6 頼

 内臓の手術をしたわけではないので手術中や直後を除けば身体にチューブが差し込まれない。また口内の傷がある程度治ってからは、食欲はないが食事ができるので点滴もしない。すなわち身体に余分な突起部分がないのでスタンドを押しながら行う院内歩行に支障がない。実際まるで支障がないのに嘘みたいに歩くのが億劫なのは何故だろう。

「松原さんって会社の帰りに二駅歩いてますよね」

 後輩社員の結城朱美が問いかける。

「今年は夏が暑かったから止めたけど、それまでは朝も逆の道程を歩いていたよ。でも運動習慣は失われると早い」

「そうなんですか」

 気のない返事だ。わざわざ秋晴れの日曜日に何の目的で見舞いに来たか。

「窓側のベッド、空いてますね」

「ああ、一昨日退院したのよ。元気なお婆さんだったけど人工肛門らしくてね。慣れているのか痛みには強くて、糸とチューブが取れれば、ああ楽だわ、って、飽きることなく院内フロアを巡っていたよ」

「ふうん。松原さん、チョコ食べます」

「いや、今はいい」

 社内におけるわたしの担当は臨床用の電解質分析装置で結城朱美の担当は病理用脱灰装置だ。だから同じ開発部所属とはいっても接点が少ない。因みにわたしの身長は一六〇センチメートルだから殆ど全国平均だろうが、結城朱美は小さくて一五〇センチメートルあるかないかだ。顔付きは整っているが相対的に小さくはなく、また理系の女性に典型の意志の強い表情を覗かせることも多い。しかし基本的には他人に笑顔を見せる方針らしく、時に引き攣ることはあっても自身のスタイルを崩さない。その他では、わたしが直感で動く思考回避型だとすれば、彼女はコツコツとデータを積み重ねて困難を乗り切るブロック積み上げ型だ。だから性格的な接点もない。

「質問があるなら早くした方がいいよ。三時頃に母親が来るはずだから。悪い人間じゃないけど、居ると面倒臭いよ」

「ああ、はい」

 わたしの方から切り出してみたが反応が薄い。だが効果はあったようだ。まるで遠い記憶を取り戻すように彼女が問いを発したのだから。

「松原さんが会社復帰するのって、まだ先のことですよね」

「早くても二週間後だな。一課の何人かには迷惑かけることになったけど、試薬のレシピが決まった後で助かったよ。そうでなければ今頃は包帯を巻いたままで仕事をしていたな」

「わかります。わたしが同じ立場でもたぶんそうしますから」

「互いに損な役回り……いや性格だよな」

「でもまあ責任のある仕事を与えられているからそうなるわけで、その点では恵まれているんじゃないですか」

「だけどさ。朱美ちゃんの場合、例えばコンビニでバイトしていたって仕事に穴を開けるとわかれば出勤するんじゃないの。そこがわたしとの違いかな」

「そうなんですか。うーん、そうかもしれませんけど」

 結城朱美の声も美しいアルトだ。だからその部分はわたしのお気に入り。けれども、それ以外は色々と多く交じり合わない。因みにわたしはショートヘアで色が薄いが、彼女は実験の都合上長さは肩までだが立派でボリューム感たっぷりの黒髪だ。その対比も象徴的か。

 そもそも結城朱美は作業着を脱いで私服に着替えればひらひらスカートで街を練り歩く普通の女の子だが、わたしは上下に原色を組み合わせたパンツスタイルをファッションの基本とし、暇さえあれば散歩で見つけた一本の道をどこまでも先に向かって歩く変わり者だ。かつて不倫相手から、そのファッションセンスを『チンドン屋』と褒められたことは誇れるのだが。加えて指摘すれば、わたしの体型は年相応だろうが、ごく少数の人間を除けば、可愛くも美しくもないはずだ。一方の結城朱美は少し前までは身体に硬さがあって、そこに大人の女というより子供っぽさを滲ませていたが、最近では角ばっていた尻も丸くなり、女としても美しい。

「わざわざ病院まで来たってことは、結城さん、切羽詰っているわけ」

「いえ、そんなことはありません。日取りはもう決まっていますし」

 と言って急に顔色を赤らめる。

「ああ、そういうこと」

「ええと、わかっちゃいましたね」

 奇妙な間。

「でも驚いたな。朱美ちゃん、アイツと結婚するんだ」

 と戸惑ったようにわたしが呟く。

 アイツというのは会社後輩の三浦靖男のことだ。会社の殆どの人間は知らないはずだが、かつてわたしにプロポーズを試みた猛者。おそらく酒に酔った上の気の迷いだろうが、わたしは丁重にお断りする。何故かと言えば彼がまったくタイプではなかったからだ。一八〇センチメートルを超えるその体躯も、全体的にがっしりとした強い筋肉も、残念ながらわたし好みではない。

 だからわたしにはあっさりとフラレれた三浦靖男だが、結果として結城朱美とくっついたならば上出来ではないか。

「つまり朱美ちゃんは聞いたわけね」

「いいえ、実は以前から知っていました」

「そうなんだ」

「見る人が見ればわかったはずです」

「心配しなくても彼はわたしの好みではないよ。真面目で良い子なのは知ってるけど」

 ……というような会話を二人は小声で囁き合う。そうでなくても話は同じ病室のベッド住人たちに筒抜けなのだが。まあ、それが秘密の話なのだとベッド住人たちが感じてくれれば、ある程度の配慮が生じる。もっとも退院して自分の家に帰ってから連れ合いや子供/親/友人に話す可能性までは否定できない。

「わざわざその確認に来たわけね」

「部長にはこれから話しますが、籍だけはすぐに入れようと決めたので」

「わたしが会社に帰ってくるのを待てなかったわけだ」

「可笑しいですか」

「いや、逆に何が心配なのかがわからないな。まさか、わたしが彼を奪うとでも」

「それは思いませんが、将来的な不倫対象にされたらイヤだなと思って」

「わたしにそんな魅力はないよ」

「松原さん、ご自分では気づいていないかもしれませんけど、社内にファンがいるんですよ」

 初耳だ。

「物好きだな」

「そんなことはありません」

「で、朱美ちゃんは何が欲しいの。宣言書でも認めればいい」

「いえ、話を聞いていただけただけで十分です」

 つまり結城朱美はわたしのプライドに訴えたわけだ。自分がわたしにそれを願えば、わたしが金輪際泥棒猫のような真似をしないだろうと。

「わかったよ。では改めておめでとう」

「ありがとうございます」

 だが結城朱美よ、きみのその判断はおそらく正しいだろうが、わたしだって嘗ては泥棒猫だったんだぜ。

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