12 授
そのまま暫く横になり、気持ちをわずかに落ち着かせてから、
「済みません。ご迷惑をかけてしまって」
と謝ると佳哉さんは、
「ちょっと驚いたけど、迷惑ってほどじゃないから安心して」
と応える。それで調子に乗って、
「マグリッドがお好きなんですか」
と訊ねると、
「ああ、市子さんもかい」
と言いつつベッドの斜交いの位置にある本棚から一冊を抜き、わたしに渡す。
もちろんルネ・マグリッドの画集だ。
わたしが自分の胸の上の掛け布団の上に画集を乗せてパラパラとページを捲っていると、
「おれもそっちに行く」
と、さすがに布団の中にまでは入らなかったが、佳哉さんがベッドに横たわる。わたしの左側にやって来る。そのまま一緒にページを捲り、当然のように『集団発明(La durée poignardée)』のところで止まり、二人して逆人魚をつくづくと眺める。眺めるだけで会話はない。会話はないが、海があって、水際の陸には逆人魚が横たわる。それでわたしは勘違いしてしまったのだろう。だが、その前にすうっと眠りに落ちてしまう。ハッと気づいたときには夕闇だ。余りに居心地が良過ぎたのだ。
「市子さん、お寝覚めかい」
薄闇の向こうから佳哉さんの甘い声が聞こえ、
「わたしったら、ああ、済みません、済みません」
「毎回謝らなくていいから」
「ええと、遅くなったみたいなので帰ります。それで、あの」
えーい、市子、言うだけでも言ってみるのよ、ダメ元でしょ。
「もし良かったら、わたしを送ってくださいませんか」
さすがに自宅までとは口に出来ない。それでは虫が良過ぎるだろう。
「いいですよ。市子さんの勇気の記念に」
それでわたしはベッドから起き上がり、身繕いしてトイレも借りて、佳哉さんの部屋から外に出る。アパートから駅までの道程が十分弱しかないのが残念だ。しかも共通の話題がないので碌な会話も出来ずに駅に着く。
時刻はその時点で午後五時過ぎくらいだろうが、辺りはすっかり暗い。
切符を買ってから逡巡していると、わたしの目の先に立つ佳哉さんの目が唆す。家まで送って欲しいと切り出せ、と唆す。だから思い切って、そう言うと、
「これから用事があるから半分だけ」
という答が返る。それで、わたしは切符で、佳哉さんは定期で改札を抜ける。その先佳哉さんと一緒だったのは、たった二駅先のターミナル駅までだが、別れてわたしが盛り上がる。佳哉さんの温もりが消えて寂しくもあるが、それ以上に気持ちが盛り上がる。
その後、実家の夕飯にはギリギリ間に合い、特にお咎めもなくその日が終わる。妄想だらけの一日だ。翌日、止せばいいのに、わたしが佳哉さんのアパートに向かう。電話番号を聞いていなかったので直接出向くことにする。当時携帯電話の普及率はほぼ五割だったはずだが、わたしも佳哉さんもまだ持っていない。わたしはともかく、佳哉さんにとってもまだ高価だったのだろう。
日曜日の朝は晴天で、わたしが九時前に家を出る。アパートについて佳哉さんがいなかったら上水公園でも散策しようかと考えながら。約一時間後に佳哉さんの木造アパートの前まで到着すると良くある絵柄が展開する。髪が長くて綺麗な女性が佳哉さんと一緒にアパートの二階の部屋から出てきたのだ。しかも二人して極上の笑みを貼り付けながら。わたしは咄嗟に身を隠したが、おそらく佳哉さんたちの眼中にわたしはいない。
すべてがわたしの勘違い。
すべてがわたしの思い上がり。
あの女性は昨夜から佳哉さんのアパートにいたのだろうか。それとも今朝になって来たのだろうか。
昨夜だったら僅かとはいえわたしの香りが佳哉さんのベッドに残っていたはずで、あの女性が佳哉さんの恋人だったら気づかないわけがない。だとすれば一悶着あったはずだが、と想像を逞しくしながら泣いている。
わたしがそんな想像をしたのは、昨夜自分のベッドの中で、佳哉さんのベッドに自分の残り香が移ったはず、と気づいたからだ。匂いだけとはいえ同じベッドで一晩過ごす。その連想がわたしを幼い淫夢に誘う。テレビや映画でしか知らないセックスシーンを佳哉さんと二人でわたしが演じる。実際にはわたしの一人芝居でしかないが、昨夜はまったくそう思っていない。現実世界で佳哉さんとのセックスが何時起こるのか知らないが、いずれ遠からぬ未来に必ず起こる、と信じている。今のわたしだったら、結果はともかく、佳哉さんに女性との関係を尋ねるだろう。何故かと言えば、あの女性が佳哉さんの恋人ではなく、単なる大学の友だちということも考えられるからだ。
けれども、あのときのわたしにそう行動する勇気はない。せっかく昨日佳哉さん本人から授けて貰ったあの勇気を、あの朝わたしは行使できなかったのだ。
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