切な想いは届く
MP3プレイヤーはどうなっているのだろう。
0と1で作られた無機質な文字列を解読して電気信号に変える。
それをコードに乗せてイヤフォンから空気を震わせる。
耳は震えを再び電気信号に変え、脳へと伝え、音として認知する。
音と音が連なって音楽になる。
たぶんそういう様な感じだと思うが詳しい事はわからない。
学校に着いたらスマホで検索してみようか。
我ながら子どもみたいだけれど、高校生になったこの一週間の朝は早い。
中学校の頃は親に起こされてばかりいたのに不思議なものだ。
きっと一ヶ月後にはこんな事とか考える余裕も無く登校時間に間に合う為だけに自転車を思いっきり漕いでいるのだろう。
歩道と車道が切り替わる度に教科書を詰め込んだ鞄が前籠の中で跳ねる。
ハンドルを取られない様に揺れに合わせたり、力強く固定したり踊るように前へ進む。
イヤフォンをしていなければ風を裂く音が聞こえそうだ。
ランダム再生していたMP3プレイヤーから流れてきたのはMcFlyの『Five Colors in Her Hair』。
自転車のハンドルから右手を離して、浮き上がった前髪を整えてから、胸ポケットに入れていたMP3プレイヤーを取り出してボリュームを上げる。
力強いロックが頭の中に鳴り響く。ブレイクの後、バスドラムに合わせて首を振る。
曲の余韻に酔いから覚める間も無く流れてきたのはCulture Clubの『Karma Chameleon』。
いい曲だけれど、ちょっとポップというかカントリーだ。
一度ハンドルに手をついてバランスを調節してから、アーティスト一覧からMichael Jacksonを選び、『Bad』フォルダを開いて、『Speed Demon』を選んだ。
駅の近くになると歩道の端を歩くサラリーマンや中学生が多くなる。
減速しない様に先々を予想しながら左右に避けるが、ふらふらしている分、スピードが出ない。
車に注意しつつ車道端に出てギアを重たくしペダルに力を込めて風を切って走る。
後輪にブレーキを少しだけかけて、交差点を右折すると宅配業者のトラックが停まっていた。
チラと車道の中央を伺うがトラックの向こう側がしっかり見えない。
しょうがなく歩道に乗ろうとした時、縁石に強くぶつかり籠の中から鞄が飛び出そうになり、慌てて左手で押さえつけた。
大きく息を吐いて視線を上げると交差点の信号機が点滅している。
停止寸前まで速度が落ちてしまった。
今から立ち乗りに切り替えても間に合わない。
ギアを一番軽くし、ゆるゆると進む。
横断歩道の向こうから軽装の男が自転車で向かって来る。
ヘッドフォンをつけてスマートフォンのような物を器用に片手でいじっている。
俺と似たような細いフレームの黒縁眼鏡、耳が隠れる程に伸びた髪、俯いていて口元を濃いグレーのストールで覆い隠し、アイドルが歌うテクノミュージックでも聴いている様な斜に構えた黒のジャケット、インナーは真っ白なシャツ、パンツは薄いグレー、シューズは黒。
予備校生や大学生がよく使う、透明のすぐに壊れてしまいそうな半透明のプラスチックバッグが前籠の中で跳ねている。
あの色彩感覚は良いのか考えていると『Speed Demon』が終わり、クラヴィネットのリフが流れ、すぐさまドラム、ベース、ボーカルが混ざり合った。
この印象的な音とリフはLed Zeppelinの『Trampled Under Foot』だ。
交差点の手前で止まり、リズムに合わせて周りの人から怪しまれないぐらい少しだけ頭を振っていると、自転車の男が気にかかった。
交差点が近づいているのに減速する様子が見られない。
ずっと片手で白っぽい何か・・・。おそらくスマートフォンか音楽プレイヤーをいじっている。
やばい。と思う反面、まさか。という思いがあった。
止まるだろうと思った。交差点にノーブレーキで侵入するとかありえない。
この思い込みが呼びかけるタイミングを遅らせた原因となった。男は減速することなく交差点に侵入した。
「おい!戻れ!」
大きな声を出した。
いや、出せていたかわからない。イヤフォンのせいだ。
男は俺の声を歯牙にもかけない。ヘッドフォンで聞こえないのだろう。
男が道路の真ん中に差し掛かろうとする時、もう一度叫んだ。
男に声は届くこと無く、トラックのクラクションに掻き消された。
クラクションは一秒をゆっくりと引き伸ばした。
衝突で自転車から切り話された身体が宙へと飛ぶ姿が瞳に焼き付けられた。
街の喧騒は凪ぎ、人間が潰れる鈍い音が耳にこびりついた。
自転車が金切り声を上げながら、トラックに引きずられた。
男はトラックに飛ばされた後、対向車線の乗用車にぶつかり、首があらぬ方向に曲がり、俺と目が合った。
ボンネットがひしゃげた時に、重々しい轟音が鳴り響き俺の内臓を震わせ、間延びした一秒を圧縮させた。
信号が青になっても俺は前へ進めなかった。
事故を目撃した人が通報し警察が直ぐに来た。
若い警官に寄り添われ近くの警察署へと行き、聞かれた事に素直に答えていたらいつの間にか日が暮れていた。
迎えに来てくれた姉さんから聞いた話だと放心状態で一階ロビーのベンチに座っていたらしい。
一緒に自転車で帰ったらしいが、記憶は無い。
事故を目撃し学校を休んだのが金曜日だった為、次の日から二日間も登校しなくて済んだ事は不幸中の幸いだった。
土曜の朝刊に事故が載っていた。
轢かれたのは大学生二年生。
死んではいないが意識不明の重体らしい。
夢にまで事故を見ることはなかったが月曜日からMP3プレイヤーを使いながら登校する気にはなれなかった。
轢かれた大学生と自分の姿が重なる。
あの時交差点に突っ込んで事故にあっていたのは自分かもしれない。
そんな思いがずっと胸に渦巻き、恐怖の泡が弾けずに漂っている。
可動域の限界を超えて折れ曲がる人間の身体とボンネットが轟かせた重低音が頭から離れない。
結局、何に一つとして身が入らず上の空のまま放課後になってしまった。
クラスメイトは金曜日に俺が学校に来なかった理由を先生から聞いたらしく、気を使って今日一日必要最低限の事しか話しかけられなかった。
正直なところ、どうでもいい話をしてあの光景を上書きしたかったが、そんな事を出会って一週間足らずのクラスメイトに求めるのは我儘だ。
せっかく生徒会に入ったけれど今日は姉さんに一言断ってから帰ろう。
生徒会の先輩方には姉さんから事情が話されているはずだ。
気を使ってもらうのは気が引けるし、重い気分のまま何かしたところでいい手伝いができるとも思えない。
姉さんはもう生徒会室で月末の生徒総会に向けて資料をまとめているだろうか。
「お。進。ドアから席近いんだね。」
廊下がざわついたと思ったら姉さんが来た。
俺が生徒会に入ったことを知らないクラスメイトの方が多いから生徒会の副会長が急に来たことで面喰っているようだ。
ドアの覗き窓から反射して見えるクラスメイトの全員がこっちを向いている。
「まだ席替えしてないから出席番号順で、たまたま最前列になりました。」
「ということは進の前は小野くん?」
「どこから小野くんが出てきたの?小倉さんだよ。それよりも丁度よかった。今日は生徒会に行かないでこのまま帰るよ。」
ついうっかりいつもの調子で喋り始めてしまったので、ますますクラスメイトの興味を惹いてしまった。
男どもは俺らの事を興味深く直視しているし、女子はチラチラこちらを見ている。
男女差があってなんだかいたたまれない。
とりあえず教室から出たい。
「お。考えている事一緒だね。今日は帰ろう。生徒会はいいよ。」
「え?姉さん忙しいんじゃないの?」
驚いてつい姉さんと言ってしまった。
口から出た言葉を飲み込むには時すでに遅く、女子がこっちを見ないでコソコソと話しだした。
被害妄想だと思いたい。
姉さんは声のトーンを落として「金曜日あんな事あったばかりでしょ?任せてきたから今日は帰ろう。」と言ってくれた。
「それじゃあね。玄関ホールで待っているよ。」
「わかりました。」
姉さんは颯爽と身を翻し教室を去っていった。
さて俺は伊達に姉さんとの付き合いが長いわけじゃない。
容姿端麗で学力に少し秀でた姉さんとの関係性を疑う男と女子の誤解を解くのには慣れているつもりだ。
「海道。お前高嶺先輩とどういう関係なんだ?苗字違うだろ。」
圷がさっそく話しかけてきた。
席が隣で今一番仲良くしているし、頭の上で会話されたら気にするなという方が酷だ。
俺はクラスメイトにも聞こえるように、でも自然になるように注意し、声を張って返答した。
「姉さんは近所に住んでいるんだ。幼馴染ってやつが近いかな。だから姉さんって呼んでる。金曜日の事、担任から聞いてると思うけど、姉さんも心配してくれていてさ。まぁ大丈夫なんだけど。まぁ、アレだ。今日は俺に何て声かけたらいいかわかんなかっただろうけど明日から普通にしてくれると助かるわ。」
少し喋りすぎたかもしれない。自分自身思っていた以上に今回の事は参っているようだ。
「そうか。わかった。また明日な。」
圷は鞄を持って立ち上がった。それに合わせるように後ろの席にいる木下も立ち上がった。
姉さんが来たせいで教室を出るタイミングを失っていたのかもしれない。
「おう。よろしくな。」
二人に続くように教科書を適当に鞄に詰め込み席を立った。
視線から逃げるように教室を出て上靴から外靴に履き替える。
一足式といって校舎のほとんどを土足で入っても良い事になっている。
足早に玄関ホールまで来た。
姉さんの姿が見えないと思ったが売店の隣にある自販機で真剣にジュースを選んでいる。これから自転車に乗るのに買うつもりだろうか。
「姉さん何か買うの?」
んー。と自販機を見つめたまま唸っている。
「迷っているの…。進なら何にする?」
俺の意見を参考にする事は無いのに、迷ったら俺にいつも聞いてくる。
「俺はこれ。」
財布から小銭を取り出し、蜜柑の果肉入り缶ジュースを買った。
「決めるの早いなぁ。私はミルクティーにしよう。」
俺が買っても買わなくても、意見と違う物を買っていたに違いない。
きっと少しがっかりする俺の顔が見たいだけだ。
「姉さんはこれどのタイミングで飲むの?」
「そうだなー。帰ってからかな?」
正面玄関のガラス戸を押し開けて、空を見上げながら答えた。
呆れた顔をしてしまったのだろう。姉さんは口を尖らせた。
「飲みたかったんだもん。進は細かいよ。」
俺の前では終始こんな感じなのに、この間姉さんが担当している仕事の日程表を見させてもらったら事細かく練り込まれていた。
普段の行いでバランスをとっているのかもしれない。
姉さんに続いて外に出た瞬間、鈴の音が遠くから、けれどしっかりと響いた。
「姉さん待って。何か遠くから鈴の音がしない?」
先に駐輪場に向かっていた姉さんを呼び止めてしまった。
「え?何?」
「この鈴ってどこから聞こえるんだろう?」
「進…何言っているの?」
こうして話している間も鈴の音はゆっくりと鳴り続けているのに姉さんには聞こえないらしい。
姉さんの顔が暗い。
俺の耳がおかしくなってしまったのだろうか。
こんなにもはっきりと聞こえるというのに。
「大丈夫?」
恐る恐る声を掛けてくれた姉さんを後目に音の出どころが気になって校舎から離れ耳を澄ました。
校舎の裏の方から響いている。
「姉さん。」音がする方を指差した。「あっちって何かある?」
「校舎の裏手?図書館だけど…」
そうか。まだ行ったことないけれど、図書館で鳴っているのか。
「ありがとう。」
はやる気持ちを抑えて姉さんの目を見た。
「ごめん。心配してくれているのはわかる。事故目撃したばかりだからね。でもごめん。ちょっと待ってて。確かめてくる。確かめてくるだけだからさ。」
「待って!進!」
姉さんの制止が聞こえないふりをして鞄をほっぽり出し駆け出した。
姉さんより俺の方が早い。追いかけて来たとしても逃げきれる。
ガイダンスで配られた見取り図を思い出しながら教員用駐車場を駆けた。
校舎の裏はまばらに木々が生えていて手入れされた林の様になっていた。
心なしか鈴の音は大きくなっている。
近づいているに違いない。
木々の隙間から図書館が見えた。
緊張も相まって心臓の鼓動が大きく響いている。
落ち着ける為に歩いて図書館に近づいた。
近づいてみると木々の影で黒ずむ図書館は異様な迫力があった。
木造三階建て以上に高く見下されている感じがする。
幅と奥行が資料で見るよりも大きく感じる。教室が二つか三つぐらい入ってしまいそうだ。
左側面から正面へ歩いたが今のところ開いている窓は無い。
今日の気温は二十度ちょいだが、木々の中だからか妙に涼しく感じる。
恐らく他の窓も開いていないだろう。
もう少し遠くで鳴っているが、その方向を向いても森しか無い。しかし、図書館から鳴っているとは思えず入るのは気が引けた。
「あなたさっきから外で何やっているのかしら。図書館に用があって?」
一周しても開いている窓が無く、意を決し入ってみようかと思った所で後ろから声を書けられた。
振り返ると黒縁メガネをかけたエプロン姿の大人の女性がいた。胸元にネームプレートの様な物が付いている様だが、綺麗なストレートの黒髪の毛先がプレートにかかるように揺れ動いていて文字が読めない。
ただどう見ても学生ではないし、ここの司書だろう。
「すみません。こちらから鈴の音が聞こえたので気になって探しにきました。鳴らしている人とか知りませんか?」
司書は首をかしげた。あどけなさが残る顔立ちだが落ち着いた雰囲気が妙齢の女性を思わせる。
「知らないわ。図書館の中にいたからかもしれないけれど。」
「そうですか…。あっちには建物とかありますか?」
今も鳴っているとは伝えず、森の中を指差した。
「建物は無いけれど、小さな湖ならあるわ。」
「ありがとうございます。鳴らしている人はもういないかもしれないですけど、気になるんで行ってみます。」
もう手遅れかもしれないがこれ以上怪しまれないように足早に歩き出した。
「公園の正面から回っていった方がいいわよ!森は危ないわ!」
「大丈夫っす!」
また後ろから何か声を掛けられたが、いつまで鈴が鳴っているかわからない以上、遠回りはしている余裕はない。
気がせって司書の視界から消えないうちに走ってしまった。これで間違いなく不審者の仲間入りだ。
うちの高校に隣接する道立公園には柵が無い。
今走っている場所は公園の敷地に含まれるだろう。
鬱蒼としていると思ったが手入れされているらしく、地面はしっかりしているし、踝ほどしか草が伸びていないので走りやすい。
十分程走り続けると霧が出てきた。引き返そうかと思ったが、鈴の音は大きくなっていた。
霧が出ると言う事は湖が近いという事でもある。
このまま走って湖から遊歩道を通って帰った方がいいと判断した。
ポケットにはスマホがある。
何とかなるだろう。
ますます霧が濃くなって自分の判断に後悔し始めた時、森を抜けて草原に出た。
二階建てのログハウスとその奥に広がる湖がかろうじて見える。
霧のせいで全体が見えないが小さくは無さそうだった。
どうやら司書の話とは違う湖に来てしまったらしい。
肩で息をしながらゆっくりとログハウスに近づいた。玄関が見えないのでどうやら裏手から来てしまった様だ。
右に逸れながら歩くとログハウスの玄関傍から湖に橋がかかっているのが見えてきた。
橋を管理する為のログハウスなのかもしれない。橋の袂に二人いるのが見える。
濡れている草に足を取られない様に注意しながら駆け寄る。
一人は橋を渡って霧の中へ消えてしまったが、橋の袂には腕時計を見ながら鈴を鳴らす白く飾り気の無いワンピースを着た背の低い女の子が背筋を伸ばして立っている。
息が上がってしまい声を掛ける前に女の子は俺に気がついた。
細めた目には訝しんでいる様が色濃く滲んでいる。
今は呼吸が荒いので不審なのかもしれない。
これ以上怪しまれないように優しく声をかけた。
「すみません。どうして鈴を鳴らしているのですか?」
「困りましたね…。答えますが少し待っていただけますか?後ろの方を先に案内しますので。」
「後ろ?」
言われて振り返ると、男が立っていた。
忘れるはずはない。交通事故にあったはずの大学生が立っている。
腰が抜けて尻もちを着いてしまったが、瞬き一つしない真っ白な大学生の顔に釘付けとなった。
俺の姿が目に入らない様で、女の子から小声で二言三言告げられた後、橋を渡って行った。
そのまま霧の中へ消えて行ったのを女の子は確認してから、鈴を振るのを止めた。
「今通られた男性とはどのようなご関係ですか?」
俺より頭一つ低い百六十センチ程の身長、艶のあるストレートミディアムの黒髪、化粧っ気の無い顔に、冷ややかとも受け取れる大きいが品のある目鼻立ち。
同い年ぐらいかもしれないが、随分と落ち着いた話し方をする。
心臓が張り裂けそうなぐらい大きく伸縮を繰り返していたが、冷静になりつつあった。
「あの人が交通事故にあった瞬間を見ました。」
「それだけですか?」
「危ないと声を掛けて…あぁ……目が合ったと思います。」
「そうですか。そういう事もあるのですね。」
悲しい顔をして俺に細い手を差し出してきた。
何かと思い、見つめていると声を掛けられた。
「そのままでは服が濡れてしまいます。」
言われて地面に手をついて慌てて立ち上がった。俺は何をやっているのだ。
その様子が滑稽だったのか薄っすらと笑ってくれた。
「私が何をしているのかお聞きになりたいのではありませんか?皆様最初に聞かれます。」
「はい」ズボンを叩きながら頷いて答えた。
「私はお亡くなりになられた方々をご案内する為に、毎日四時頃に鳴らしています。」
「毎日ですか?」
「はい。鈴の音はお亡くなりになられた方々にしか聞こえません。
ただ貴方の様に極稀に生きている方もいらっしゃいます。
縁が深くて引っ張られてしまった方や自殺の末に来た方です。
目が合ったから、というのは初めてです。」
「来てしまった人は…どうやって帰るのですか?」
目を伏せて顔を横に振った。
「ある方は人生に悲観していたので橋を渡って行きました。
ある方は慌てて森の中へ引き返して行きました。
私はここにずっといます。ですので、来てしまった方々のその後を知りません。
再びここを訪れた方はいません。」
その引き返して行った場所を覚えているのか、女の子は森のある一点をじっと見つめている。
俺はどこから来たのだろう。おおよそにしかわからない。
同じような木々が深い霧の中で静かに揺れている。
「そう。思い出しました。」
少し明るい、わざとらしい声で言う。
「亡くなられたお祖母様に寄り添ううち、ここまで来てしまった女性が前にいました。
その方は外から呼ばれているから行先がわかると行って自信を持って歩いて行かれました。
外から呼ばれたら戻れるかもしれません。」
呼んでもらうとするなら申し訳ないが姉さんしかいない。
スマートフォンをズボンのポケットから取り出してディスプレイを見た。
圏外になっている。時刻は十六時七分。俺が校舎から走りだして二十分ちょっと。
「俺の事を誰かが呼んでくれた時の為に、森に近寄っても良いですか?」
「はい。どこから出たか覚えてらっしゃいますか?」
「たぶん…あっちです。」
印をつけていないので、自分が出てきた正確な場所なんてわかるはずがない。
何度か振り返りながら、ついさっきの記憶と照合させる。
橋がログハウスで隠れて見えなくなった場所から少し歩いて立ち止まる。
「この辺りだと思います。」
「当たっていると良いですね。」
二人で霧に覆われた湖を見る。無言に耐え切れなくて俺は口を開いた。
「いくつかお聞きしてもよろしいですか?」
「はい。私にわかる事であればお答え致します。」
「いつからこちらにいらっしゃるのですか?」
「わかりません。私は気がついたらここにいました。
死んでしまったから来たのか、迷い込んでしまったからなのかわかりません。
もう生前と言っても良いでしょう…その時の記憶が私にはありません。
うつ伏せの状態から目を覚まし、鈴の音に誘われるがまま歩くと、今の私と同じ様にこの鈴を持って案内をしていた女性がいました。
その女性は酷く疲れていました。
何日かあのログハウスで共に過ごし、私は役割を引き継いで女性を見送りました。
それからずっとここにいます。」
女の子は無機質な目で湖を見つめている。
「役割とは鈴を鳴らす事ですか?」
「はい。女性が言うには鈴を鳴らさないとこの場所に辿り着けず、彷徨ってしまうから大事な仕事なのだと言っていました。」
「橋の先は」
わかりきった質問だったのか俺の言葉を遮った。
「私にもわかりません。
行ったことがありません。
行きたくなったら誰かに引き継ごうと考えています。」
地獄かもしれないし、天国かもしれない。
輪廻転生する為の道なのかもしれない。
何も無いのかもしれない。
濃密な霧は答えを隠している。
返す言葉が見つからず、二人で湖を見ていた。
「私からもひとつよろしいでしょうか。」
「はい。何でしょう?」
「私の話を信じて下さるのは何故ですか?」
「交通事故にあったばかりの人が歩いていたら、この場所は変な場所だと誰でも思うかと。」
明らかに納得していない顔をしているので、別なアプローチから説明しようかと思った矢先、木々がざわめき、傷つき掠れた声が聞こえた気がした。
「今、何か言いましたか?」
「いいえ?何も。何か聞こえたのですか?」
「とても小さな声が。」
振り返って森を見た。
先刻と変わりなく霧が立ち込め、木々がさざめいている。
見つめること数秒、風が凪いだ時に、やはり小さく悲痛な声が聞こえた。
「やっぱり聞こえます。」
「私には聞こえませんがが、貴方を呼んでいる声だと思います。
貴方は生きたいですか?」
初めて力の篭った声で聞かれた。心拍数が上がる。女の子を見ると紅がさしていた。
「貴方は、貴方を呼ぶ声を信じ切れますか?生きたいと思いますか?
私には声が聞こえません。私を呼ぶ声ではなく、貴方を呼ぶ声だからでしょう。」
心配していた姉さんの顔が浮かぶ。これ以上、心配させる訳にはいかない。
「生きたいと思います。信じます。」
「足元に気をつけて声がする方へ走って下さい。
そして鈴の音がしても来てはいけません。」
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。久しぶりに誰かと話す事が出来て嬉しかったです。さようなら。」
頭を下げて、少し潰れた温い缶ジュースを無言で押し付けてから森の中へ飛び込んだ。
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