第5話 一人分の隙間から
『5月23日(木曜日) 天気・晴れ
今日は私の身に、度重なる奇跡が起きた。
まずはミラクルその一。
司郎様から話しかけられた!
お昼の時間に、「今日も弁当を渡せなかったな……」と負け犬よろしく中等部に向う私に、走ってきた司郎様が声をかけてくれたの。
もうこれだけでレア。超レア。落ち込んでた気分も一気にハレルヤ。
首に伝う汗と荒げる息まで眩しい司郎様に呼び止められて、足どころか一瞬呼吸を止めかけたわ。
そして、ここからミラクルその二。
司郎様が。あの前世は一国の王子か、確実に神的存在だった司郎様が。
ついに、ついに私の弁当を受け取ってくださった!
妄想じゃないよね? あれ現実だよね? 今でも信じられない。
なんか偶々私が、弁当を二つ持っているのを見かけたんだって。今日は食堂が混んでいたから、良かったら分けてくれないかとか何とか。舞い上がり過ぎて半分も聞いてなかったけど! とりあえず食堂は、もう一生賑わってくれていたらいいよ。
しかも今日は司郎様の好きな、エビフライやハンバーグもバッチリ!
ちょっとお子様味覚な司郎様も可愛いよね! でもバランスも重視して、野菜のソテーも待機してますよ!
だがしかし。
またしても私は、「お口に合うか分かりませんが、苦情は受け付けませんよ」とか、余計な発言を添えてしまった。そして弁当を押し付けて逃走……せっかくの今世紀最大のチャンスを!
ここは可愛く「本当は司郎様の為に作ったんです」とか、勇気を出して「何ならお昼をご一緒しません?」とか言っとけば良かったのに!
バカだ、私は本物のバカだ!
いや、でもまだいける? まだ遅くない?
司郎様は明日、私に弁当箱を返しに来てくれる。やった明日も話しかけて貰えるラッキー……じゃなくて! それをキッカケに、明日こそ一緒にお弁当を食べられないか誘ってみるのよ、立華。
今こそ料理の腕と勇気を奮う時! 念願の二人でライチタイムをゲットだ!
……司郎様、お弁当は美味しく食べてくれたかな』
そんな日記を見た次の日。
5月23日、金曜日。わた飴のような雲が悠々と漂う、晴れ渡る空の下。
司郎と立華は並んで、中庭の木製のベンチに座っていた。
といっても、二人の間には微妙な距離がある。その隙間はちょうどあと一人分ほど。そんな間を空けて腰掛ける二人の膝の上には、お揃いの桜色の弁当箱が広がっていた。
――――ここでこうして、立華と司郎がお昼を共にしている理由は、元を正せば立華にあるが、実は彼女を実質的に誘ったのは司郎である。
日記の中ではあれほど、「明日は司郎を昼に誘う!」と息巻いていた立華であったが。
結局彼女は、司郎から空の弁当箱を受け取る際に、珍しく歯切れの悪い様子は見せたものの、普段の小言を返しただけで、何も言い出そうとはしなかった。
司郎からすれば「誘わないのかよ!?」である。
昨日の彼女を追い掛けて捕まえた時点で、司郎は一緒に弁当を食べることになるのは、自然の流れだと覚悟していたのだ。受け取って終わりは、流石に無いだろうと。
だが立華は、司郎の即席で考えた些か苦しい言い訳を聞いて(実際には半分も聞いていなかったらしいが)、弁当を渡すだけ渡し、取りつく島もなく踵を返して行ってしまった。おかげで司郎は、徹のとこに行くにも行けずぼっち飯である。
だが帰って日記を見れば案の定、本当は司郎と一緒にお昼を食べたかったという、彼女の本音が綴られていた。
だけど今日も、アクションを起こすのに失敗したらしい立華に、司郎はまたしても葛藤したのだ。
これは俺から誘うべきなのか、と。
そして彼女が去り行く、その数秒間で悩みに悩み倒し、司郎は「きょ、今日も弁当を分けてくれないか? どうせなら、その、い、一緒に食おうぜ」と、自分でもどうかと思うほど視線を泳がせなから、誘い文句を口にしたのである。
――――しかし、そのことを彼は現在、猛烈に後悔していた。
「……」
「……」
二人の間に広がるのは無言。
ただひたすらに無言。
小鳥の囀りや木々のざわめきさえも、明瞭な音として響いてしまうくらいの沈黙が、司郎と立華の間には横たわっていた。
おい、何か喋れよお前。
偶にこっちをチラッと窺う癖に、何でいつも小煩い口の方は、今は閉店中なんだよ。日記でははっちゃけてるのに、何だこれ。ここ最近で一番気まずいぞ! 話題、なんか話題を探さねぇと……っ!
そんなふうに、箸を宙で遊ばせながら、司郎は窒息しそうな空気の中で懸命に頭を働かせていた。心地よい風が司郎の頬を撫でるが、それに気分を良くしていられる心のゆとりは無い。
ポッと脳内に浮かんだのは、今頃は食堂で別の友人と食事をしているであろう、親友の姿だ。
何処から情報を得たのか、徹は今日、司郎と立華が二人でランチをすることを知っていた。
「どうしてそんな展開になったかは分からんが、今日はお前、立華ちゃんと昼を食べるんだって? しかもお前から誘ったらしいじゃないか。昨日の弁当も立華ちゃんのお手製だったんだな。いやぁ、羨ましい。俺? 俺のことは気にすんなよ。俺はのんびり今日も、食堂で食うからさ。後はお若い二人だけでよろしくやってくれ」
そう言って、人の良さそうな顔を最大限にニヤつかせた親友の、腹立つこと腹立つこと。思わず司郎は、彼の薄い背中に蹴りを入れかけた。
そのニヤケ面を思い出して、本当に日記を手に入れてから散々だ……と、司郎がその端整な顔を歪め、緩慢な動作で弁当のロールキャベツに箸を伸ばした時。
意外にも、沈黙を破ったのは立華の方だった。
「……司郎様。先ほどから、食事はあまり進んでいないご様子ですね。好き嫌いはいけませんが、無理して食べきらなくてもいいですよ。私の弁当が嫌なら、残してくださっても結構です」
暖かい空気にそぐわない、冷えた大きな瞳に、普段より何処か重々しい口調。
その刺さる物言いに、つい司郎も喧嘩腰で「別に嫌とか言ってねぇだろ!」と返しそうになるが、彼は思い直し、寸でのところで口を閉じた。
これは、彼女の本音ではないのだ。
立華だって、恐らく気まずいのは同じ。
今の発言はそれを打破しようとして、またつい憎まれ口を叩いてしまっただけなのでは?
それに日記と照らし合わせ、今の言葉の裏や、こちらの様子を窺っていたことを考えるとどうだろう。彼女は、司郎が自分の弁当を美味しく食べられているか、ずっと気になっていたのでは、とも推測出来る。
そこで司郎は自分が、弁当の感想を一言も言っていなかったことに気づいた。
沈黙が重くて箸は進んでいなかったが、少し食べただけでも、彼女の弁当は悔しいが旨かった。司郎の苦手なものもイイ感じにアレンジされていて、問題なく口に運べたし。見た目もこだわりがあって綺麗だ。
今日もまた、司郎に食べてもらえるかもしれないと思い、立華が気合を入れて作ったのが伝わってくる。
「……くそ」
短く悪態をついて、司郎は深く息を吐き出した。
そしてロールキャベツを口に放り込み、ゆっくりと咀嚼してから腹を括り、隣の立華の方に顔を向ける。
「無理とかしてねぇよ。その、わりと、いや普通に、あーじゃなくて……結構、美味しいし」
「!」
「もらった弁当を残すわけねぇだろ、お前もさっさと食えよ」
褒めるってどうやるんだっけ?
てか俺、語彙乏しくねぇ?
他の女子相手にならもっと気の利いたことが言えるのに、司郎は己の拙い感想に、何だかやるせなくなってしまった。なまじ本音なんて知ってしまった為、本当にやり辛いと、彼の眉間の皺は深くなる一方だ。
だけど、立華の方は。
「……それなら嫌いなものも、ちゃんと残さず食べてくださいね」
彼女は薄く色づく唇をほんの少しだけ緩め、今では能面のようになってしまった表情に、ほんの一瞬だが、笑顔らしきものを浮かべた。
口調も、言っていることは相変わらず棘があるのに、心なしか柔らかい印象を受ける。
そんな立華の刹那の変化に、司郎はアイスブルーの瞳を真ん丸に見開いた。
本当に瞬きの間だが、昔の立華と日記の中の立華、そして今目の前に居る立華の姿が、綺麗に重なったような気がしたのだ。
――――さらには。
可愛くない婚約者様に対して、一ミリでも可愛いと感じた自分が信じられず、司郎は背中に嫌な汗をかきながら動きを止めた。
「聞いていますか、司郎様?」
「え。ああ、まぁ」
「まったく、お弁当がずり落ちるところでしたよ。しっかりしてください。それと司郎様、箸の使い方が正しくありませんよ。鷲ノ宮家の人間として、そんな滅茶苦茶なお箸の持ち方は褒められたものではないです。今すぐにでも矯正してください」
あ、やっぱり気のせいだったわ。
普段の調子に戻った立華に、司郎は一気に肩から力が抜けた。
立華のことをほんの少しでも可愛いと思うなんて、春の陽気に当てられてアホなことを思ったものである。
それからは無心に、司郎は弁当を食べ続けた。
……ただ少しだけ、箸の持ち方は意識して直しながら。結局彼は立華の隣で、彼女の弁当を米粒一つ残さず食べきったのだった。
そんな二人の様子を、離れた校舎の陰からジッと見つめる存在には、最後まで気付かずに。
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