ユメサガシ 第一章「恋し草」

Sepia Factory

第1話 恋する天才

 午前8時10分、連日のきびしい日差しは何処へやら。今日は天気がいいのにも関わらず冷たい風が朝のホームに流れていた。近くのマンションからは布団を叩く音が聞こえている。

 空は青く、白い雲が流れていた。

 珍しく電車を待っている須藤健太だが別に乗り遅れただけの事であって、決していつも乗るはずの電車を待っていると言うわけではなかった。汚くくすんだベンチに腰掛けながら天気がいいのにも関わらず「ふ~」っと小さなため息をつく、須藤健太であった。

 今日もやってしまった電車の乗り遅れ。

 朝、起きられないのが唯一の悩みであり、意志の弱さの象徴でもあった。自分への情けなさがため息に現れ、無気力感を感じているのだった。

「あぁ、眠い」

 目は半開きなのにも関わらず、口だけは一人前に開くのだった。

 それでも前向きな言葉は出てこない。情けないフレーズだけが次々と脳に浮かびは言葉と発して消えて行く。

 母親の久美子も半ば諦め気味だ。でも、我が息子。健太のことを想うとどうしてもいつものように怒鳴ってしまうのだった。

『若いのに朝からボケ~っとして、シャキッとしなさい』

『もう、猫背になって…何回言えば分かるの』

 分かっちゃいるさ。分かってはいるけど、どうしてもこうなってしまう。情けないと自分でも思う須藤健太であった。

 視線はうつろでどこを見ているのか。どこを見たいのか、謎であった。

 ふと横を見ると同じ名古屋行きであるホームの先に女子高生が電車を待っていた。その女子高生はPHSを右手に持ち、電話をしていた。ストラップについたキティ―ちゃんが赤く光りながら揺れていた。

 学生服を着た須藤健太は野嶋高校3年。大学受験を控えた受験生だ。

 毎日毎日、勉強に圧され苦しいとは思いながらも仕方ない、そう気持ちを入れ替え机に向かっている。受験生のツラさが分かるか、キティ―ちゃん。勝手に日頃のうっぷんをその女子高生に心の中でぶつけるのだった。

 すると、ふと落ち着いたりした。

 光るキティ―ちゃんは笑顔だった。

 古錆びたスピーカーがブルブルっと震え、ホームにアナウンスが入る。

「まもなく2番線に電車が参ります。白線の内側にお下がりください」

 待ちに待った1本遅れの電車。

 須藤健太は遅刻しませんように、と心の中で祈るのだった。そんな健太の気も知らず、名古屋行きのホームには静かな表情の電車が滑り込んできた。

「来た、来た」

 時計を見た。分かってはいたが、やはりそこには紛れもなく眉間にしわが出来る程の現実。乗るはずの電車に乗っていれば今頃は悠々と校門を過ぎる頃だ。理想と現実の乖離はハンパなかった。

 慣れっことは言え、ちょっと心配になる健太であった。

 ホームに現れた電車にはたくさんの人が乗っていた。

 みんな遅刻しそうなんだと、この人たち全員と気持ちを分かち合えば少しは気が安らぐんではないかと思う須藤健太。そう言う意味での満員電車は大いに結構だが、そんな訳はない。片手程の味方はいても、全員な訳がない。やはり憂鬱が勝るのだった。

「扉、閉まります。ご注意ください」

 ぎゅうぎゅう詰めの車内。目の前で閉まった扉。息をすると扉が白く曇った。

 この状況下で流れる景色を見続けた所で気分は晴れない。逆に気分が悪くなる。健太は学校付近の駅となる『中部環状鉄道・佐々桜崎駅』まで目を閉じることにした。すると、耳に意識が集中したせいか、聞こえてくる人々の声。話題はどうやら先日の大震災、阪神大震災の話題であった。

 中部環状鉄道は小さな私鉄なので車両が古く汚い。この電車に乗った後に新幹線に乗ると、とても大きな幸せを感じるくらいだ。これぞ些細なことだが大きな幸せと言うやつだ。

 電車が切り替えポイントを抜け、線路が真っ直ぐになると少しづつではあるがスピードを上げた。少しの間、電車は静かにコトンコトンと走った。

 しばらくしてアナウンスが流れた。

「次は米野、米野です」

 電車はホームに入り、停車するために徐行スピードまで落ちた。

 健太の乗っている側の扉は開かない。もっと速く走って、こちら側の扉が開くホームで早く止まってくれないかと思う、須藤健太であった。

「ここが米野だから、次にこちら側の扉が開くのは…」

 4つほど先の『佐島駅』であった。とても白く綺麗に塗られたホーム、見た目だけでオアシスを彷彿させる。ま、しかし今の健太にとっては新鮮な空気が吸える場所であればどこでもオアシスであった。

 我慢すること15分。ついに佐島駅が健太の目の前に現れた。

 扉が開くと同時車内から一歩外へ出て深呼吸をする健太。

 何だか空気に味を感じるようであった。

「扉、閉まります。ご注意ください」

 もう閉まるのか。そんな想いで再び車内へ戻る。目の前には先程と同じ電車の扉があった。健太はガタンと言う音と共に身体を左右に揺られた。電車はゆっくりと動き出した。次の駅は工業地帯の真ん中に位置する『吹田駅』だった。たくさんの人が乗り降りをする。佐島駅とは打って変わり、外へ出ても空気が上手いとは思えない場所なだけに残念に思う健太であった。

 流れる景色を見ながら、目をつむろうかな、どうしようかな、と考えているうちに景色はたくさんの緑がある街から、真っ黒な空気が支配する街への変貌していった。

 電車の進行方向にはたくさんの煙突が見え、そこからはモクモクと黒煙が立ち上っていた。

 そして、電車はスピードを落として、吹田駅のホームへと滑り込んだ。

 ホームには予想通りたくさんの人がいた。

 そして、ふと顔を上げるとそこには須藤健太の親友となる大矢祐司の姿があった。祐司も健太に気付き、扉が開くと当時に隣へと飛び乗った。

「よっ」

 朝から上機嫌な大矢祐司。

「おっ」

 相変わらずの須藤健太。

「多いね、ここは」

「ま、ね。住宅地と工業地に挟まれた駅だから」

「だね」

 大矢祐司は中学校から同級生で、似た者同士の仲であった。趣味も性格も似ており、もっと言えば成績も背丈もほとんど同じであった。それ相当の相違点があると言えば、祐司の物理、健太の化学と言った所だろうか。2人とも理科が得意なのだが、専攻が違った。

 扉が2人のギリギリで閉まり、電車は駅を出た。

 降りた人の出来たスペースに乗り込んできた人々。辺りを見渡せば大幅なメンバー交代ではあったが、状況は変わらず満員。窮屈に違いはなかった。

 祐司がふと左を覗き、冷房になびいている吊り広告をみて言った。

「すごかったよな、揺れ」

 先程と同じ話題だ。祐司も同じことを言うのだった。

 日本中を震撼させた今世紀最大の惨事であろう。

「だな。どこもかしこもその話題でいっぱいだよ」

 健太は眠い目を擦りながら答えた。

「どこもかしこもって?どこが?」

 車内のメンバー後退もあってか、今その話題を話している人は祐司を置いて他にはいなかった。そこから説明をしなければならないのか、勘弁してくれよ、と思いながらも話をしようと祐司の方を向いた。

 祐司は答えを待っている表情で健太の方を覗き込んだ。

「ね?」

「だってさ、テレビとか新聞とか雑誌とか、どこもかしこもじゃん」

 車内の説明をするつもりだったら、咄嗟に最適な答えが口から飛び出した。この場を取り繕うにはこれぞまさにベストアンサーであった。

 朝っぱらから親友とは言え話をしたくない気分であったが、一通り震災の話をしながら車窓から外を眺めていた。

 共に高校3年生。震災の話をするなんて、祐司も色々と考えているんだな。同感する部分もあったが、逆に教えられる部分もあった。

 さ、話もひと段落。健太は目をつむった。しかし、祐司は話をやめようとはしなかった。実はこの話には続きがあったのだ。

 ついつい健太の耳がピクリと動いてしまった。

 シマッタ。

 健太はゆっくりと目を開け祐司を見る。祐司はニヤリと笑った。

「気になるだろ」

「でもさ、失礼じゃないか。向こうは大変なことになっているのに」

 何かを隠そうとしてか、健太はムキになってしまった。祐司も確かに失礼だとは思いながら、再び吊り広告に目をやった。文面を見るだけで現状の惨事が伝わる。大げさな表現も踊っているがテレビで実際の映像を目の当たりにして、それは事実であると感じた。

 それは惨い事実であった。

 そんな2人の間には重苦しい空気が流れていた。事実は受け止めなければならない、何百キロとしか離れていない、この地に住む僕たちは笑っていていいのだろうか。

 そう思う。

 でも、あの話題は気になる。ワクワクしてしまった。

「でもさ、それって本当なのかな?」

 健太が聞くと祐司は頭を傾げて答える。

「じゃないの。担任が言ってるんだし」

「あれは何となくだろ。感触をつかむって言うか。決定ではないだろ」

 そう言って健太は車窓から流れる景色をみた。

 すぐ横を線路に沿って国道が通っており、そこを車が走っていた。電車とかけっこするように走る車。だが、車は一時停止で止まり、窓から遥か彼方へ消えて行った。健太は車を追って、首を振った。

「あれでなんとなくか?」

 考え込む祐司。

 車を追って遥か彼方を見つめたままの健太。その視線の先はまだ見ぬ少女を追っていたのかもしれない。

「だって、神戸の家が全壊して、避難所生活なんだろ。だから当面の間、娘さんと息子さんの2人は名古屋のおじさんとこに引き取られた、って話じゃないか」

「だね」

「えっ?」

 余りに冷たい健太の反応。でも、祐司には分かっていた。いかにも僕は関係ない、と言った、健太のこの仕草。この話にこの上なく興味を抱いている証拠であった。

 こいつ無理してっな、と思う大矢祐司であった。

 そんな祐司の隣で目をつむる須藤健太。お前にはカワイイ彼女がいるじゃね~か、でも、俺にはいね~んだよ。ここで祐司に興味を悟られてはマズイ。ひとり戦略会議を開くのだった。

 少したってガコンと言った音がして電車がスピードを落とす。

 佐々桜崎駅であった。

 扉にへばりついていた健太。ひとりの女子高生が目にとまった。やっぱりな、と思う健太。ホームには大矢祐司の彼女が笑顔で立っていたのだった。

 扉が開き、電車から飛び降りた祐司は健太を後ろ目に、その彼女のもとへ走った。こんな光景を目の当たりする位なら、遅刻してでも一本遅らせたいと冗談気に思う。その反面、うらやましくも思う。

 彼女の名前は山下優花。山のふもとに咲く優しい花。両親はそんな意味を込めて名付けたのだろう、そう思わせる綺麗な少女であった。

 優花は健太と祐司と同じ高校で、一年生からの付き合いだった。今は同じクラスのクラスメイトだ。

 祐司の顔にはニタニタと締まりがない。先程までとは別人のようであった。

「おはよう、ゆっか」

 優花は祐司の額を人差し指でつついた。

「電車、乗り遅れたの?」

「うん。ゴメン」

 優花が健太の方を向く。

「おはよう、けんちゃん」

「おはよう、ゆうちゃん」

 ニコッと微笑む優花。やっぱりゆうちゃんの笑顔にはいつも救われるな。

 そうだ、高校一年生のときも3人は同じクラスで、ある日、絵画の個展で偶然出会ったのだった。優花が同じクラスにいることは知っていたが、話す機会などなく、健太にとってはこの時が優花とのファーストコンタクトであった。

初めて会ったときも笑顔が綺麗だな、と感じた。そんな風に思って見ていたら、知らないうちに祐司と優花は付き合っていたのだった。

「そういや、大阪の子。興味あるよね」

 そんな嫉妬心からか、悪ふざけた冗談が健太の口から飛び出す。優花が極度のやきもち焼きであることを知っての行動であった。

 祐司は健太の冗談に『その冗談、冗談じゃね~よ』と目で訴えながら、改札へ歩き出す。

「どういうこと?けんちゃん」

「え?」

 優花のスイッチを入れるには、その一言で十分だった。

「変なこと言うなよ。この、ウソつきめ」

「ウソじゃね~だろ、そっちが初めじゃないか」

 少し早足となっている祐司。

 それに追い付こうとする優花だが、健太の一言も気になり振り返る。

「おい。逃げるのか!」

 健太はひとり、2人から遅れをとる形で歩いている。

 優花が健太を気にして足を止めた。

「何やってんだよ、ゆうちゃん」

「でも、祐司が」

 ニコッと笑う健太。不安を覗かせる優花。

「大丈夫。叱っとくから」

 祐司を悪役にしたまま、健太は優花の手を握った。

「しゃ~ね~な、行くぞ」

 優花はこの学校でも上位の優等生だ。真面目でしっかりとした女の子だから遅刻なんかしたことがある訳ない。いや、させる訳にはいかない。

 天気は晴天。2人の間を風が横切る。優花の長い髪が健太の手に触れた。風の悪戯が健太を味方する。ここまで接近したことは初めてだった。悪い気分はしない。でも、優花は祐司の彼女だ。溢れそうな想いに蓋をした。

 優花は自分の腕時計を見た。もう次の電車がホームに入ってもおかしくない時間であった。

「ね、けんちゃん。これって間に合うの?」

 健太はいつものこと、別にどうってことはないが、優花にとっては初めてのこと。悪友・祐司には困ったものだ。

「走れば間に合うよ。この時間で今ここだから」

 目の前の信号が青に変わる。

「さ、行くよ、ゆうちゃん」

 健太は優花の手を取り、校門へ向かってダッシュした。

 そして、優花は初めてだからと言って遅刻を免れた。

 一方、健太はいつものように遅刻となった。

 祐司は間に合ったようだが、その後、優花に問い詰められることになったのは言うまでもない。



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