13 始
「市子、久しぶり」
入院の最後の週にわたしを訪れたのは佐々木佳織だ。佳織の結婚前の苗字は林で、わたしの高校時代のクラスメートで友人。
「大変だったわね。大丈夫なの」
「どうにかね。佳織の方は何事もなさそうでいいわね」
「来年、娘が幼稚園に入学するわ。息子の方は小学校」
「じゃ、これからが大変ね」
「まあでも、わたしも主人も元気だから」
「それが何よりだよね。入院してみるとつくづくと思うわ」
「で、今日は珍しい人を連れて来たから」
勿体をつけて佳織が言う。
わたしから死角になったカーテンの陰に誰かがいることには気づいていたが、それか誰かがわからない。
「誰よ」
「昔、市子が好きだった人」
「ああ、お久しぶり」
何となく予想はついたが、カーテンの陰から現れたのは林佳哉だ。年相応の変化はあるが、概ね十五年前と変わっていない。
「でも、どうして」
わたしが訊いて佳織が答える。
「本当に久しぶりに海外から戻ったんで連れて来たのよ。わたしの結婚式のときにだって帰国しなかったのに」
「海外が長いんですか」
わたしが佳哉さんに直接問う。すると佳哉さんがわたしに答える。
「行っては戻り、戻っては行きの繰り返しですね」
「すごいですね」
「でも、もう飽きましたよ。この先は会社を変えて日本にいたいです」
「日本での就職は甘くないわよ」と佳織。
「佳哉さん、ご職業は何ですか」とわたし。
すると佳織が割り込んで説明。
「日本語の講師なのよ。海外ではね。だから、こっちに帰ってきたら英語を教えるって言ってるけど、甘いわよね。一応国語教師の免許は持ってるけど、それだけじゃあ」
「わたしに訴えられても困るわよ。で、何時頃落着かれる予定なんですか。こちらに」
「それはまだ未定です。でも来春を目指しています」
「ならば、すぐですね」
「お兄ちゃん、まだ独身なのよ。現地妻は一杯いたらしいけどさ」
「じゃ、きっとその人たちが返してくれないんだ」
「参ったな。そんな人たちはいませんよ」
「お兄ちゃん、嘘ばっかり」
「向こうに恋人が一人もいなかったとは言いませんがね。でも懲りることがあって」
「いいですね。佳哉さんは相変わらずモテて。わたしなんか未だにさっぱり」
「市子ね、不倫してたのよ。もう別れたから話すけど」
「佳織、アンタさあ」
「えっ、そうなんですか」
「嘘ですよ、嘘。佳哉さんの場合と同じで尾鰭がついているだけなんです」
音でしか知らない林佳哉の『ヨシヤ』を漢字の『佳哉』に変えるため、わたしが奔走したのは遥か昔だ。結局大学に侵入し、掲示板から知ることになる。佳織に聞けばすぐわかったのだが、当時のわたしに出来たのは、せいぜい紛い物のストーカー行為だったらしい。
「市子さんは相変わらず可愛いのに不倫じゃもったいないな」
「だよね。お兄ちゃん、その点は市子を評価しているから」
「でも冗談だったんでしょう」
「冗談じゃありませんよ」
「本当に」
「本当ですよ」
「市子とお兄ちゃん、これからでも付き合えばいいのに。どうせどっちも一人身なんだし」
「佳織、そんなに簡単に言わないでよ。恋愛するとなるとパワーがいるからね」
「今入院中だしね」
「明後日、退院よ、やっとだわ」
「あら、そうなの、おめでとう。でも怪我の割には早かったんじゃないの。でも一月か」
「市子さん、突き飛ばされたんですってね。怖いなあ。今や日本の治安も信用できない」
「いや、まだまだ諸外国より良い方だと思いますよ」
「ああ、いっけない、もうこんな時間。市子、悪い。これから娘の英会話の予定があって、家までとんぼ返りして連れて行く時間ギリギリなんだ」
「それはお前がノンビリ着替えをしてるからだろ」
「もう、お兄ちゃんは黙っててよ。で、お兄ちゃんは市子の相手をお願いね。どうせ暇なんだから面会時間ギリギリまでいたっていいわよ。じゃあね、市子、また」
慌しい身振り手振りで佐々木佳織が病室を去る。それで残されたのがわたしと佳哉さんの二人。その日、四床の病室ベッドで患者がいるのは一床だけ。明日には二人入ってくるらしいが今日まではわたしの個室のようだ。
「もう何年も前からですが、日本では医療費が高騰しているので――病気の種類にもよりますが――病院側も日数を減らす方向に動いているところが多いみたいです。日本の入院日数は全世界でもとりわけ長いのを佳哉さんはご存知ですか。最近に至るも一月近くで、次に長い韓国でも約二週間、個人負担が大きいアメリカだと数日から一週間未満ですね」
「妹から市子さんが医療関連の企業に就職したことは伺っています」
「もう過去のことだから言ってしまいますけど、あの日、わたしは佳哉さんを愛してしまったんですよ。佳哉さんはまったく気づかなかったと思いますが」
沈黙。
「申し訳ないけど初めてあなたと会ったとき、あなたはまだ子供だったじゃないですか」
「ええ」
「だからわたしはあなたをベッドに寝かせた。そうでなければ妹を呼んで連れて帰ってもらったはずです」
「わかりますよ。今のわたしならば。そして今日こうして佳織が佳哉さんをここに連れて来てくれたのが、きっと罪滅ぼしのだろうということも。わたしから半分恋人を奪ったことへの」
「半分恋人ですか。まあ、意味はわかりますが」
「でも半分は半分なんですよ。それを全部にしなかったのはわたしのせいで佳織は少しも悪くない。……というより佳織に魂胆があったにせよ、佳哉さんと今話せているのは、あのとき佳織がわたしを佳哉さんに会わせてくれた遠い結果なんです」
「わたしは良い男ではありませんよ」
「ええ、わかります。だって佳哉さんはそんなに男前なんですから。更に魚で、しかも逆人魚」
「それも男のね。市子さんの方は女の逆人魚だから正統派」
「佳哉さん、お子さまはいないの」
「わかりません」
「じゃ、その辺りはお魚ですね。無数の卵に精子をかけ捲って後は知らない」
「ははは。そうかもしれないですね」
「わたし、佳哉さんが過去の妻たちか子供たちの誰かに殺されないだろうということがはっきりしたら、希望を持つかもしれません」
「市子さん、それ、愛の告白に聞こえますよ」
「だって、わたし可笑しいんです。入院して以来ずっと頭がヘンなんです」
「そうですか。でもヘンでもいいじゃありませんか。それが自分であるならば、たとえ一般常識から見比べたときにヘンであっても一向に構いません」
「本当に」
「本当に。市子さん、やはりあなたは面白い人だ」
「いいえ、魚なのよ。そして逆人魚。だからヘンであってもヘンじゃない」
わたしは一体何を口走っているのだろう。
目を瞑ると、わたしのベッドの横の佳哉さんのいる位置には逆人魚に変わった佳哉さんがいて美しい。ついでゆうるりと目を開けると、そこにも逆人魚のままの佳哉さんがいて、美しいままうっとりしっかりとわたしを見つめている。ごめんね、鹿山さん、わたしはやっぱり佳哉さんが好き。あなたのことも好きだけど、あなたも素敵なお魚だけど、でもやっぱりわたしは佳哉さんが好き。(了)
逆人魚の恋 り(PN) @ritsune_hayasuki
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