イリューヴェル・スケート場での一日。
「さぁ! 皆!! 今日は楽しくスケート三昧だよ!!」
「凄いですね……、エリュセードにもスケートリンクがあったなんて」
ある休日の日、朝早くからレイフィード叔父さんに連れられてやって来たのは、イリューヴェル皇国内にある巨大なスケート施設だった。
ちゃんと建物の中にあって、地球と同じようにスケート靴等が貸し出されている。
幼い頃に何度か滑った事はあるけれど、……ちょっと不安だ。
「スケート、か……」
目の前に広がる氷上の世界に、私の隣でアレクさんが珍しく微かな動揺の気配を浮かべている。
ルディーさんやロゼリアさんも、少し困惑しているような……。
あ、もしかして。
「スケートの経験がなかったりしますか?」
「あぁ……。俺達の住んでいるウォルヴァンシアは一年を通して穏やかな気候が特徴的だからな。世界を巡る魔力バランスの変動で季節の影響を受けても、雪が積もったり氷が張る、という事は滅多にない」
確かに……。
地球にいた頃は、夏になると炎天下の洗礼を受けたり、冬になれば冷たい風や雪を経験したり……。
日本は四季の影響がはっきりしていたから、ウォルヴァンシアの過ごしやすさはとても快適だ。
けれど、ここはイリューヴェル。気候的には寒さが目立つ。
「それじゃあ、私と一緒に滑りましょうか?」
「いいのか?」
「はい! それに、一緒に滑った方がコツも掴めますし、きっと楽しいですよ!!」
「ユキ……、すまないな」
初めての場所とこれからの事について不安があったのか、少し険しげだったアレクさんの表情が和んだ。
嬉しそうに微笑んで、なんだかわくわくとし始めているように見える。
多くの人が続々とスケートリンクに向かい、私達もスケート靴を履いてその後を追いかける。
久しぶりで上手く滑る事が出来るかはわからないけど、アレクさんを支え合って滑れば大丈夫、のはず。すでにウォルヴァンシア一行の何人かは氷の上で滑る練習を始めている。
「スケートなんて何年ぶりかしら~。ユーディス、一緒に滑りましょう」
「あぁ。君が転んで怪我をしないように、私がずっと支えているよ」
……万年ラブラブな両親が氷上の妖精のように華麗な滑りを見せ始めた。
お父さんもお母さんも、無駄のない動きで互いを支え合いラブラブオーラと共に周囲を魅了している。二人とも、娘から一言だけ言わせてほしいなぁ……。滑れない人のサポート求む! と。
私達の後にリンクへと入ったルディーさんとロゼリアさんが、背後で可哀想な悲鳴を上げている。
レイフィード叔父さんとレイル君は経験ありなのか、三つ子ちゃん達を甲斐甲斐しく面倒を見てあげている姿が見えた。
「確かに……、これはバランスがものを言うな」
「大丈夫ですか?」
「あぁ……。お前の温もりが傍にあるから、不安にならずに済んでいる」
最初は手摺りに掴まって歩く練習をして貰っていたのだけど、流石アレクさん。
元々の身体能力が高いから、コツもすぐに掴み始めてくれた。
試しに両手を引いて手摺りから離れて歩いて貰うと……。
「――っ!!」
「だ、大丈夫ですか!?」
私の方が力が弱いから、アレクさんがバランスを崩して転ぶのを支えられなかった。
ガンッと肘を打ったらしく、その綺麗な面差しに僅かな苦痛が浮かぶ。
「すまない……。もう一度」
「焦らなくて大丈夫ですよ。それよりも、身体の方は大丈夫ですか? 怪我は」
「はっ!! ザマァねぇな!! 番犬野郎!!」
この声は……。
氷の世界を従えているかのような、優雅なその滑り方。
誰もが鮮やかに走り抜けるその人を羨望の眼差しで見つめているのだけど、相変わらずの魔性の美貌も大活躍だ。女の子達がきゃあきゃあ騒ぎ出し、……カインさんの後ろに恐ろしい群れが!
「俺が教えてやろうか? 番犬野郎」
「誰が貴様に教えを乞うものか……」
「テメェのどん亀レベルじゃ、ユキが楽しめねぇだろうが」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!と、気のせいかスケートリンクが不気味な地鳴りを帯び始めている気がする。この二人が喧嘩を始めると、大抵周囲に物理的な被害が……。
私は溜息と共にアレクさんを支えて立ち上がると、あえて音を強くしてカインさんを注意した。
「カインさん、アレクさんはスケートに関して初心者なんです! 不慣れな人を笑うような真似は、格好悪いですよ!!」
「別に笑ってねぇよ! せっかく遠出してきてんのに、番犬野郎の世話ばっかじゃお前が退屈じゃねぇか、って……」
「そんな事はありません! 私は、アレクさんとの練習を楽しんでますから!!」
「うっ……。そうかよ、じゃあそこで何時間でもトロトロしてんだな!! ふん!!」
カインさんが絡んできた理由なんてわかってるけど、この場合は彼を引き下がらせた方が話は早い。
自分よりアレクさんをとった私を不機嫌気味に睨み付け、カインさんは女の子達には目もくれず向こうへと去っていく。
毎回毎回、どうして喧嘩調子でアレクさんを刺激してくるのか……。
原因は私だけど、もう少し歩み寄るとか、平和的に話をしようとか思ってほしい。
「アレクさん、少し休憩してまた練習しましょう」
「ユキ……、すまない。俺が早く滑る事が出来るようになればいいんだが、どうやらこれは苦手分野のようだ」
「ふふ、誰だって最初はそうですよ。私なんて、お父さんに習ってもあまり滑る事が出来なくて、転んでばかりでした」
「怪我を……、しなかったか?」
「うーん、ちょっと膝が腫れたり、お尻から転んじゃったりで痛かったりもしましたけど、それも楽しかったんです」
もう過ぎ去った頃の事なのに、アレクさんは幼い時の私を心配してくれているらしい。
だけど、そうやって大変な目に遭いながら、誰しも成長していくものだ。
騎士団の人達だって、痛みと傷を負って強くなっていくのだから。
そう言って微笑む私に、アレクさんは少し困ったような顔をしながらも、ふわりと笑って頷いてくれた。
「そういえば、……さっきからリンク場にルイヴェルさんの姿が見当たりませんね」
「そうだな。……あぁ、いた。あそこだ、ユキ」
私と一緒に一度リンクの外に出たアレクさんが、少し離れた場所でベンチに座って寛ぐ王宮医師様の姿を見つけた。
仕事でもないのに、相変わらず白衣が標準仕様なのか、退屈そうに紙コップに口をつけている。
アレクさんと頷き合い、そちらの方へと近づいていく。
「ルイヴェルさん、滑らないんですか?」
「特に興味はないからな。それよりもアレク、治療は必要か?」
「いや、そこまでの負傷でもないから大丈夫だ。……だが、せっかく陛下が連れて来てくださったんだ。お前も少しは滑ってきたらどうだ? 確かにバランスをとるのは大変だが、意外に面白いぞ」
アレクさんに悪気はない。ただ純粋にスケートの楽しさに目覚め始めているだけだ。
けれど、ルイヴェルさんは何故か視線をわざと外して、優雅に足を組みかえる。
変だなぁ……、ルイヴェルさんならレイフィード叔父さんを悲しませない為に、少しは参加すると思うのだけど。あれ、ちょっと待って……。今何か思い出しかけたような。
「怪我人が出た時の為だ。俺の事はあまり気にするな」
「だが、せっかくの機会だぞ? ユキや皆と一緒に」
「必要ない。俺はここで本でも読んでいるから、ユキと楽しんで来い」
「ルイ……」
何という頑なさ……。この前は他国のアニマルパークで何だかんだと言いながらもちゃんと参加してくれていたのに。眼鏡の奥で佇んでいる深緑の双眸が、目の前で転んだ大人の男性を見た瞬間、歪んだ気が。
「……ルイヴェルさん、スケートのご経験は?」
「……以前に、ほんの数回な」
「じゃあ、ちゃんと経験者って事ですね。アレクさん、ルイヴェルさんを連れて行きましょう」
リンクの上を滑りながら、レイフィード叔父さんや三つ子ちゃん達も一緒に楽しみたいと手を振ってきている。ほんの少しぐらい参加してくれてもいいはずだ。
私はルイヴェルさんの腕をがしりと掴み、不機嫌そうに細められたその深緑に微笑む。
「滑る気はないと、何度言えば……」
「ルイ、体調不良でもないのなら別にいいだろう? お前以外は皆楽しそうにリンクの上だ」
「ほら! セレスフィーナさんも呼んでますよ。大好きなお姉さんと一緒なら滑りますよね? ね?」
「お前達……、わかっててやってないか?」
さぁ、何の事でしょうねぇ……。
私とアレクさんは両サイドからルイヴェルさんを拘束して、リンクの上へと連れ出していく。
けれど、スケート靴を履いて入口に立ったルイヴェルさんは、そこからビクとも動いてくれない。
リンクの端にある手摺に片手をかけ、視線が落ち着きなく泳いでいる。
あぁ……、やっぱりだ。これは完全な拒絶、リンクへの……。
「なーにやってるのかなー? ルーイちゃーん! えい!!」
「――っ!?」
どうやって説得しようか悩んでいると、突然楽しげな声が聞こえたかと思うと、ルイヴェルさんが何かに勢いよく押し出されてしまった。氷の上を、明らかに動揺全開の動きが彷徨う。
「くっ……!」
ドスーン……。予想通り、『滑る事の出来ない』経験者が氷の上に屈した。
前のめりに倒れ込んでしまったルイヴェルさんが、身体を怒りに震わせながら背後を振り返る。
「サージェス……、何のつもりだっ」
スケートリンクの入口にいたのは、ここにはいないはずの、ガデルフォーン騎士団長サージェスティンさんだった。相変わらず愛想の良い笑みが印象的な人だ。
今日はプライベートで来ているのか、騎士服ではなくお洒落な気配の漂う白の私服を纏っている。
というか、サージェスさん……。
「リンク上で人の背中を押したり、危ない事をしちゃ駄目ですよ」
「ははっ、ごめんねー。でも、こっちに遊びに来てみたらユキちゃん達の姿が見えたからさ。ちょっと友好を深めようかと」
「いえ、今ので絶対に友好度大幅ダウンしたと思いますよ。ですよね、アレクさん」
「あぁ……。俺達もルイにこんな醜態を晒させる気はなかったんだが」
アレクさんの同情めいた眼差しと『醜態』という言葉に、座り込んでいたルイヴェルさんが怒りのあまりか、それとも羞恥のせいか、氷を拳で打ち付けた。
何でも余裕でこなす最強の王宮医師様が、……実は滑れない、なんて、しかもこんな形で周囲から心配げな視線を頂く羽目になるなんて。
出来れば一緒に練習しようと思って誘ったのに、本当にどうしよう。
基本的にルイヴェルさんは、氷の上でも平気のはず。だけど、問題はスケートリンクを使う際に専用の靴を履かなければならないという部分だ。
バランスの取りにくい、慣れない感触。リンク場では無効化されている魔力。
つまり、この場所でのルイヴェルさんは、魔術師ではなく、ただの滑れない人、なのだ。
アレクさんに支えられて立ち上がった王宮医師様は、リンクの外に出ろとサージェスさんを脅しにかかっている。本気でお怒りのご様子だ。
私が幼い頃に来た時は、セレスフィーナさんが私の面倒を見てくれたのだけど、一緒に滑ってほしいと諦めもせずに子供特有の無邪気さでルイヴェルさんをリンク場に引き摺り出した結果。
何度練習しても相性が悪いのか、ルイヴェルさんは数十回も転ぶ事になってしまったのだ。
本当は無理をさせる事もないと思ったのだけど、出来れば最強の王宮医師様から苦手をなくしてあげたくて……、その結果、新たなトラウマを刻み付けてしまった、と。
「はーっはっは! 無様だな、ルイヴェル・フェリデロード!!」
そして、さらに傷を抉ろうとする面倒な人が……、はぁ。
リンクの外で嬉しそうにルイヴェルさんを貶しているのは、一方的にライバル意識剥き出しの、サージェスさんとご同郷の王宮魔術師、クラウディオさんだ。
ワインレッド色の鮮やかな襟足の長い髪と、人生最大の幸せと出会えたかのようなドヤ顔。
やめてください、クラウディオさん……。下手をすると、貴方死にますよ。
「何故お前までここにいる……、ヘタレメンタル王宮魔術師」
「誰がヘタレだ!! ガデルフォーンの王宮魔術師を貶めるような発言は許さんぞ!!」
いえ、ルイヴェルさんが貶しているのは、クラウディオさん自身です。
ずんずんとリンクの入口まで来たクラウディオさんに、ルイヴェルさんの機嫌はますます下がっていく。あぁ、これは不味い。何人か殺してそうな目になってますよ、ルイヴェルさん!
「まったく、相変わらず小者感半端ないねー、クラウディオ。――えいっ!!」
「なっ!! こ、こらっ、サージェスティン!! 貴様ぁああああっ!!」
手慣れた様子で氷の上をゆっくりと滑っていたサージェスさんが怒鳴り散らすクラウディオさんの背後にまわり、また容赦なくその背を叩き付けた。
氷の上を掻くようにパニックな動きが展開し……、一瞬浮いた直後、悲劇パート2。
クラウディオさんは顔から氷にダイブし、綺麗な顔を強打してしまった。
「ふっ……」
目の前で自分と同じように醜態を晒したガデルフォーンの王宮魔術師様を、ルイヴェルさんが愉快そうに深緑の眼差しで嘲笑う。
人を高笑いで貶しておいて、結局お前もそれか……、無様だな。そう言いたいのだろう。
クラウディオさんが転んだ瞬間、私は確かに見た。
あのルイヴェルさんが、子供に戻ったかのように、小さく片手でガッツポーズを決めたのを。
「くそぉっ……、こ、これは、俺のせいなわけではっ。そうだ、は、初めての遊戯だったから、だな、その」
「いや、君ここに連れて来てあげたの三度目だよ? うーん、相棒のユリウスは少し練習したら滑れるようになったっていうのに、これはルイちゃんと一緒に猛練習かなぁ」
「だそうだ、ルイ……。観念して一緒に練習しよう」
転んだっていいじゃないか、上達には醜態も何のそのだ。
そう爽やかに笑顔を向けるアレクさんに、ルイヴェルさんとクラウディオさんが心底嫌そうな顔をした。プライドの高い人ほどなんとやら、かな。
「別に滑れずとも、支障はない」
「そ、そうだ!! 俺達は魔術師だ!! 魔術能力の高い事が重要なんだぞ!!」
「だが、もしもいつか……、このリンク仕様な場所で戦闘が起きたらどうする? 無力になり下がるのか?」
いえ、アレクさん……。その場合はリンクの外に出ればいいのではないか、と。
あと、そんな場所で戦う事になったら、魔力無効化のせいで二人とも物理的な攻撃方法しか選べなくなりますよ。と、内心でツッコミを入れておく。
サージェスさんもアレクさんのノリに参加する気らしく、練習練習と二人に繰り返している。
「――で? 俺にまでサポート役をやれってか?」
それからすぐに練習が始まり、カインさんも呼んでの猛特訓が始まった。
一応今滑る事が出来るのは、私とサージェスさん、カインさんの三人だ。
アレクさんとカインさんの組み合わせは絶対に回避として、まず、私がルイヴェルさん、サージェスさんがアレクさん、そして、カインさんがクラウディオさんを担当する事に。
「うん、アレク君は余裕だねー。これなら一時間もしない内にコツを掴めるよ。お利口さん」
「いや、さっきユキに世話を焼いて貰ったからな……」
「ふふ、クラウディオも君みたいに素直だと助かるんだけど……、皇子くーん、そっちどお?」
アレクさんの手を引き、徐々に希望が見え始めているサージェスさんの所とは違い、ガチガチに緊張してプルプルと足を震わせてカインさんにしがみついているクラウディオさんは絶望的だった。
手を引いて貰うとかそんな次元の話じゃない。文字通り、カインさんに縋り着いている。
「別に怖がる事ねぇだろうが……。こんなモン勢いよくいきゃ簡単に」
「は、離れるな!! 俺にまた醜態を晒させる気か!!」
「いい加減にしろよ、テメェ……っ。何でも情けねぇ時はあんだよ!! さっさと腹くくりやがれ!!」
「ぎゃああああああああああ!」
今の様子を実況すると、縋り着かれる事に、というよりも、クラウディオさんの情けなさに堪忍袋の緒が切れたカインさんが、その腕を掴んで勢いよく氷の世界へと吹っ飛ばした、と。
転んではいないけれど、氷の上を凄いスピードでクラウディオさんは滑らされていく。
確かに勢いは大事かもしれない。だけど、リンク場で危ない真似は断固NGです。
その光景を見たルイヴェルさんが、たらりと……、頬に冷や汗を伝わせたのを私は目撃した。
「大丈夫ですよ。私はあんな事しませんから」
「……契約書にサインを出来る程の保証だろうな?」
「ふふ、はい。でも、あの頃から練習とかしなかったんですか? ルイヴェルさんならすぐに克服出来そうな気が」
この人が出来ない事や苦手な事をそのままにしておくとは思えないのだ。
だからこそ、あの時信じられなかった。いまだに滑れないまま、だなんて……。
「……やはり覚えていない、か」
「え?」
端の方で練習しながら溜息を零したルイヴェルさんが、少し拗ねた気配を漂わせ始めた。
覚えていない……。スケート関連で何か、……えーと。
何故機嫌を損ねてしまったのか首を傾げて戸惑っていると、傍にセレスフィーナさんがやって来た。
「あら、ルイヴェル。ようやく教えて貰う気になったの?」
「セレス姉さん……」
「今までに何度誘っても駄目だったのに、ふふ、やっぱりユキ姫様との約束のせいかしら?」
「え? 私との約束、ですか?」
何の事だろうとルイヴェルさんの方を向けば、あ……、一人であんな遠くに。
滑る事が出来ないはずなのに、ルイヴェルさんは物凄い速さで手摺を伝って向こうへと行ってしまった。というか、もしかして、……逃げた?
その姿をクスクスと眺めながら、セレスフィーナさんが私に向き直る。
「覚えておられませんか? 私達と一緒にここへ来た時、幼いユキ姫様はこう仰ったんです」
――じゃあ、ユキ頑張る! 頑張って滑れるようになって、ルイおにいちゃんも一緒に滑れるようにしてあげる!! だから、ユキが上手くなるまで待っててね!!
「え……、そ、それって、こ、子供らしいというか、まさか……、それで私が教える日まで何もしなかったって事なんですか?」
ある意味律儀だけど、普通は大人のルイヴェルさんが滑れるようになって、幼かった私が教わる方が早かったんじゃ……。そう吃驚しながらも、嬉しく感じてしまうのは、『ルイおにいちゃん』の優しさを感じ取っているからだろうか。苦手な事をそのままにしておくなんて、本当はプライドが許さなかっただろうに。
「だから、私が全然覚えてない事に気付いて、リンク場に出るのを拒んでいたんですね」
「ふふ、自分から言い出すのも恥ずかしかったのでしょうね」
視線の向こうでは、ぐったりと手摺にもたれて項垂れているルイヴェルさんの姿が見える。
根性で逃げたものの、今度はあそこから動けなくなっているらしい。
そのすぐ傍では、氷の世界で屍となって倒れ込んでいるクラウディオさんの姿が。
「じゃあ、頑張って先生役をしないとですね」
「はい。弟の事をよろしくお願いいたします。ユキ姫様」
一緒に行きましょうとセレスフィーナさんを誘ってみたけれど、ニッコリと笑って首を振られてしまった。自分が見ていると、ルイヴェルさんが絶対に耐えられないから、と。
確かに、あの人の場合は大切なお姉さんに転ぶような姿は見せたくないだろう。
納得した私は、遠くで内心助けを求めているルイヴェルさんの許へと滑り出したのだった。
――そして、ルイヴェルさんは練習の甲斐あって。
「何ぃいいいいいいいいい!?」
クラウディオさんの絶望が悲鳴となって氷の世界に響き渡る。
アレクさんとサージェスさんがその悔しさのあまり蹲っている背中をポンポンと叩く。
きっと、クラウディオさんの心の中は、これまでにない敗北感に苛まれている事だろう。
「やっぱ練習すりゃ、すぐじゃねぇか」
「何故だっ、何故だぁああああああああああ!」
まるで水を得た魚、天上からの祝福の鐘の音が聞こえてきそうな光景に、私はハンカチを手に持って微かに滲んだ感動の涙を拭いた。
あの全然滑れなかったルイヴェルさんが、ルイヴェルさんが!
「ルイヴェルさーん、楽しいですか~?」
コツを掴み、氷上の貴公子となったルイヴェルさんが、鮮やかな動きで私達の所まで戻って来ると、とても晴れ晴れとした、珍しすぎる爽やかな笑顔で頷いた。
もう自分に怖いものはない。そんな自信に溢れた素敵な笑顔。
「以前は何が楽しいのかわからなかったが、慣れてみると違う世界が見えるものだな」
「ふふ、また来たくなりました?」
「あぁ。……教師役に感謝しておこう」
遠回しなお礼にしっかりと頷き、私は自信を取り戻してくれたルイヴェルさんや皆さんと一緒に、打ちひしがれている最後の一人を見下ろす。
「あの、クラウディオさん。今度は私が」
「クラウディオ、立て。俺が教えてやろう」
「なああああああ!? だ、誰が貴様などに!! ルイヴェル!! 俺よりもほんの少し早く滑れるようになったからといって、俺を下に見るなど!! 許さんぞ!!」
「いやー、ルイちゃん教師役とか得意だから、もうここは素直に教えて貰いなよー。俺達ちょっと疲れちゃったしね。そろそろパスしたいというか」
どうにか自力で立ち上がろうとするクラウディオさんが、またガクッとバランスを崩して、アレクさんとサージェスさんに助けられている。
アレクさんも滑れるようになったみたいだけど、サージェスさんとカインさんの表情を見る限り、クラウディオさんは相当に手のかかる生徒になってしまったらしい。
多分この人の場合は、氷の上で不安定になる自分に対しての恐怖が強いのだろう。
プライドの高い人程、自分の情けない姿を見せたくないし、何より自分自身が許せない。
だから上達が遅いんだろうなぁ……。
でも、ルイヴェルさんに任せると喧嘩しか起きないだろうし、やっぱり私が。
「ルイヴェルさん、私がクラウディオさんを教えます。それならどうですか? クラウディオさん」
「……くっ、それ、ならば」
「「いや、俺が教えよう」」
私の差し出した手にクラウディオさんが温もりを重ねようとしたその時、彼の手を同時に二人の人が掴んだ。……物凄く怖い気配と共に。
後ろを振り向けば、アレクさんとルイヴェルさんが苛立ちを共有しているかのような不穏な気配と共に、真っ黒な笑みを浮かべていた。
クラウディオさんを立ち上がらせ、二人が私の前に立つ。
「実践あるのみだ。滑る感覚を刻み付けて来い」
そう冷淡に言ってクラウディオさんの背中を、ルイヴェルさんが容赦なく右足で力強く送り出す。
いや、違う。あれは、容赦なく蹴り出したという方が正しい。
猛烈な勢いでまた氷の世界を強制的に走り出す羽目になったクラウディオさんを、アレクさんがスマートな動きであっという間に向こうへと先回りし、迫ってくる突進物さんを受け止める。
そして、また勢いよく私達の方へと。
「いいんでしょうか……、あれ」
「まぁ、その内慣れるんじゃねぇか? 恐怖ってのは麻痺するモンでもあるしよ」
「皇子君の言う通りだよー。クラウディオはプライドとヘタレの塊だからね。荒療治は仕方ないよ。あ、だけど、リンク場であんな危険極まりないレッスンはしちゃ駄目だからね」」
誰に向けてなのか、サージェスさんはパチンとどこかに向かってカメラ目線で片目を瞑ってみせた。
さてさて、クラウディオさんは私達が帰るまでに自立出来るのか……。
私は苦笑と共に、過酷なレッスンの様子を見守るのだった。
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