5 梨
「ちゃんと報せなきゃ、ダメじゃないの」
とわたしの傍らで母が言う。
「こんなに大怪我をして。命が助かったのだからまだいいけど、心配するじゃないの」
「心配されても治りが早くなるわけじゃないし」
「そんなこと言うもんじゃないわ」
「傷とかが目立たなくなってから連絡するつもりだったのよ」
「それにしても惨いわね。突き飛ばされたんだって」
「そう」
「ツイていないのね。犯人もわからないって」
「だって見ていないもの」
「気配くらいは感じたでしょう」
「気がつく前に突き飛ばされたのよ」
「どうにかならなかったのかねえ」
「たぶん無理じゃない」
「そうなの。まあ、元気そうでなによりだけど」
わたしのフニャフニャ語は経時的に幾らか改善しているが、それでも他人が聞けば未だにフニャフニャ語だろう。おそらく身内だから聞き取れるのだ。それも母だから尚更か。
「母親の幼児に対する言葉の理解ってすごいらしいね。同じウマウマでもご飯が美味しいだったり、動物の方の馬だったり、それ以外の意味だったり、聞き分けるから。赤ん坊の頃から喃語を聞いているからかしら」
「さあてね。でも普通は聞けばわかるでしょ。アンタの場合は女の子なのにお爺ちゃんの影響なのか車が好きでブーブーが自家用車でウーウーが消防車」
「それなら普通じゃないの」
「でも救急車はピカピカ光るランプが怖かったのか、町で見かけると泣き出して」
「パトランプの色は赤いけど、外層のプラスチック部分から透ける色が黄色くて怖かったんだよ」
「ヘンな子。パトカーだって同じでしょう」
「……とは思うけど、わからない」
「ところで梨食べる。アンタの好物だから買って来たのよ」
「ありがとう。でも口の中が痛くて」
「そうなの。そうよねえ。じゃ、止めとく」
「小さく切ってくれるなら試すわ」
「そう」
それから母は自分の後ろに所在なげに立っている妹の智美に振り向かずに問いかける。
「アンタも食べる」
「お姉ちゃんが終わってからでいいよ」
「こっちは大した量が食べられないから、残りはそっちで片付けてよ」とわたし。
「ゴミ袋は」と母。
「ベッドの柵に吊るしてあるコンビニの袋を使って」とわたし。
「ああ、これね」と母。
確認すると荷物入れから取り出した白くて薄い簡易俎板を膝に乗せ、同様に取り出した果物ナイフで二十世紀の皮を器用に剥く。簡易俎板を持って行くようにアドバイスしたのは、おそらく智美だろう。
「智ちゃんがね、持って行けって言うから持ってきたけど役に立ったわね。で、フォークとかはあるの」
「ない」
「じゃ、爪楊枝を出して」
母が智美に向かって言う。智美はわたしの六歳下だ。小学校通学分丸々、年が離れている。
「お姉ちゃん、大丈夫なの」
妹が爪楊枝を母の物入れから捜し出し、母に渡しつつ質問する。
「命に別状はないからね。身体中が痛いけど」
「はい、これ」
と母が爪楊枝に刺した二十世紀の小ピースをわたしに差し出す。だが、わたしが伸ばした右手にも包帯が巻かれているのに気づき、
「痛痛しいわね。ホラ、口を開けて、アーン」
「赤ちゃんじゃないから」
と抗議はするが口は開ける。母が二十世紀の小ピースを入れ、爪楊枝を抜く。
「どう」
「フガフガ。まだ食べていないわよ」
「ああ、そう。じゃ、次は智美の分。はい」
「ありがとう」と智美。
爪楊枝は使わず、直接指でピース(大)を掴む。
「そういえば智美、今日仕事は」
「何言ってんのお姉ちゃん、今日は土曜日だよ。頭、可笑しくない」
するとすかさず、
「コレ」
と母が窘める。
「ヘンなこと言わないで」
だからわたしは内心では母がわたしのことをかなり心配しているだろうと気づいてしまう。けれども母の方は自分がわたしに嫌われていることに気がつかない。何年間もずっと。わたしが母を客観的に眺めるようになってからずっと。
もちろんその感情は敵意に至るまで成長しない。何故なら、そうなる前にわたしが家を出たからだ。
「そういえば昨日の夜、お父さんが来たんだって」と母。
「だって、この病院のこと会社に連絡したのはお母さんでしょう。今日は出張だから会社の帰りに寄ったんだって。ウチから来るより近いんだってさ」
「夜の十一時近くに良く入れてくれたわね」
「その辺りは何とでも説明するでしょ」
「ところでアンタお金はあるの」
「とりあえずは。それに、まだ交渉してないけど保険が利くでしょ」
「ああ。でもそれにしても大変ね、災難ね。恐ろしいわね」
「お母さんも気をつけてよ。傷害犯に老若男女はないはずだから」
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