういう事こそ、後に取り返しのつかない事態になる可能性が、わりと高かったりもする。

 ……あくまで可能性の話ではあるが。


 ――――疲労のせいですぐに睡魔に襲われ、父からの電話のことなどすっかり忘れて、寝落ちした司郎は知らなかった。


 父の電話の内容がまさにその『ホンネ日記』に関することで。

 それなりに重要な『日記の注意書き』について、司郎に忠告をしようとしていたことなど。


 このときの司郎は少しも知らなかったのである。



●●●



 ところ変わって、某国のとある高級ホテルの一室。

 最上階に位置する俗にいうスイートルームで、征一郎はスマホを片手に、困ったように眉を寄せていた。


「うーん、急いで伝えた方がいいと思って電話したが、タイミングが悪かったか? どうも繋がらなさそうだな……」


 革張りのソファに身を沈め、やれやれと嘆息する。

 息子に電話をかけてもなかなか出ず、ついには唐突に通信をブチ切られたのだから、溜息の一つも出るというものである。


 征一郎は一度スマホから手を離し、画面から正面にあるミニテーブルに視線を移した。

 そこには本日手に入れたばかりの、征一郎曰く『お宝』、息子の司郎曰く『胡散臭いオカルトグッズ』の数々が、ところ狭しと並んでいる。


 照明の橙色の灯りに照らされている、禍々しい装飾の『過去が映る魔女の手鏡』に、不吉な音を奏でる『死のオカリナ』、本当に生まれたらどうするんだという『銀竜の卵』などなど。

 これらの珍品はすべて、今日この国で行われたオークションで、征一郎が競り落としたものだ。


 どれも曰くつきのレア中のレアな品物ばかり。

 仕事の合間を縫って無理にでも参加した甲斐があったと、それらを眺めて征一郎はほくそ笑む。

 もちろん、これらの品を手に入れたことが一番の収穫だが、他にも彼は貴重な『情報』も、お宝と一緒に手に入れていた。


 ――――オークション会場には、以前、征一郎に例の『ホンネ日記』を譲った人物も来ていたのだ。


 その彼もまた、別の収集家コレクターから譲り受けたらしく、最近になって新たに、日記に関する逸話を聞いたという。

 それがまた伝言ゲームのように、征一郎に伝わったのだ。


 曰く、あの日記の最後の一ページには、とある『注意書き』が書かれているらしい。

 それはとても難解な文字で、さらには暗号になっているとか。教えてもらわなければ、征一郎もその内容を知ることは永遠に無かったであろう。


 そして、その肝心の内容だが。



「いや、怖いなぁ。あの日記を最後のページまで使い切ったら、日記の所有者は『一生ホンネしか喋れなくなる』なんて」



 そうなったらすげぇ生き辛くなるなと、彼は素直な感想を漏らした。


 現に、他にも数冊存在するらしい同じ日記を悪用して、私欲を肥やしていたとある要人が、最後には心の内を曝け出しきって破滅した……という噂も、あったりなかったりするそうだ。この辺りは曖昧だが、日記の力が本物であることを考えると、あながち嘘でもなさそうである。


 自動更新なので一度日記を使ってしまえば、あとは日付が進むうちに、トントン拍子でラストページまで辿り着いてしまうだろう。

 おまけに燃やしても破いても、書かれたところまで復活して、必ず手元に戻ってくるホラー仕様。

 「呪いのアイテムらしくていいなぁ」と、征一郎はニヤリと口角を上げた。

 酷く楽しげな様子の彼も大概、趣味が趣味なだけに変人である。


 だが決して、呪いを回避する方法が無いわけではない。


 使い出してしまっても、最後の一ページに行き着くまでに、日記の更新を止める方法はたった一つだけあるそうだ。

 息子が本音しか喋れないアホになったら、流石に征一郎的にも困る。

 なので呪いを避ける方法も、しっかりと聞いておいた征一郎は、今の日記の所有者である息子に、逸早くその話を伝えておこうと電話したのだが。


「家の方にかけるか? メールを入れる……のも、手間だがアリか。さて、どうするかな」


 お宝観賞をひとまず終え、征一郎は再びスマホを掌に収める。

 しかしよく考えてみれば、そもそも司郎があの日記を、はなから使っていない説もあるのだ。


 ホンネ日記をあげた際の、あの息子の疑惑の目を思い出せば、勉強用ノートとして使用している可能性の方が、恐らく高いのではないだろうか。表紙に名前さえ書かなければ、あれは至って普通のちょっとボロいノートだ。

 もし万が一誰かの名を記していても、日数とページ的に、まだ余裕はありそうだし。


 そう急いで伝えなくてもいいのか? と、征一郎が思い直していたとき。


 彼のスマホから、お化け屋敷にでも使われてそうな、おどろおどろしい着信音が鳴った。

 相手はどうも司郎ではなく、征一郎のオカルト仲間のようだ。


 そういえば、今日は別の珍品の取引を仲間に任せていたことを思い出し、征一郎は気軽に電話に出る。


「……ん、どうした? 確か今日は、『人魚の涙』を先方から受け取る日だっただろう。こちらの方は、オークションで素晴らしい数々の品を手に入れだぞ。早く人魚の涙も並べてみたい……って、は? 先方が急に渋り出して、品を渡してくれない? どういうことだ、もう話はついていたはずだろう。渡すのが惜しくなった? もっと金を積まなきゃ渡せない? ……ふざけるなよ。わかった、もういい。今から俺が行く。場所的に一時間もあれば着くだろう。それまで場を繋いでおいてくれ。俺が直接交渉する!」


 あの業突く張りめ! と悪態をついて、征一郎はソファにかけてあったオーダーメイドの上着を羽織り、足早く部屋を出た。

 どう相手を言い包めようか、むしろその後の処置もどうしてやろうか、そんなことで頭がいっぱいになった彼は、ホテルを出る頃にはもう、『ホンネ日記の秘密』のことなど片隅に追いやってしまっていた。



 ――――こうして、ある意味では可愛くない婚約者様と同じくらい、父ともすれ違ってしまった司郎が、日記の全貌を知るのはもう少し先の話になる。

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