第10話【無常】


 父親が倒れた。

 僕は電話でそう伝えられた。

 午後八時二十分。

 丁度河原町の高島屋前で、祇園祭の熱気に魘されていた時の事だった。

 夢心地は一気に醒めた。

 自分でも信じられないほど、あっという間に。

 あれほど嫌っていた、元、父親だというのに(最近、元父親は一人増えたが、それは本筋に絡まないので割愛する)。

 死ぬな、生きてくれ。

 葬式代なんて直ぐに出せないぞ。

 僕は必死になって祈りながら、人を掻き分け階段を駆け下り、慌てて切符を買って、阪急電車の通勤特急へ飛び乗った。

 普段は作り笑いを浮かべてご機嫌伺いをしつつ(早く死んでくれ、保険金を弟の大学受験代にでもしてやるから)と心の底でどす黒く思案していたのに、

 電車に揺られながら床のシミを睨み続けていた僕は、パニック寸前の精神状態になっていた。

 生きてくれ。

 生きてくれ。

 どうしてあんたが死ぬんだ。

 こんな、クズみたいな俺がのうのうと生きて、

 どうしてあんたが死ぬんだ。

 毎日毎日「死にたい」「殺してくれ」とぶつぶつ呟きながら、宛てもなく京都御所や北野天満宮をふらついている僕が未だ死ねなくて、

 どうしてあんたが死ぬんだ。

 神様は意地悪だ。

 やっとこの気狂いの御守りから解放されて、自分の人生を取り戻しかけていた一人の中年男の全てを、

 何もかもを、奪い去ろうとしているんだから。

 どうしてあんたが死ぬんだ。

 そう、病室へ着くまでずっと、僕の頭の中で声が聞こえていた。

 神様なんてものがいるのなら、

 早く俺の運命とあいつの運命を入れ替えてくれ。

 あいつを生かしてくれ。

 こんなの理不尽過ぎる。

 ……でも、全ては杞憂だった。

 僕が思っているほど元父親はスローペースに生きていなくて、

 僕が思っているほど元父親は、僕へ何もかも正直な事を言っている訳ではなかった。

 病室のドアを開けて、カーテンを開いたそこには、

 知らない中年の女性がいた。

 僕の母親よりも醜い人だった。

 当然、その血を半分流している僕よりも。

 その人は、元父親の寝込んでいるベッドへ腰掛けていた。

 そして、僕の顔と元父親の顔を見比べて、全てを理解した様子だった。

 ……正直、こんな人に理解されたくはなかった。

 その人の話によると、熱中症で血が濃くなり、血栓を脳辺りの血管に作ったらしく、命に別状は無いし、暫くすれば仕事にも戻れる、との事だった。

 要するに、命に別状は無いらしい。

 だが、僕は安堵などしなかった。

 裏切られた様に感じた。

 僕に黙って、僕の母親どころか、僕よりも醜い人と、こんなにも親密になっていたなんて、と。

 例えるにそれは、推しの声優に彼氏がいた事が発覚した様な、そんな思い。

 吐き気がした。

 どうしてこんな人が、僕と血の繋がった人の隣にいるんだ。

 そう思わずにはいられなかった。

 間接的に強姦された様な気分だった。

 最悪だった。

 でも僕は何も出来ない。

 彼は、元、父親であって、それ以上の関係ではなくなってしまったからだ。

 僕は元父親を寝取られた。

 その事実を前に、苦しみと絶望を前に、僕は無力に、負け犬が如くその場から逃げ帰った。

 この苦しみは心地よくない苦しみだ。

 気が狂いそうで……というよりは、気が狂って欲しいとこれ程までに願った事は久し振りだ。

 もう正気でいたくなかった。

 だが、繰り返すが、そう、

 神様は意地悪だ。

 弟が倒れた。

 僕は電話でそう伝えられた。

 僕の心は……否。

 もう心というものが認識出来なかった。

 唯々、そこには感情だけがあった。

 運命への激情だけが。

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