楽園の境界

森村直也

楽園の境界

「真北に行けばいい。お前らの足なら、日暮れまでには帰れるだろ」

 そう言ってハザルは小さな袋を二つ地面に置くと、熊のような巨体に似合わずするりと動き出した。

「日暮れって……待てよっ」

 反射的にイサキはハザルを追って走り出した。僕も跡を追おうとして、でも、足を止めた。軽々と木々の間をくぐるハザルは、すぐに灌木の向こうへ消えてしまった。イサキもすでに灌木に到達し、まさに飛び込もうとしているところだった。僕の足ではイサキにはかなわない。だから、ハザルのおいた小袋を取って、見失わないうちにイサキを追った。

 柔らかい地面は蹴ると滑った。居並ぶ大木の根が地面の上にまで生え出て、何度もバランスを崩しかけた。下草には信じられないほど弾力があり、踏むと仕返しのように滑った。

 いつしか地面は僅かに傾斜を始めていた。息が弾んで、何度もむせた。むせるたびに木に手をつき、立ち止まって深呼吸した。少し冷たく湿気の多い空気は心地よかったけれど、同時にやたらと濃く感じる青臭さがつらくもあった。

 一際大きな木がその峠の頂点だった。日の光を受けるための枝葉は遙か上方に広がっていた。そんなに大きな木だというのに、根元には若枝が生えていた。

 僕はすっかり二人を見失っていた。地面に残された一人分の足跡はたどれないこともなさそうだったが、無駄だろうと思っていた。イサキが足を止める気にならなければ、結局追いつけない。そして何より、すっかり上がってしまった息に、言うことを聞かなくなってきた足に、僕自身が根を上げていた。

 大木に背を預け、盛り上がった根に腰を下ろした。ちらちらと揺れて零れる木漏れ日を見上げながら、押しつぶされそうだと僕は感じていた。――木、森、空気、お日様。初めて触れる世界のひしめき合うほどの生命力に。

 がさりとすぐ下の灌木が動いた。枝をかき分けて出てきたのは、擦り傷だらけになったイサキだった。僕を見つけると、むっつりとした顔のまま横に来て座った。イサキの息も、ちょっとだけ切れていた。

「ハザルは……」

「逃げられた」

 イサキは腕を振り上げ反動をつけると、柔らかい地面にふてくされたように寝ころんだ。

 こうして僕らは置いて行かれたのだった。


 *


 朝は母ちゃんの怒声から始まった。

「サンカ! あんた、なんてことしたの!」

 声がしたことはわかった。けれど肌がけをはがされても僕はまだ目を開けられなかった。それがさらに母ちゃんの逆鱗に触れたようだった。耳を引っ張られ、ベッドの上に無理矢理起こされた。さすがの僕も、まだ立ちあがれなかったけど、寝ているわけにはいかなかった。

「何、母ちゃん」

 眠い目をこすりつつ、僕は聞いた。寝坊でもしたのかと、僕は回らない頭で必至に考えていた。今日は教会学校の日だったろうか。特別な手伝いがあっただろうか。それとも何か、いたずらが見つかったのだろうか。昨日やったいたずらといえば。そして、一気に覚醒した。

「教会の、メルシア様のお姿に落書きしたろ!?」

 言い訳無用とばかりに僕をベッドから引きずりおろした。そもそも、言い訳なんてなかったけれど。

「まったくあんたって子はいつもいつもいたずらばっかりしてっ! しかも今回はよりにもよってメルシア様の像だなんて。またどうせ、イサキが言い出したんだろ。 あの悪ガキも甘やかされて……。あんな悪ガキの言うなりになんてなるんじゃないよ! あんたは勉強ができるんだから、来年の春には神学校へ行って……」

 母ちゃんの小言は始まると止まらなかった。僕は聞いている振りをしながら、思ったよりばれるのが早かったなと、考えていた。誰かが懺悔に行ったのだろうか。神父様が気まぐれを起こして埃でも払おうと思ったのだろうか。それとも、昨日の夜、教会に忍び込んだことがばれたのだろうか。

 やっぱり布をかけておくべきだったんだ。どうせ、ミサの日でもなけりゃ、誰も気にしないんだから。――まだ完成してなかったのに。傑作になるはずだったのに。

「……とっとと着替えて、神父様に謝りに行くんだよ!」

 母ちゃんの小言はようやく終わったようだった。僕はなるべく神妙な顔をして、しおらしく頷いて見せた。

「早くしなさいよ。神父様だってお忙しいんだから」

 どうにか怒りの山は引いたのか、ちょっとだけ優しく母ちゃんは言った。どたどたとドアへ向かう。早くしなさい。その言葉で、僕は重要なことを思いついた。今にもドアを閉めそうな母ちゃんに、慌てて僕は聞いた。

「朝飯は!?」

 ぴたと、母ちゃんの手が止まった。しまったと思ったときには、手遅れだった。朝だから、寝起きだから、まだ僕は寝ぼけていたに違いない。

「……夕飯まで抜きだよ!」

 ばたん。空気が震えるほどの音で、ドアが閉まった。


 言い出したのは珍しくイサキの方だった。他の子にも声をかけたみたいだったけど、集合時間にその場所にいたのはイサキだけだった。

 イサキは体も大きいし村長の息子だし、ガキ大将そのものだった。喧嘩すれば五歳年上の兄貴にも負けなかったし、かけっこも木登りも麦刈りも牛追いも勉強以外、何をするにも一番だった。

 対して僕は何もできなかった。数少ない取り柄は日曜学校の勉強と、いつもどこかに仕掛けている悪戯のバリエーションくらいだった。喧嘩も弱いし、足も遅い。父ちゃん母ちゃんは麦を作っていたけれど、手伝うとかえって邪魔だと言われた。年の割に小柄だったこともあって、大人達からはイサキの子分だと思われているようだった。

 僕もイサキも、別に訂正はしなかった。どう思われていても僕たちの間は変わらない。だから、構わなかった。


 イサキはすでに教会に来ていた。真っ赤な顔した神父の前で涼しい顔をしていた。イサキの後ろにいたのは村長ではなく、おっとりとしたイサキのお母さんだった。おばさんは神父におっとりと頭を下げていた。それを見た母ちゃんは、どんと僕の頭を押し下げた。

「神父様、今度のことは本当に申し訳ありませんっ。この通り、謝りますのでっ」

「謝って済むことかね!? 畏れ多くもメルシア様のお姿に、落書きなどっ」

「もちろん、元通りにはさせますし、教会のお手伝いもなんでもさせます!」

 ぎゅーっと母ちゃんは僕の頭をさらに押した。僕は転ばないようにするのに精一杯だった。

「ほら、イサキもあやまりなさい」

 イサキの母ちゃんは、頭を押し込んだりはしなかった。もっとも、とっくにイサキの方が大きかったから、押し込めなかったのかも知れなかった。

 イサキは頭を下げなかった。

「イサキ」

「お前は、悪いとは思っていないのか!? 民家のドアとか、あぜ道の落とし穴とか、そんなものとはわけが違うんだぞ! 我らが主、創造神メルシア様のお姿を汚したんだ! 大罪だぞ!」

 たしなめそうとするおばさんの声を遮って、神父がほえた。

 メルシアの教典によれば、この世界はメルシアの力によって魔の世界より救い出されたのだという。ヒトはこの世界を楽園にするために作られ、ヒトを導くために天使を使わしたのだという。唯一神メルシアを冒涜することは、教会にとっては死にも値することなのだと、口を酸っぱくして言われていた。

「汚してない。綺麗にしようと思ったんだ」

 さらりとイサキは言った。

 母ちゃんの手がゆるんだ隙に、僕は頭を取り返した。イサキは僕をちょっと見て、口の端で笑って見せた。神父は言葉も出ないようだった。肩が震えていた。

 僕は僕らを取り巻く村人達に気が付いた。イサキもとうに気づいていたに違いなかった。気づいていないのは母ちゃんや、おばさんや、もしかしたら神父もで、だから、そんなことを言ったのだと思った。イサキは村中の人たちから、不信心で、勉強もできないと思われていた。日曜学校にも滅多に出ず、メルシアのこと、神様のことも理解できていないと、思われていた。計算なんだと知っていたのは、僕だけだったかもしれない。

 わなわなと肩をふるわせて、堰を切ったように神父は口を開いた。

「この、不信心者がっ! 反省房へ入れてくれる!」

 反応したのはイサキではなく、周りだった。母ちゃんやおばさんは固まってしまった。ざわりと周囲が動揺したのが感じられた。僕も少し驚いていた。

 反省房は、村の教会で下す、もっとも重い罰だと聞かされていた。聞かされていただけで、実際にそれがどんな物かを知る人は誰一人としていなかった。神父にしても、この決断は初めてだったんじゃないかと思った。心のどこかで後悔しているかのように口元がひくひくと動いていた。

「イサキじゃないの。判ってたのかしら」

「サンカはきっとまた、イサキに言われたのね」

「反省房だなんて、ひどいわ」

「いや、子供だからって甘やかすわけには」

「たまにはきっちり反省させないと」

 ざわざわと声が聞こえた。神父はぐるりと周りを見た。ようやく集まった人たちに気づいたようだった。とすと背後で小さく音がした。振り替えると、母ちゃんが地面に膝をついていた。

「神父様、それだけはご勘弁下さい」

 メルシアに祈るように手を組み、神父を仰ぐ。

「イサキ。お前も謝りなさい。反省房だなんて」

 おばさんの声も震えていた。

 僕は不思議な気持ちになった。そうまでするほどの、ものだとは思えなかった。

「メルシア様の力というものを実感させる必要がある。反省房だ」

 神父は言い切った。

「山向こうへ置いてくりゃあいい」

 声は突然わいたかのようだった。再びざわりと背後が動いて、熊のような男が姿を現した。母ちゃんも、おばさんも驚いたように振り返った。イサキも目を見開いて男を振り返っていた。そして、神父はさらに激高した。

「ハザル! 一体何しに来た!」

 村の誰もが知っていたが、滅多に姿を現さない男だった。いつもは大抵村の外にいて、けものを狩り、毛皮を売ることを生業としていると聞いたことがあった。魔獣をしとめたこともあるという噂もあった。

 ハザルのような猟師は、教会からは嫌われていた。禁忌のように扱われることも多く、だから皆、とまどっていた。

 僕たちは希に村から抜け出した森の中でハザルを見ることがあったが、直接話したことはなかった。

「神父様の手を煩わすまでもないだろうと思いましてな。山向こうにでも置いてくれば、身にしみますぜ。ほら」

「え?」

 ハザルはつかつかと近づいてきたかと思うと、僕とイサキの首根っこを文字通り捕まえた。僕は言うに及ばず、イサキさえも、捕まれて足が僅かに浮いた。まるで猫の子を運ぶかのように、僕たちを引きずったまま歩き出した。

「ハザル、お前、結界を……!」

 最後に神父の声が聞こえた。


 *


「あーっと。……あとどれくらいだ?」

 前方を横切る狐に足を止めると、イサキは思い出したように聞いてきた。僅かに背伸びして、遠くを眺めた。

 今は小さな峰を三つほど越えて緩く下っているところだった。けれど、前方には木の葉が隙間なく茂り、この程度の傾斜では山の下を見晴るかすことはできなかった。

 僕はイサキの隣に並んで、ちらちらと光を零す太陽を探した。薄く地面に伸びる僕の影の長さを見、大部日が傾いていることを知った。

「あと三刻くらいで日が暮れるね。もう半分は来たと思うけど……」

 自信はなかった。こんなに長く森の中を歩いたことはなかったし、とにかく歩きにくかった。

 ハザルに置いてけぼりを食らった僕らは、とにかくと、道すらもない木々の間を北へ向かった。しばらくして獣道らしい踏み分け道を見つけると、それをたどった。足下はしっかりしたけれど、灌木や脇に茂る草は容赦してはくれなかった。小袋の中に入っていたナイフで邪魔な枝を薙いでも、僕らはどちらも傷だらけになっていた。

 くしゅん。僕はくしゃみをした。立ち止まると冷たい風に汗が引いた。

「……歩こうか」

 イサキは小袋から水袋を取り出すと、一口含んで歩き始めた。僕もまねするように水を飲んだ。いつもと同じ味のない水だった。

「ねぇイサキ、ここって本当に村のそばだと思う?」

「馬で一刻くらいしか動いてないんだから、そう遠くはないだろ」

 イサキの大きな背中が振り向かずに答えた。

 僕らはばさばさと藪をこいだ。丈の低い笹の葉は思った以上に強く鋭くて、むき出しの二の腕に、また一本赤い筋が浮かんだ。

「でも、おかしいよな」

「そう思うよね」

 今はまだ、暑月を過ぎたばかりだった。一番暑い季節は過ぎたけれど、まだまだ水浴びだってできる季節だった。

 森の中はおおむね凪いでいたけれど、時折梢を騒がす風が吹き抜けた。僕らはそのたびにぶるりと身震いした。里山とは、気温が全く違っていた。そして見かけるもの何もかもに、違和感があった。

「木がおっきいよね」

「笹がでけぇ」

「寒いし」

「葉っぱの色が濃いよな」

「日が暮れたらさ」

「うん?」

「僕ら凍えちゃうかもね」

「あー」

 ふいにイサキは足を止めた。初めて気づいたように樹冠を仰ぎ、ふいと笑った。

「そうかもな」

 僕もなんだかおかしくなった。

 がさがさと音がしたかと思うと、今度は狸の親子だった。獣道に合流し、しばらく僕らを品定めするように眺めると、興味がないかのように向きを変えどこかに行ってしまった。置いて行かれてから一体何組のけものを見たのか、もう僕にも判らなかった。二十組までは数えていたけれど、一刻ほど前にやめてしまった。

 人が通る道もなく何もかもが強くしぶといここは、人が主役の里山とは全く違っていた。怪我をしても手当は受けられず、背伸びしても先は見えず、命数に関係なく、大けがをしたら死ぬこともある。教会に駆け込んで治療を頼むこともできず、僕らもちっぽけな命の一つに過ぎなかった。

「行こう。だったら余計、日が暮れる前に着かないと」

「うん」

 僕らはまた、歩き始めた。


 ハザルが見積もったより、僕らの歩きは遅かったようだった。元から薄暗い森の中だったが、日が暮れてきたのだと判るほど影が濃くなってきていた。相も変わらず先は見通せなかった。僅かに覗く空から、左が明るく右が暗くなるように方向を選んだから、北へ進んでいることは間違いないはずだった。村は山に囲まれているわけではなかったし、だから、僕らの歩きが遅いのだと知れた。

 がさりがさりとけものの立てる音が増えていた。夜行性の獣の活動時間に足を踏み入れ始めていた。ごうと、風の音に混じって低い声が聞こえた。イサキは足を止めた。僕も足を止めて、周囲を見回した。

「イサキ……」

「うん。なんだろう」

 聞いたことのない声だった。イサキも知らないようで、深呼吸の合間にそう答えた。一日歩き続けて、イサキも僕もすっかり息が上がっていた。まだ歩くことくらいはできたけれど、野犬の類だったら心配だった。里山で一度野犬の群れに遭遇したことがあった。あのときはどうにか追い払うことができたけど、今同じ状況となったとして切り抜けられるかどうか僕にはわからなかった。

 ごうと、また風が吹いた。青臭い匂いに生臭さが加わっていた。こうしている間にもどんどん日は落ち、森は暗くなっていた。イサキは足下を探り、適当な長さの棒きれを拾い上げた。僕も探したけれど見つからなかった。ナイフを持ち替え、何か使えないかと小袋をあさった。すでに干肉も食べてしまい、水袋があるきりだった。

 ぐるるる……。

 今度は明確な声だった。がさりぱきりと声の方から草をかき分ける音も聞こえた。

「一匹、か」

「うん、多分……」

 音の出所は一つで、声も一つ切りだった。離れた所に仲間がいるのかも知れなかったが、僕らにはわからなかった。

 ずいとイサキは一歩前に出た。僕は素直にイサキの背後に下がった。

「イサキ」

 イサキが緊張するのがわかった。すっかりあたりは暗くなり、藪があったその向こうで何かが赤く光った。がさりと草を踏む音が近くなった。一歩、また一歩、音と光が近くなった。

 背後から一際強い風が吹いた。風は渦を巻き、枝葉を巻き込み吹き抜けた。僕は目を細めてやり過ごそうとして、突然イサキに突き飛ばされた。笹の葉が視界四隅を覆い、撓る茎が僕の身体を受け止めた。狭い視界の中を、何か大きな影がよぎった。

「イサキ!」

「起きるな!」

 イサキの声と同時に藪が音を立てた。僕の頭上を棒きれがよぎり、僕の直ぐ脇に重たい何かが落ちた。むわりと感じた生臭さに飛び起きた。背後のそれも音を立てて間を取った。僕はイサキの脇に下がった。赤い光はその強さを増していた。

「くそ、強いぞ」

 言ってイサキは棒きれを構えた。どちらもそのまま動かなくなった。僕も、動けなかった。

 弱い風が吹きぬけた。獣臭が僕らを取り巻いた。赤く光る目、嗅いだことのないにおいは、獣の正体を知らせていた。――魔獣。メルシアの偉功の届かない、闇の属性に身を置く獣。冷たい汗が流れた。僕は一度、身をふるわせた。

 先に動いたのは魔獣のほうだった。何かに反応するように一瞬赤い瞳が上下し、ゆっくりと上体を沈めた。

 魔獣ならばと、僕は気づいた。水袋を取り出し栓をゆるめた。

「サンカ!」

 下がってろと言うイサキの手を、僕は押し返した。それを合図にするかのように、魔獣が一息に跳躍した。早い。イサキの舌打ちを耳にしながら、僕は慌てて水袋を投げつけた。

 ぎゃん。魔獣が奇妙な声を立てて、勢いのままに僕らの方へ向かってきた。僕は後ろに倒れるように下がって、これを避けようとした。イサキは棒きれをつきだした。棒きれは避けられることもなく、魔獣の眉間を叩いた。今度は跳びすぎることもできずに、地に落ちた。今だと、僕は夢中でナイフを突き出した。よく研がれていたナイフは僅かな皮を断つ感触を残して、ずぶりと魔獣に突き刺さった。

 ぎゃうと一声鳴くと、魔獣は突然動き出した。僕の手は柄から離れ、皮の上を滑った。がさりざわりと不規則な音を残して、魔獣は何処ともなく去っていった。

 僕は震える手を握りしめた。甲にぬるりと冷たい物を感じ、おやと思った。

「大丈夫か?」

「イサキこそ、大丈夫?」

「オレは何も……それより、何投げたんだ?」

 イサキも僕も、すっかり息が上がっていた。僕を引き起こすイサキの手は、何ともないという口調とは裏腹に僅かに震えていた。イサキの手を借りて立ち上がろうとした僕は、ぶら下がるようになってしまった。――足に力が入らなかった。

「水だよ。ただの水」

「水?」

「僕らがいつも村で飲んでるでしょ。――聖水」

「……あぁ」

 気が抜けたようにイサキは言った。そんなものに助けられるなんて、僕だって思っていなかった。

 深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。風が過ぎた。青臭いにおいだけの、冷たい風だった。もう魔獣はいない。大丈夫。自分に言い聞かせて、立ち上がった。

「それに、多分なんだけど」

 僕はあたりを見回した。すっかり日が落ちて、僕の目ではほとんど何も見えなかった。それとも、どこかの枝の上だろうか?

「なんだ?」

 きょとんとイサキは聞いてきた。くすりと僕は笑って、どこかにいるはずの大男へ声をかけた。

「ハザル、いるんでしょ!」

 どこかでがさりと音がして、声がかえってきた。

「お疲れさん。……どうだ? 楽しかっただろ?」

 僕らは暗い中で顔を見合わせた。見えなかったけれど、イサキも笑顔だと確信していた。


 *


 村は教会を中心とした、大きな結界に囲まれていると、道すがらハザルは言った。魔獣に襲われたあの場所から程なくして、僕らは空気の『壁』にぶつかった。越えた先には知っている空気が待っていた。乾いていて、青臭さがすくなく、どこか力無い空気。ほの暖かく、刺すような厳しさもなく、どこか怠惰を感じさせる空気――。

 いつか神父は説いた。僕らはメルシアに守られているのだと。僕は思っていた。メルシアなどどこにも居るはずがないと。そして僕は、飼われているのだと、思い直した。

「サンカ、神学校行くのか?」

 ぼそりとイサキが言った。

 僕は、首を横に振った

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