7 妄

 入院当初一ヶ月はかなり長いと思ったが、そう思ったときには既に入院後一週間が過ぎている。だから、その時点で残り三週間。改めて惨い怪我だと思い知ったが、包帯を新しいものに巻き直す度に皮膚の色がきれいになると同時に浮腫みも治まり、手術跡はさすがに目立つものの一本の単線路のようで医師のメス捌きに感心する。わたしの転び方が上手だったとは思えないので落下後には骨だって容赦なく体外に突き出たはずなのに、その割にはあっちに傷跡こっちに傷跡と斑に散っていないのが素晴らしい。

「両腕方脚の骨折でしたが、複雑ではなくて綺麗に割れていましたから、繋げるのは簡単でしたよ」

 それでも一箇所ずつ丁寧に修復していったから最初の手術に十時間以上かかったと言う。

「長いといえば長いですが、患者さんに体力がある場合、できるだけ少ない回数の手術で済ませることにしていますから」

 壮年医師は説明するが、医師たちの体力には本当に頭が下がる。わたしはこれまでの長くも短くもない人生で外科医を目指したことは一度もないが、それで正解だったとつくづく思う。外科医にはもちろん女医もいるがその数は男性に比べてやはり少なく、また近年増えたといっても希望者数は多くはない。その点では門戸は開かれているわけだが、体力的な面だけに限っても色々と大変なのだろう。

「傷害に遭われて運が良いというのもナンですが、同じような転び方をされても骨がバラバラに砕けてしまう患者さんもいて、それはそれで医者の腕を武者震いさせますが、どうしたって傷跡は消し難い。その点、松原さんの骨折は別の意味で私たちを武者震いさせたわけで、近年稀に見る綺麗な縫合となりましたよ」

 その点はありがたいがギブスが痒い。複雑骨折ではないのでギブスを付け続ける期間は数ヶ月には至らず、まず一月以内に外せるという見立てだが、いつだって初めては慣れないものだ。

「痛いの後に必ずやって来るのは痒いですが、こればかりはどうにもなりませんから」

 看護婦の鹿山さんがわたしに言うが、その通りだ。

「まあ、生きている証拠だと思って我慢してください」

「あなた自身、ギブスの経験は」

「ありますよ。学生のときにスキーで左足」

「そうなんだ。で、どんな感じだったの」

「結果的にはどうもこうもありませんけど、若かったから間が持たなくて」

「ということは意識がずっとはっきりしていたんだ」

「ええ。だから手術の前は恥ずかしかったですね。ギブスとは関係ないですが性器の近くにも裂傷があって」

「まだ裸に向かれた経験がなかったのね」

「ああ、そういう意味にも聞こえるんですね。でも違いますよ」

「じゃあ、一人だけだな」

「そんなことを仰って。じゃあ、松原さんには何人ものお相手がおありだったのですか」

「いや、そんなことはないけど、まあ、色々と」

 わたしが裸に剥かれた男は不倫相手一人だが、行為にバリエーションがあったのだ。

 今考えると、わたしと同時に付き合っていた複数の女たちとヤッて良かった体位をわたしで試したのかもしれない。その割にわたしの反応はいつも同じだったように思えるが、余程のアクシデントがない限り不倫相手は必ずわたしを逝かせてくれたから、それはそれで仕方がなかったのかもしれない。

「松原さん、お顔がニヤニヤしていますよ。愉しかったことでも思い出されていらっしゃるのでしょう」

「思い出は裏切らないな」

「そのご発言は意外かも」

「そうなの」

「ええ、松原さんはいつでも未来を向いている人のような印象があって」

「確かに見るのは未来だけど、未来は思い出せないじゃない」

「今度は文学的表現ですか」

「過去は変えられないって良く言うけど、それは起こった事実についてだけで、解釈はどうにでも変えられるって知ってた」

「いえ、知りませんでした」

「たとえば進学したかった高校に落ちたとする。それで代わりの高校に進むことになる。第一志望の高校に落ちたことをいつまでも悔やんでいれば、代わりの高校は自分にとって惨めな場所だけど、そちらに進んで色々と得たことがその先の自分に繋がったのだと解釈すれば、落ちたこと自体がラッキーとなる……っていうか、そんな感じ」

「なるほど」

「でも実際には、その時点で事実に粉飾があるんだろうけどね」

「どういうことですか」

「自分が事実だと思っていることって、複数の友だちの話なんかを総合すると、結構間違っていることが多いんだな。機会があったら一遍実験してみると面白いよ。だからそれが起こった時点で良い解釈をしていても、あいは悪い解釈をしていても、時の経過とともに、無意識的にかもしれないけど、自分で事実の粉飾を進めていて、でもそれを行うのも自分自身だから、結果的に悲劇になろうと喜劇になろうと自分を貶める方向には行き難い」

 そこまで話したところでナースコールに呼ばれて鹿山看護婦がわたしの許を離れていく。 だから話に続きはない。わたしが思い出に浸っただけだ。

 けれども、それは不倫相手ではない。不倫相手はまだ遠い空の下だ。況や、今では良きパパをしている高校時代の半分恋人のことでもない。同じ時期、わたしは別の男子、いや、男性に焦がれている。焦がれの度合いからいえば半分恋人よりも強かったはずだ。いや、はずではない。半分恋人は『半分』恋人と思える程身近にいたので手を伸ばせば触れることができたし、言葉は悪いがわたしが彼で満足すれば『全部』恋人にも出来ただろう。

 でも、あの人は違う。

 あの人はわたしより年上で気さくだったが、半分恋人には感じなかった距離を感じさせ、同じ地平に立っていない。そもそもわたしとの接点が殆どない。更に言えば、あの人に関するわたしの記憶はすべてわたし自身が作り上げた妄想かもしれないのだ。分野は一つだが、わたしが知らない種々の妄想。

 例えば、裸に剥かれる。

 熱いキス/抱擁を受ける。

 仲良く手を繋いで外を歩く。

 でも、わたし史上最大の妄想はやはりアレをされることだろう。

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