けれど想いは伝わらない

一ヶ月後に差し迫った「秋の図書委員オススメ文庫フェア」の本をそろそろ決めないといけない。

俺の担当はホラー。読んだ事が無い本を薦めるわけにはいかないので書棚を眺める。

迷った末に『少女地獄』というタイトルの文庫を手に取った。著者名も怖そうだ。


海外作家も一冊ぐらいあった方が良いかと思い海外文芸の棚をうろうろしたが何も手に取らずに閉館時間となった。

教室に戻ったら朝のショートホームルームが始まるまで『少女地獄』を読もう。


自分の教室に近づくにつれてやけに甲高い笑い声が大きくなる。

この声の主が自分の斜め後ろにいるのが今回の席替えで最大の不運だ。


ドアを開けると案の定うっすら茶色に髪の毛を染めた五人が場違いな大声で笑っている。

土日でプリクラでも撮ったのか、スマホの動画でも見ているのかわからないが一つの机を囲んでいる。

クラスメイトに適当に挨拶しつつ自分の席に行くと、圷が教室の角に備え付けられたパソコンを使いながら海道にプロ野球ついて語っていた。

くじ引きでパソコンの前の席になれた事は圷にとって幸運だった。

楽しそうにディスプレイを小突きながら話しているのに悪いとは思いつつ、後ろでやけに騒いでいる理由が気になり、何か知らないか聞いた。


日ハムが連勝している事もあり圷は快く答えてくれた。

ラブレターをつかった悪戯を計画しているらしい。

いつもヘッドフォンをしながらスマホを高速で叩いているクラスのオタクに、ラブレターで空き教室に呼び出し、からかうのだという。

既に何人か偽ラブレターの餌食になっているせいでオタクの警戒心が上がり引っかからなくなったから、モテる奴にも出して反応を見ているとの事だ。

「知らなかったならお前も気をつけた方が良いぞ。」と忠告されてしまった。

「モテるならお前らだろ。」と軽口を返したもののちょっとヤバイと思った。

クラスでの俺の評価は読書が好きな大人しい人だ。

オタク達よりも低いヒエラルキーにいるとは思えないが中間層でもない。


今は俺が教室に入っても騒いでいるのでターゲットで無いだろう…。

見知らぬオタクに心の中で手を合わせてから圷らと日ハムの話をしていると教師が入ってきてショートホームルームとなった。




それから一週間後の月曜日。


二時間目が終わり化学室から戻って来て席に着いた。

化学の教科書を鞄の中に突っ込み、机の中にある『ドグラ・マグラ』上巻に手を伸ばす。

掴んだ時に自分で巻いたブックカバーとは違う感触がする。

配られたプリントをしまい忘れたのだと思い、気にせずに机から取り出すと一目でラブレターだとわかるピンクの封筒が現れたので、慌てて他の人から見えないように太ももの上に置いて観察した。


ピンク地の封筒で表の右下には真っ赤な薔薇が咲き乱れている。

何も書かれていないので裏返すと小さな丸い文字で「俊一くんへ」とある。

出し間違えではない様だ。

白く縁取られたショッキングピンクのハートで封がされている。


ラブレターを机の中に投げ入れてから努めて冷静に首を回し、腰を捻って骨を鳴らした。

振り返った時、誰も俺に注意を払っていない様に見えた。

背筋を伸ばして背伸びをしてから『ドグラ・マグラ』を取り出して机の上に広げると、溜息が漏れ出た。


先週騒いでいた奴らは五人。

ラブレターを作っている時に止める奴がいないのだから、入れる時に止める奴もいないだろう。

俺の席は窓側から二列目の最前席。

後ろから様子を見るのには良い席だ。

波風立てない為にいつも以上に自然体を振る舞わなければならない。

面倒な事になった。


「ん?どうかしたか?」


顔に出てしまっていたのか圷が何の気なしに声を掛けてきた。

今、後ろで誰かが俺の様子を見て笑っている。

そう考えると気が滅入る。


「難しいんだ。この本。」


笑いながら本にデコピンしたが、自然に笑えたかはわからなかった。


三時間目の授業を受けながら二つ折りにしたルーズリーフにラブレターを挟み込み、テープ糊で合わせ目を固定した。

四時間目が美術室での授業だったので、教室を出る時にゴミ箱に捨てた。

平穏な高校生活を送る為とはいえ、こそこそとせせこましく動きながら真っさらなルーズリーフを生け贄を捧げてしまった。

歯を食いしばったら奥歯が痛んだ。




水曜日は朝当番なので早く登校する。

校門をくぐるときに自転車置き場に立つ時計を見ると七時四十分を回った所だった。

八時から図書館を開ければ良いのでだいぶ余裕がある。


グラウンドから微かに聞こえてくる野球部の張り裂けそうな掛け声と遠慮気味に練習する管楽器の音を聞きながら、教室に入るといくつかの机に既に鞄が置いてあった。

圷の飾り気の無い鞄が朝日を浴びて一際輝いて見えた。

綺麗過ぎる鞄に苦笑してから、自分の鞄を置き、机の中に持ち帰り忘れた上巻に手を伸ばすと、また薄い紙の感覚があった。


「またかよ。」


誰もいない教室で独り言ちる。

文庫とラブレターを持って職員室に保管されている鍵を取ってから図書室へ向かう。


貸出処理用のパソコンを立ち上げて椅子に座り時計を確認すると八時まで後十分ほどある。

八時前に人が来る事なんて滅多に無い。

肘をつきながら、まじまじとカウンターに置いたラブレターを見る。


前と同じ封筒。

今回は表面に大きく俺の名前が書かれている。

自然と眉間に皺が寄る。

裏返しても差出人の名前は無く、ハートのシールは二枚重ねて貼られていた。

ハートを真っ二つに裂くのはさすがに気が引けたので、丁寧に剥がして封を切る。

中にはピンクの便箋が一枚入っていた。

ドアと司書室を見て、誰もいない事を確認してから中身に目を通した。



はじめまして。木下俊一くん。貴方の事が好きです。

『ドグラ・マグラ』ってこんなに難しい本を読むなんてさすが図書委員ですね。

とても格好良いです。わからないところを今度教えて欲しいな。

私の手紙を読みもしないで捨てちゃったのは悲しいです。

朝当番頑張ってください。



最後の一行を見た瞬間、全身の毛が逆立ち、頭の先からスゥーッと血の気が引いていく音を聞いた。

泡を食って激しく心臓が脈動する。左右を見渡すも校舎は静寂に満たされていた。


なんだこれは…。

こんな手の込んだ悪戯するのか?

俺が忘れた本を読んだのか?

俺が手紙を投げた所を見ていたのか?

俺の事をどこまで知っているんだ?


時計を見ると八時直前だった。

手早く封筒の中に便箋を入れて司書室に入り、自分用のクリアファイルに挟んでカウンターに戻った。


図書室にいる時はもちろんの事、教室に入ってからも視線が気になった。

休み時間に飛び交う視線は自分を監視している気がした。

取り澄まして文庫を広げる様を笑っている気がした。

集中力は分散し目に入る文章の意味が理解出来なかった。

栞を挟んでいるのに物語を思い出す事が出来なくて何度も最初のページを開いた。

蜜蜂の唸るような音が聞こえて耳を塞いだ。


生徒の視線が全て正面に統一され、沈黙する授業時間が少しの平穏を呼んだ。

笑われてクラスから浮くのは避けたかった。

小学校の時に虐められていた同級生の泣いている顔が浮かぶ。

諦めた顔をして一言も口を開かず、ずっと一人でいた中学校の同級生が脳裏を過ぎる。

音がしない様に大きく静かに息を飲み込む。ここで挫けたらいけない。正念場だ。


俺に悪戯を仕掛けてきたのは騒いでいた五人じゃないと思う。

ラブレターを出してその反応を楽しむのに、目の前でラブレターを作るのはおかしい。

同じ様な事をしている他のクラスの奴かもしれない。

ラブレターを作る係と観察する係。


わざわざそんな労力を費やすだろうか。

ブックカバーをかけてある本を捲ってタイトルを手紙に書いて、俺の朝当番まで調べるだろうか。

この後、呼び出して嘘だと告げるのだろうか。

一人に対してそこまで時間と労力を費やすだろうか。


自問自答を繰り返してルーズリーフの端に「☓自クラス五人 △作成他クラス+観察自クラス」と書く。


「読みもしないで捨てた」事を知っている…つまり、見ている奴は必ずいる。

昨日は三時間目にルーズリーフに挟み、教室を移動する際に捨てた。

授業中にどこからか俺の事を見ていた事がわかる。


教室の席は黒板を正面とした時に縦六列。

廊下側二列が六席、残り四列が七席の四十席。

自分、圷、海道の三人除外して残り三十七人。

俺の席が窓側二列目最前席。

真後ろからだと正面で俺が何をやっているかわからないから六人除外して残り三十一人。

廊下側一列は除外して良いだろうか…。除外して、残り二十五人。


ダメだ。キリがない。

斜めの席からどの程度俺の様子が見えるかどうかなんて確かめ様がない。

窓の反射を利用できるだろうか。

他の時間なら有り得るかもしれないけれど、あの時間はダメだ。

内職やよそ見に厳しい先生だ。

窓の外をずっと見ている生徒がいたら間違いなく注意する。


『ドグラ・マグラ』についてはどうだろう。

先週金曜日の放課後に『少女地獄』が面白かったから『ドグラ・マグラ』を借りた。

土日で読もうと思っていたのに従妹に呼び出されて買い物をしたり映画館に行ったりして時間が潰れた。

月曜日に、殆ど手付かずのまま学校へ持って行ったら一通目のラブレターが入っていた。

そこから読み進めたものの視線が気になって頭に入ってこなくなった。火曜日はうっかりして上巻を学校に忘れる始末だった。

そして今日、二通目が入っていた。


今読んでいるのが『ドグラ・マグラ』だと知ったのは何時だろう。

表紙が裸婦だから借りてすぐに自分でブックカバーをしたのを覚えている。

ブックカバーをつける前に見たか、学校に忘れた火曜日の放課後以降だ。

閉館間際で借りたから図書館で見たとは思えない。

火曜日から水曜日にかけて読んだとも思えない。

火曜日にラブレターを本の上に置いた時に文庫を開いてみてタイトルを知り、手紙に書き加えたと考えるのが自然だろう。

奇書として有名だからインターネットで調べれば難しい本という事もすぐにわかる。

残念な事にこの線で考えても犯人はわかりそうにない。


犯人ってなんだ。

自分で考えていた事に対して笑いそうになった。

頭を軽く左右に振って首を鳴らし、黒板の中央を見つめて授業を聞く振りをしつつ、こんがらがった頭の中を整理する。

視点を動かさず、黒板の一点を見ていると秒針と心臓が共鳴する錯覚に陥った。

どんどん静かになり教師の嗄れた声もチョークが削れる悲鳴もしなくなる。

秒針の規則正しい音だけが染みこんでくる。透明だ。今、透明になっている。


ルーズリーフに視線を落とした時に後頭部に痺れが走った。

反応を楽しむ悪戯なのに放課後にラブレターを出すのはおかしい。

見ている奴がいない場所で俺がラブレターを見つけたら反応を見る事が出来ない。


「本物?」と書き足す。

まさか俺がラブレターをもらうなんて、とは思う。

しかし一度思いついた考えはこびりついて離れない。

放課後に手紙を入れる理由が一番しっくりと来る。


ラブレターが本物だったら、ずっと俺の事を見ているという事になる。

それはそれで薄ら寒いものを感じる。

青春小説に出てくる主人公はこんな物貰って嬉しいのか。


悪戯である可能性が減ったとは言え、完全なる平穏には繋がらなかった。

自分だけではなく誰かからも悪戯じゃないという確証を得たかった。


いつもなら圷か海道、図書委員会の先輩達に話をするだろう。

しかし、今回は誰かが何処かから俺の事を見ているので話しにくかった。

何よりも俺がラブレターを貰った事を自慢している様で気が引ける。


こうなると学校で相談できるのは一人しか思い浮かばなかった。


放課後になって直ぐに図書室から重い辞書を持ちだし、司書さんがいつもいる第一図書室、通称「図書館」に向かった。

「図書室」と言ったら新校舎内にある第二図書室を指す。

創立当初から在る建物を増改築した結果生まれた木造三階建ての「図書館」は百年を過ぎるという。


新校舎と完全に切り離れ、隣接する道立公園の一部である原生林近くに建つという立地。

更地となった旧校舎後に成長した広葉樹林を植樹した為、日中でも入り口が薄暗い。

如何にもと言った条件が整った結果、嘘みたいな話がいくつも囁かれている。


例えば、昔の制服を着た女の子が三階の窓からじっと新校舎を見ていると言った霊の目撃談がある。

眉唾物だが、実際に図書館を見ると本当にいそうだと思わせる雰囲気がある。

個人的には…旧校舎は老朽化の為に取り壊されたが、古くは神社の一部だった図書館だけ残さざるをえなかったというのが一番の傑作だ。


先輩の話だと司書さんが働き始めた頃「美人すぎる司書」と男子が騒ぎ、軽い気持ちで多くの生徒が図書館を訪れた。

しかし、静謐な雰囲気と物静かで柔らかにはぐらかす対応に流されて、話し続ける事が出来ず、先生方が読むような専門書や卒業生が残した文集、古くなった寄贈本等ばかりで時間を潰す事も出来ずにすごすごと退散した。

今では溜まり場どころか勉強スペースにすら使われることもなく、半ば神格化した司書さんが住む魔境として名を馳せている。


校舎を出て図書館を見ると扉の前に誰か立っている。

目を凝らすと、司書さんが森を見つめている様だった。

視線の先を見ても、これと言って変な所はない。

諦めたのか図書館に入っていった。

後を追うようにゆっくりと歩いて、扉を開けた。


重厚な扉を閉めると付いている鈴が図書館の主に来訪を告げる。

司書さんはカウンターから俺の姿を視認するなり外に声が漏れそうなぐらい大きな声を出した。


「おー!木下か!お疲れさん!なんだその本。授業で持ち出しなんてあったか?」


「お疲れ様です。いえ、これはカモフラージュで持ってきました。」


「何だよ。面倒事か?」


俺は無言で書名だけ空欄になっている図書購入希望用紙をカウンターの上に置いた。

うふふ。と口の端から噛み殺せなかった笑みが漏れ聞こえた。


「ちゃんと後輩の指導をしているようで何よりだ。でも木下の分しかないぞ。」


「一枚でダメなら先輩達を説得して増やします。」


「いや。木下から初めての依頼だから一枚でいい。コーヒーにシュガーは入れるか?」


「いえ。ブラックで大丈夫です。」


「わかった。そうだな…今日は棚の上の埃を取ってくれ。」


「わかりました。」


司書さんは扉の外に「整理中につき貸出不可」という札をかけて鍵をかけ、コーヒーの準備を始めた。

俺はコーヒーが落ち終わるまで埃取りを行った。コーヒーが入れ終わり、声を掛けられてから辞書に挟んで持ってきたラブレターを取り出して司書さんに手渡した。

ラブレターを使った悪戯をする奴らがいる事、一枚目のラブレターは捨てた事、授業中考えていた差出人の事を話した。


俺が話終わると、司書さんは口に挟んでいたココアシガレットを噛み砕いた。

持っていたラブレターを俺に渡し、空いた手でジッポライターをエプロンのポケットから取り出した。


「なるほどな。これは本物のラブレターだと私は思う。

ついでに木下がラブレターを捨てる気持ちも、差出人が悲しむ気持ちもわかる。

けれど二通目のコレはちょっとなぁ。」


「差出人の目処つきますか?性格とか教室のどの位置から見ているとか。」


「性格は名前を書いていないんだから引っ込み思案なんじゃないか。

そういうありきたりな事しか想像できない。

教室については木下の方が詳しいな。

私はここと事務室で仕事をするのが主で教室に構造に精通していない。」


「どうしたらいいッスかねぇ…。」


「木下はこの子と付き合う気はあるか?」


「無いです。」


司書さんは新たなココアシガレットを箱から取り出して、煙草の葉を詰める様な仕草をした。


「超美人でもか?」


「うちのクラスにそんな人いません。

それよりも、うちのクラスにこんな事をする奴がいるのだと思ったら最前列は生きた心地がしないッス。怖いです。」


本当に煙草だと思っていたのかくわえた瞬間、顰めっ面をした。

カチャカチャと開閉を繰り返しているライターで火を付けそうな気がして不安になる。


「タイミングが悪かっただけだと思うが…ラブレターで嫌われるとは不憫な時代になったもんだな。

振るにはどうしたらいいか考えているのか?」


「いえ。まだそこまでは。」


「付き合う気がないならちゃんと考えておきな。

私からのアドバイスとしては会って話した方がいい。

手紙や電話だと上手くいかないと思うぞ。」


「わかりました。考えておきます。

困ったらまた来てもいいですか?」


「おう。いいぞ。そうだな…。」


傍らに置いてあったカレンダー見て考えた後、俺の目の前に置いた。


「いい案が思いつかなかったり事態が急変したりしたら来週水曜日までに来な。

手伝ってやるよ。」


「ありがとうございます。なんで水曜日なんですか?」


「金曜日に職員会議があるし、何事にも準備がいるからな。

今の子は考えないで聞き過ぎだ。

学生のうちはネットに答えがあるが、社会人になると答えを作らないといけなくなる。

今は切羽詰まって無いから自分なりの答えを見つけな。

お前を好いている女もその方が納得するさ。」


「先生より先生みたいですね。ところで今回の本は何にしますか?」


「先生みたいというより先生です。先に生きているのですよ。

なんてな、これの一番上を書いてくれ。」


 恥ずかしかったのか、おどけてみせた後で引き出しから取り出したリストを渡された。

書名と出版社、発行形態、何かの日付が記載されている。


「書名の隣にあるソフィア版というのも写したほうが良いですか?」


「それはいいよ。私が発注する時に注意するだけだ。」


『遠野物語 remix』と書いて購入希望ボックスに入れた。


「これは有名な本なんですか?」


「小樽出身の京極夏彦という有名な人が書いたんだが…。

いや、いい。わからないという顔をしている。

サイコロ本を読むのが私は好きだっただが…。

今は短編や上下分冊が多いからこれも時代の流れか…。

今日はしみじみしてしまうな。」


「何かすみません。」


「ジェネレーションギャップを感じているだけだからいいんだよ。

有名な『遠野物語』も知らないだろうな。

これは単体でも面白いし、民俗学を知ってもらえるきっかけとしても良い本だと思う。

立ち読みで少しだけ読んだが、すぐに引き込まれた。

思わず家に帰って柳田國男の本を探したよ。

文庫化して一年が経つし、もう購入していてもいいだろう。

私が借りた後に借りてみてくれ。」


「公私混同じゃないですか。」


笑いながら口をつけたコーヒーはすっかり冷えてしまっていた。


「これくらい目を瞑ってくれ。

数少ない仕事の楽しみなんだ。

お前らがだらだらと授業を受けている間、私は事務処理に追われているんだぞ。」


「追われているんですか?今喋っていて大丈夫ですか?」


「ものの例えさ。あと、学生からの相談を受けないで学校関係者は名乗れないだろう。

私は運転免許しか持っていないけれど、それくらいはしてやるさ。

いや、違うな。

持ってないからこそやりたいと思う。

担当している図書委員の奴らは特にな。

購入図書もその一貫だ。

学生のうちに良い本を読んで欲しい。

私の仕事でもある。」


ココアシガレットをまた噛み砕き、すぐさまもう一本くわえた。


「私はこの学校の卒業生で元書店員だ。

面接はしたけれど縁故採用に近い形での入社となった。

公立高校なら問題かもしれないがグループ経営の私立高校だから大丈夫さ。

別な学校の人事部に知り合いがいるよ。

私が買われたのは書籍全般に対する知識と図書館に対する姿勢だな。」


「姿勢ですか?本の選び方が良いとか?」


「そうだ。本を選ぶのって大変なんだぞ。

だからこそお偉いさんに考え方がウケたのが決め手になったらしいんだけどな。

木下は図書館ってどんな本を買えばいいと思う?」


「面白い本ですかね?思わず読みたくなるような。」


「そうだな。それは必要だ。

でもいざ買うとなったら難しくないか?

金にもスペースにも限度がある。一日に何冊ぐらい新刊が出ているか知っているか?」


よく行く店の新刊コーナーを思い浮かべた。

単行本や文庫、新書のそれぞれの場所で十冊ほど積んである気がする。


「四十冊?」


「残念!少ないんだなー。一日二百六十冊だ。年間八万冊は超えるぞ。」


 書籍リストの裏側に80,000÷(365-65)≒260という数式を書いた。


「休配日という日があってな、日曜日や年末年始、お盆なんかは本が発売されないんだ。

年間新刊発行数80,000冊、一年間365日のうち休配日65日とした時発売日は300日、つまり一日あたりの新刊発行数はざっと260冊。

もちろん数は波があるし、80,000冊も65日も計算しやすいようにおおよその数だぞ。」


「本屋の新刊コーナーにはそんなに無いですよ?」


「そこにあるのは売れそうな新刊だけだ。

売れ無さそうな新刊はそもそも入荷して来ない。」


「じゃあ入荷する本って毎日選んでいたんですか?

これは何冊入荷して、これは入荷しないって感じで?」


「いや。それを決めるのは売上と取次と出版社なんだが…これ以上は言わない。

単なる私の愚痴になるし、本筋から外れる。」


ココアシガレットを指で挟み、大きな息を吐いた。


「売上を作るなら新刊の売れ筋とメディア化を取り揃えたり、返品率に注意しながら一押し商品を積んで報奨金を狙ったりしたらいい。

けれど、図書館は違う。それを履き違えちゃいけない。

高校生が買えない高価な専門書や読んでおくべき名作を揃えるのが図書館の役目だ。

新刊でも既刊でもただただニーズに応えて買うべきではない。

私はそう思っていると面接で伝えたら同じ様に考えていた上役が気に入ってくれたんだ。」


 背もたれに身を預けて、くすんだ天井を仰いだ。


「いわゆるライトノベルや流行りのキャラクターミステリが読みたい。

若手俳優のエッセイが読みたい。読みたいけど金が無いっていうのも全部わかる。

けど図書館に求める事じゃないと思うんだよな。

美術の授業で油絵を書かなきゃいけない時に手が届かないぐらいスゲー高価な美術書を見たり、江戸川乱歩や芥川龍之介みたいな超有名だけど読んだ事が無い本をとりあえず開いてみたりして欲しいんだよ。

そういう為に学校予算を使うべきだと思うから予算会議に出たり広報誌にエッセイ書いたりしてるんだけど上手くいかないよなぁ。

って何か結局愚痴になっちまったな。」


そう言って笑って新しいココアシガレットを俺に一本差し出した。

「さぁそろそろ行った方がいい。長居するとねっとりとしたラブレターが届くぞ。」


促されて外に出た。腕時計を見ると小一時間過ぎていた。


図書室に戻り書棚をぶらぶらと歩き、日焼けした背表紙を眺めた。

俺は卒業するまでに何冊の本を開くことが出来るだろうか。




昨日は図書館にこもっていたからラブレターが来る予感があった。

案の定、図書委員の昼休み当番から戻って来ると机の中に封筒の感触がある。

表には出さず、何かの教科書に挟み鞄の中にまとめて入れた。

右肩を自分で揉みながら、首を回す。

いつまでこんな事を繰り返せば良いのだろう。


胸に鉛色の感情が蹲っている。

自分では普通に過ごしていたつもりだったが、顔色が悪かったらしく教室の清掃を海道が代わってくれた。

海道に礼を良い、班員に断ってから家路についた。

人目の少ない路地裏は気持ちの良い風が通っていた。


家について自分の部屋へ直行する。

鞄を開けると自分の存在を主張するように教科書から封筒の角が飛び出していた。

手に取り封を切るために裏を見るとシールが三重になっている。

カッターを使いハートを真っ二つにして開くと傷ついた便箋があった。


「おつかれさま。俊一くん。

昨日は長い時間、整理をしていたね。大丈夫?

頑張る俊一くんも好きだけど、体調に気をつけて、怪我をしないようにしてください。

大好きです。」


封筒ごと丸めてゴミ箱に投げた。

壁に当たって分裂し、封筒はそのままゴミ箱の中へ入ったが、便箋は縁に当たって床に落ちた。

溜息を付いてベッドに大の字になる。

天井を見つめながら見知らぬ差出人に思いを馳せる。

晩ご飯の時間になるまでベッドの上で右肩を揉んで過ごした。

部屋を出るときに便箋を拾いゴミ箱に入れた。

視線を感じたのは考えすぎだろう。


寝転んでいる時に考えついた計画を実行する為、ご飯を食べた後、すぐにシャワーを浴びて髪の根が乾かないうちにベッドに潜り込む。

早起きをする。早起きをする。と自分に言い聞かせている内に一日が終わった。




当番でもないのに八時前に教室に着く事が出来た。

夜中に何度も起きてしまい寝た気がしなかったが、強く念じれば自分に打ち勝つことが出来る。

何も入っていない机に教科書やノート、文庫を詰め込んでからトイレに行った。

用を足して屈伸運動をしてから教室に戻る。


席に座って時間割を見ながら昨日考えた計画を反芻する。

金曜日の今日は移動教室が無い。

だから朝早く登校して一度も席を立たなければラブレターが机の中に入る事はない。


机の中に封筒を入れられなくなった時に代わりに何処かへ入れる可能性は限りなく無いと考えた。

一般的な学校であれば玄関に下駄箱があり、人気が減るタイミングを見計らえばいい。

しかし新校舎であるうちの学校は家庭科室や体育館など一部の場所を除き外靴で歩く事が出来る一足式を採用している。

各教室の前に下駄箱がある為、人の目が無くならない。

自分の名前を書かないのに、衆人環視の中ラブレターを入れるリスクは負わないだろう。


そして一度も立ち上がること無く全ての授業を終え、下駄箱を覗き込んだ時に笑いそうになった。

ラブレターは入っていなかった。

座り続ける事が出来た達成感と土日は学校へ行かなくても良いという解放感で浮かれたまま気持ちよくペダルを回した。

最高の気分だったので新札幌の本屋に寄ることにした。


新札幌はJR駅、地下鉄駅、バスターミナルが揃う交通の要だ。

俺にとっては冬の通学路でもある。

警察や消防署、金融機関などが集まる様に開発されたので駅に隣接してデパートが入り飲食店も多い。

高架下の純喫茶の脇を通り、CDショップの前にある比較的台数が少ない駐輪場に自転車を止めてデパートへ入るための横断歩道を渡る。


帰り道にCDショップに寄ってインディーズがメインで掲載されている配布冊子を貰っていこうかと考えていたら、従妹が女友達と一緒にデパートから出てきた。

手を掲げて軽く声をかけると酷く驚いた後、ぎこちない笑顔になり手を振っている。

いつもなら一言二言喋るのに立ち止まる素振りを一つも見せずに通り過ぎて行った。

何か変だなとは思いつつ友達と一緒にいた事もあり大して気に留めなかった。

調子に乗って自転車を漕いだせいか妙に体が重たい。本屋を軽く歩いた後、CDショップには寄らずに帰宅した。




寝不足のためか土曜日は昼まで寝てしまった。

従妹から何度も着信があったのに寝続けていたらしく、通知欄が色んなアプリで埋まっている。

電話すると神社に行くから付き合えという命令だった。

俺に拒否権は無い。

台所にあった菓子パンを食べながら自転車に乗って従妹の家に寄ってから、一緒に神社へ

向かった。


従妹は今年の夏に神隠しみたいな体験をした。

それ以降、近所という事もあり月に一度ぐらいの間隔で神社に足を運んでいる。

霊が見えると言われた時には驚いたが、事実は小説よりも奇なりと言うし、嘘をつかない従妹だから見えるのだろうと思い、信じる事にした。


鳥居の傍に自転車を停め、手水舎へ行き、柄杓で水を救って手を清める。

秋口の水は冷たくて気持ちが良い。

ぼやけていた意識がやっとスッキリし、口に含んで思わず飲みそうになった。

従妹からハンカチを借りて口と手を拭いつつ、参拝所へ。

賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼を行う。

背筋を伸ばして礼をする姿を見て大人っぽくなったと思ったのに、その後近くのショッピングセンターへ行ったらパンケーキを強要されるし、UFOキャッチャーで思いっきり騒ぐし、俺が嫌いなのを知っていてプリクラを撮りたいと言い出したので勘違いをした事に後悔した。




休み明けの月曜日も早く起きて登校出来たがペダルは重たかった。

今の一方通行で諦めてくれたら良いが、ラブレター以上の何かをしてきたら俺の方から行動を起こした方が良いだろう。

行動の具体的な案が何一つ思い浮かばないまま朝のショートホームルームを迎えた。


二時間目に化学があるので席を立たなければならない。

悪あがきとしてまた机の中にいろいろ詰め込んでから化学室へ向かう。

最後に自分の教室を出る事は出来てもバーナーや試験管、駒込ピペットを片付けてからじゃないと退室できないので最初に戻る事は出来ないかもしれないと思っての事だ。


圷がビーカーを落としてくれたので最後に化学室を後にして、教室に戻った。

淡い期待と共に自分の席に戻ると、机の上に朝配られたプリントが二つ折りになって置いてあった。

鞄の中に入れたはずのプリント。

上から手を合わせると凹凸を感じた。

日曜日も遊んでないで神社へ行けばよかった。


早く帰ってしまいたがったが、美術室や放送室が並ぶ特別教室棟三階廊下の掃除当番だった。

ゴミをまとめて班員を見送った後、回転箒を片付けて突き当りの窓から夕暮れに染まる札幌市を眺めた。

丘の上に校舎が建っているのでテレビ塔の展望室から一望出来る景色に近い。

真下を見ると職員用駐車場に吹奏楽部が広がってストレッチをしている。

この窓から見えるのはこれぐらいが限界だ。

校舎内から図書館を見るには美術室や音楽室等の特別教室に入らないといけない。

掃除中に閃いて何か手がかりでもあればと思ったがそう上手くは行かないものだ。


帰り道は自転車の上で欠伸が止まらなかった。

涙で視界が滲む。

こんなんじゃいつか事故を起こす。

解決方法としては振るのが良いのだろうか。

だとすると何と言って振ればいいのかわからない。

相手は悪意無く監視する性格の持ち主。

相手の思い通りに成らなかったら刺されるのではないか…。

まさかと言って笑い飛ばせない。


俺の机の中に返事の手紙を入れれば受け取ってくれる気がする。

でも手紙で俺が思っている事を伝えても納得するとは思えない。

手紙が無くなっていても「見ていない。」と言われてしまったら一方的な意思を受け取る事しか出来なくなる。

机の中に返事を入れるのは一回限りだと思って慎重に行動した方がいい。


呼び出すのも二人きりになれる場所がじゃないと来ないだろう。

あぁ。何で俺がこんなに気を使わなければならないのだ。


肩を落として走っていると家に着いた。

階段を上りベッドに腰を下ろす。

鞄の中から取り出したラブレターには差出人の名前が無い上に俺の名前も無い。

シールは一枚だけ歪んで貼られていた。

四枚目じゃない事に少し違和感を覚えたが、気に留めず封を開けようとシールを引っ張った。

強固に貼られていた為、綺麗に剥がれずに封筒が尾を引くように破けた。

取り出した便箋にはただ一言、強い筆跡で「あの女はだれ?」と書かれていた。


頭の中に漂っていた眠気が一瞬にして散開した。

慌ててスマホを取り出し従妹に電話をかける。

居ても立ってもいられなくなり、転がり落ちるように階段を駆け下りてスニーカーに足を突っ込んで玄関を飛び出した。

スニーカーの踵を潰したままじゃ自転車に乗れない。玄関フードでつま先を打ちつけながら履いていると今にも眠ってしまいそうな声で呑気な従妹が電話に出た。


「シュンちゃんじゃーん。電話して来るなんて珍しいねー。何かあったん?」


「何かあったけど、お前は何かないか?何もないか?」


「え?何?何て?」


バリッっと煎餅を食べる様な音とテレビの賑やかな音が聞こえる。

一気に気が抜けてスニーカーの踵を踏んだまま、玄関フードを出て歩道の縁石に腰を下ろした。


「何だ。家か。良かった…。」


「心配させたのかな?何かごめんね。どうしたの?」


「実はさ…」俺は参っていた。

従妹にはこれまでの事を全て話した。

従妹はうちの学校に来た事が無いのに校舎や圷、海道といった色んな事や名前を使いながら話した。

分かり難い話だったと思う。

それでも慰めるように、包み込むように、優しく受け入れてくれる従妹に甘えて話し続けた。

今電話をかけた理由まで話が進んだ時には、いつかと同じ様な月が昇っていた。


「まじか…それは驚くね。

そこまで行ったらストーカーだよ。私も同じ立場だったら心配して電話かける。」


ああ。そうか。これをストーカーと呼ぶのか。

例えようのなかった不安の対象に名前がついた事に俺は安心し、気が楽になった。


「実はね…。」申し訳なさそうに声が落ちた。「気にすると悪いと思って黙っていたんだけど、金曜日に会ったでしょ?その時にね。シュンの傍にいた女の子に睨まれたの。」


「傍?何言ってるんだ?俺は一人だったじゃん。」


「うん。一人だったよ。その子はね、体が消えていたもの。首が浮いて見えたの。

声をかけたらヤバイと思ったから気づかない振りして通りすぎようと思った。」


言いにくそうに言葉を詰まらせたので助け舟を出した。


「けど俺が声をかけた。」


「うん。何が原因かわからないけどイライラしている感じだった。

私が笑って手を振った時の顔なんてマジでヤバかった。

首元で透けていたのに肩まではっきりと浮き上がってきて、鬼のような形相で睨まれたからね。」


それで引き攣った笑顔をしていたのか。


「もしかして神社に行ったのって俺の為か?」


「うん。とりあえず神社に行ったら何とかなるかと思って。

私の家で会った時にはいなくなっていたんだけどね。会うまでヒヤヒヤしたよ。」


「ありがとうな。とりあえずお前に被害無くて良かったよ。」


「良くないし!今の話を聞いてわかったよ!お化けからラブレター貰ってる!

ねぇ…心霊スポットに行ったの?」


「俺が行く訳がないし、霊からラブレターが届くことも無い。

物がしっかり残る霊なんて聞いたことがない。」


「じゃあ誰からさ。」


「それがわかったらこんな苦労はしないんだよ…。

なぁ。どんな感じだった?顔とか服とかさ。」


「思い出したくないなぁ…。」


電話の最中に自分の部屋に移動したらしくテレビの音は聞こえない。

溜息の様な吐息が聞こえた。


「あのね。おかっぱボブってわかる?それを少し伸ばした感じ。

シュンと同じ学校のセーラー服。

顔は怖くてすぐに目を逸らしたからな…。

あぁ…右の頬にホクロがあったはず。」


「ホクロってマジ?」


「うん。心当たりあるの?」


「ある。俺の予想が当たっていればな。

悪いな。変な心配かけて。ありがとう。もう大丈夫だ。

お前んちそろそろ晩飯の時間じゃないか?困ったらまた電話しても良いか?」


「大丈夫って本当?困らなくても何かあれば電話ちょうだい。

解決したらちゃんと報告しなさいよ?」


「わかったよ。ありがとう。したっけな。」


電話を切って空を見上げると頭上に月が燦然と輝いていた。




自分の思い通りに事を運ぶ為、次の日も早起きして家を出た。

呼び出して断るまでに新しい手紙を渡されると先々の見通しを立てにくくなる。

早起きが功を奏して先に教室に着く事が出来た。


チラホラと黒板側のドアを見ているとクラスメイトが登校してくる中、彼女は思ったよりも遅い時間に登校してきた。

周りの女子に挨拶しつつ伏し目がちに歩いて来る。

元気が無いように見える。

けれど、彼女はいつも伏し目がちな気もする。


ラブレターが来る前まで俺は挨拶していただろうか。

全く記憶に無い。

同じクラスメイトだけど彼女がどんな声で、どんな表情をするのか今は思い出せない。

何がきっかけで俺へラブレターなんてもん出す決意をしたのだろう。とりあえず、

今日は挨拶しなかった。

彼女は無言で俺の後ろの席に座った。


今までの人生で誰かに告白した事も、された事も無い。

俺は彼女に何て言えばいいのだろう。授業が始まってからずっと考えていた。


黒板を見ている振りをしながら、ずっと彼女を見ていた。

彼女は最初ちゃんと前を向いていたけれど、十分程経ってから目線だけズラして俺を見た。

視線がぶつかって彼女は硬直した様に見える。

顔は真っ直ぐ前を向いているのに視線だけずらすという事を難なくしている。

こんなに上手に視線だけズラせるなら、あのうるさい先生が注意しないはずだ。


俺は彼女を見続けた。

彼女はいつからこうやって俺の事を見ていたんだろう。

俺の事が気になるらしく何度も目が合った。

そして、その度に俯いてしまう。

先生からプリントの束を渡されたので振り返って後ろに回すと、彼女は受け取るなりすぐに後ろを向いてしまった。

揺れた前髪の隙間から、右の頬にあるホクロが見えた。


今日は図書当番だから閉館時間まで図書室にいなければならない。

昼休み中に司書さんの元へ職員会議を利用するという方法を聞きに行った。

話を聞くと誰にも見られない方法だと思ったので頭を下げて協力を改めて申し入れた。

司書さんは快諾してくれたので、ルーズリーフを貰ってその場で彼女への手紙を書いた。


「金曜日の放課後に図書館へ来て下さい。

 職員会議の日なので二人きりになれます。

 来なかったら次から手紙は読まずに捨てます。」


提案されるがまま書いた簡素な手紙を読み返す。

司書さんに謝ってからカッター借りて最後の一文を切り落とし、丸めてゴミ箱へ投げた。不要な紙は音もなく吸い込まれた。昼休みに新たな手紙は入っていなかった。


六時間目の授業が終わると教科書を全て鞄に詰め込み、ショートホームルームが終わるとすぐに教室を出て図書室に向かった。

席を立った時に椅子を彼女の机にぶつかるぐらい目一杯引いた。

そうすると背もたれで隠れること無く、俺の机の中にある文庫とその上に乗った手紙が、座っている彼女の視線から見える。

彼女が受け取ってくれるかどうかは賭けだが受け取ってくれる予感があった。


つつがなく図書当番を終えて、図書室を閉めてから自分の教室に戻り、机の中から文庫だけ持って帰った。


きっと金曜日に彼女は来てくれる。これも間違いないと思える予感だった。




職員会議を行っている時間は吹奏楽部が音を出さないので校舎全体が静かになる。

ずっと、なんて彼女に話しかけるか、何の話をすればいいか、付き合って欲しいと言われてないのに付き合いを断るのも変な話かと思ったり、俺を好きになってくれた理由を聞いた方が良いのか考えたりしていた。

それなのに何一つとして決めることができずに放課後を迎えてしまった。


彼女は教室の掃除当番なので来るまで少し時間がある。

冷たくなってきた風を浴びながらゆっくりと歩いて着いた図書館はいつも以上に静寂の中にいた。


あらかじめ司書さんがぶら下げてくれた「会議出席中」の札を無視して図書館の中へ入る。

埃っぽい木、赤茶けた本、深煎りしたコーヒー、禿げたワックスで乱反射した陽光、全ての匂いが混ざり合って充満していた。


溢れてしまわない様に奥に進む。どんなに丁寧に歩いても、床に足が着く度に軋む音がして、隙間から抜けていく気がした。

いつも俺が座るカウンターに未開封のココアシガレットが置いてある。

小さな紺色の箱を手に取り、立ったままフィルムを剥がして箱を開ける。

内袋の端を少しだけ切り取り、一本だけ取りだして司書さんの様にくわえた。

手の中でしわくちゃになったプラスチックの切れ端を近くのゴミ箱に捨てると、手紙だった物に重なった。


彼女が来た時に俺の姿が見える様、ドアから一直線上にある階段の一段目で突っ立ったままココアシガレットの端を齧っていた。

図書館は書籍の日焼けが進まない様に昼間でも薄暗くなる作りであるうえ、今は一階全てカーテンを閉めている。

そんな図書館の中で、階段だけ蛍光灯を付けなくても十分明るい。

踊り場の手垢にまみれた窓を見ながら二本目を口にした時、来訪を告げる鈴の音がした。

振り返ると彼女がおずおずと入って来ていたので階段を降りた。


結局何も思いつかないままだ。

報告の為に従妹に電話した時、何かアドバイスされた気がする。

それも思い出せない。

無意識に手に力が入り、手の平に箱の角が刺さった。


数メートル先に自分の事が好きな女の子がいる。

今日もまた俯いている。

沈んでいく陽射しに染められた栗色の髪と、右の頬にあるホクロと、真っ白に輝く産毛と、リップクリームかグロスを塗って少しだけ光る唇が見える。


「ココアシガレット食べる?」


声をかけたら俺の方を向いてくれた。

二重の大きな目、少し低い鼻、似合っていないオレンジ色のチーク。


「食べた事ない…。」

小さな声なのに尻すぼみに、か細く言うものだから語尾はほとんど聞こえなかった。

図書館以外で会っていたら会話にならなかっただろう。


「美味しいよ。硬いから少し口に含んで、唾液で湿らせてから齧ると良い。」

箱を開けて内袋を取り出し、一本抜き取って渡した。

手に取って口に含めず、そのまま握っている。

折れてしまいそうだ。


「木下くん。ごめんなさい。」


声だけじゃなく、体まで震えている。


「いいよ。」


自分でも驚くほど柔らかな声が出た。

嗚咽を堪える音が聞こえる。

俯いて、見えない目には、涙が浮かんでいるかもしれない。

彼女は振り返ってゆっくりとドアに向かって歩いて行く。


生霊となってまで現れた彼女の強い想いを聴いてあげるべきだったかもしれない。

何に対するごめんなさいだったのか質問するべきだったのかもしれない。

悪戯だと思ってラブレターを捨ててしまった事を謝るべきだったかもしれない。

でも、言葉が見つからない。


俺も彼女も悪く無い。

タイミングだけが悪かった。

ラブレターの悪戯が流行っていると聞いていなかったら別な視点で考える事が出来たに違いない。

俺が俯いて一人で黙って考えていないで周りを見ていれば良かったかもしれない。

彼女だって何か違う事をしていれば謝る必要なんて無くなっただろう。

考えればきりが無い。

振り返る事は出来ても遡行する事は誰にも出来ない。


彼女は扉を開けて去っていった。


鈴の余韻が無くなると神妙な面持ちの司書さんがコーヒーを持って司書室から出てきた。


「おつかれさん。コーヒー飲みな。」


「ありがとうございます。いただきます。」


カウンターへ行きカップを見たら、手を触れただけで溢れそうなぐらい波々とコーヒーが注がれていた。

司書さんを見ると椅子に座ってカップに手を触れず、縁から音を立ててコーヒーを啜っている。

和ますつもりでわざと入れたのか、うっかり入れてしまったのかわからない。

この人なら表面張力と戦うつもりだったのかもしれない。

世の中わからない事ばかりだ。


中身が半分になったココアシガレットの箱を置いてから、椅子に座り、頭を下げた。


「改めてありがとうございました。それとこれ、頂きました。」


「残りもあげるよ。ストックはまだあるから気にしなくていい。」


引き出しを開けて新品のココアシガレットを一箱取り出した。残り三箱もあった。


「あの子は来てくれて良かったね。来なかったらどうしようかと考えていたんだ。」


「そうですね。手紙はすぐに受け取ってくれたし、目線が合ったりもしていたので大丈夫だろうとは思っていましたが…。

図書館を使わせてもらったのが良かったです。

二人きりになれて、簡単に入れる特別教室は無いですから。」


「私が図書委員の担当をしているせいか職員会議に出るとみんな思っているんだよな。

たんなる下っ端事務員は職員会議に出ないよ。」


俺がココアシガレットの端を嘗めていると、司書さんは喋りながら開封し、一本加えてすぐさま噛み砕いた。


「そういえばどうやってあの子だってわかったんだ?」


「落ち着いて周りをみたらすぐにわかりました。

俺は最前列に座っていて、同じ列の人からは見えないと最初に候補から外していたんです。

それが間違いでした。あの子は俺の後ろの席です。

各教室に設置されたパソコンのディスプレイに反射した俺を見ていました。

言葉通り俺は頭を抱えて、どの方向から真っ直ぐ見えるか考えていたので視界に入らなかったんです。」


答えが分かったから方法が分かった事は黙っておいた。

信じてくれないだろうし、ズルをしたみたいでちょっと格好悪い。


「灯台下暗しってやつか。見ると言ったらそうだ。

木下、話は違うんだが何か森の噂を知らないか?」


「森ッスか?」


「あぁ。最近森の中を見ていたり、軽装で入ったりする奴がいるんだよ。

隣は道立公園だから入られると困る。」


どうも海道の話が妙に広がっているらしい。

交通事故を目撃した男子生徒が森の奥にある湖で死者があの世に行く所を見た話をし始めると眉間に皺を寄せ始め、終わった時には腕を組んで、溜息を吐いた。


「そんな噂があるのか。遊び感覚で真相を確かめたい奴らを私は見つけているわけだな。」


「司書さんは信じないんですか?お化けとか。」


「信じないよ。見たことが無いからね。

けど、そうだね。橋の先から連れ戻す事が出来るなら探してみてもいいかな。

見送りはもう、十分だ。」


足を組んで俺を見た。細めた目からは感情が読み取れない。


「お前もラブレターを渡したあの子も私からは可愛らしく見える。何故かわかるかい?

まだやり直しが効くと思えるからさ。過ぎてからでは間に合わない事が世の中には多い。

私から言えることはね、ちゃんと感謝は伝えておいた方がいい。

今回の事で誰かに相談しただろ?」


「しました。どうしてわかるんですか?」


「当てずっぽうだよ。お前の雰囲気が急に変わったからそんな気がしただけさ。

相談したのは神社で会った子じゃないのか?早く連絡してあげな。」


ニヤつく司書に再三礼を言ってから図書館を後にした。

校則で校舎内でのスマホは禁止されているので職員用駐車場へ向かう。

振り返った時、司書さんは森の奥を見つめていた。

足元がコンクリートに変わったので、立ち止まって従妹に電話をかけた。


従妹はすぐに電話に出た。

簡潔に結末と感謝を伝えて、月曜日にどんな顔して挨拶をするべきか聞いてみた。

真剣に悩んでくれているらしく、唸り声がする。

電話が長くなりそうだ。とりあえず正門へと歩き始めた。

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