第7話それでもぼくがわいせつ石膏の村に住み続ける理由

1.それほどわいせつではないから


わいせつ石膏の村だからといって、村の人たちが皆わいせつな人間だということはない。おおいに勘違いされていることだけれども、滅多なことでもないかぎり、人前でわいせつな行為をしたり、わいせつな話をしたり、そんなことはしないのだ。女の巡査がどろぼうのあそこに噛み付くなんてのは、よその村の話だ。


むしろ、石膏的な人間が多い。このことは、村を訪れたことのない人に説明するのはむつかしいと思う。けれども、白壁を基調とした村の道を歩く村民には、人間としての色が感じられないくらいだ。そして、皆、アラバスターのようにもろく、どこか儚げだ。真昼の陽の光を浴びたら、そのままサラサラと細かな砂になってしまいそうだ。ぼくはそんな村人たちの中にいることを、この上なく好んでいる。




2.いろいろな人の出入りがあるから


わいせつ石膏の村人たちは、ほとんどが職人肌で、わいせつ石膏以外のなにものにも興味を抱かない、そんな人が多い。だからといって、村になんの変化がないかというと、そんなことはないのだ。行商に出て行った男たちは、少し世俗の匂いを身にまとい、いろいろのみやげ話をしてくれる。よく日に焼けたスク水漁師たちが、とれたてのスク水を売りに来たり、わいせつ野菜の村人がわいせつ野菜を売りに来たりして、活気ある即席市場を開いたりもする。そしてなにより、色鮮やかな衣装を身につけたおまんたちがやって来る。白いカンバスに色とりどりの絵の具が飛び散るように。そして、おまんたちは故郷の特産品だという小豆を置き土産にして去っていく。この村は大きく変わらない。しかし、繰り返される日々はある。


3.それでもやはりわいせつだから


それでもやはり、わいせつ石膏の村はわいせつなんだ。ぼくはそのことを忘れてはいけないと思う。それは、村の辻に配された大わいせつ石膏だの、村の家々にほどこされた装飾を指していうのではない。いや、それもあるけれど。そんなことよりも、あの石膏のような人々が、わいせつ石膏づくりに注ぐ情熱、集中、執着、その深さのことだ。世の中でわいせつ円盤が流行ろうが、わいせつ魚拓に芸術的価値が見出されようが、ただ石膏づくりだけに傾ける業の深さ。ぼくもわいせつ石膏職人のはしくれとして、それだけは誇りに思う。そしてぼくはわいせつ石膏の村に住み続けるだろう。やがて老いて、死ぬまで、わいせつ石膏をつくり続けながら……。

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