第8話脳抜き職人、手抜き仕事をする
あれはもう随分と昔の話になる。私が脳抜き職人になりたてのころの話だ。最近では、死んだ人間をミイラにするなどと言うと、「昔、本はパピルスでできていたんだよ」と言ったときと同じ顔で驚かれる。若いやつはどいつもこいつも電子書籍、電子書籍だ。パピルスのよさも、石板の手触りも知りはしないのだ。本当の知識が身につくというのが、どういうことかわかっちゃいない。
おっと、私の脳抜き仕事の話だったな。年をとると話が逸れやすくなる。記憶に対して奔放になるんだ、覚えておくといい。ともかく、私は二十を過ぎてぶらぶらしていた。親から金をくすねては、日の出町あたりでよく一人飲みをしていた。風俗にもよく行ったし、競馬もよくやった。まさに飲む、打つ、買う、そんな日々だった。
だが、ある日、リフレの店でJKにオールド・スクールのとどめのチョップを食らって、電撃みたいなのが走ったんだな、このままじゃいかんと。どうしてかそう思ったんだ。ちなみにオールド・スクールは一回三千円だったように思うが、まあいいだろう。
私は店を出ると、ふらふらと繁華街を通りすぎた。すると、そこに小さな工場があるのが見えた。もういい時間だというのに光が漏れていた。迷うことはなかった。私はその扉を叩いた。そうして私はミイラ工場に勤めることになった。
親方に雇われるとき、私はひとつ嘘をついた。生まれも育ちも横浜なのに、青森出身だと偽ったのだった。なにか集団就職からあぶれた、不幸な男のように見てくれるかもしれないと、そんな邪な心があった。それにもともと人と話すのが苦手なものだったから、北国の人間らしい寡黙さとでも受け取ってくれればいいと思ったわけだ。
あとから聞いた話だと、親方はメンフィスより南の人間は雇わないということだった。ミイラ作業は基本的に冷えた室内で行うし、北国の人間の粘り強さが必要だというのが持論らしい。ところが親方ときたら自分はラシードの出だというのだからいい加減な話もあったものだろう。
して、新人の私にまず与えられた仕事が「脳抜き」だった。ヘラで脳を掻き出すだけの簡単なお仕事というやつだ。頭に関しちゃ、「カチ割り」がいちばんむつかしい作業で、ミイラ工場の良し悪しは、いいカチ割り職人がいるかどうかで決まるくらいだった。うちの工場にはエクバタナから流れてきたとかいう、腕のいいカチ割り師がいた。60歳はこえていたろうが、確かな腕前の持ち主だった。なんでも昔はわいせつ石膏職人とかいうものだったらしいが、そこである種の繊細さを身につけたのかもしれない。
いずれにせよ、私はきれいに割られた、というか切開された頭から、来る日も来る日も脳を掻き出していた。ヘラの使い方もいくぶんか上手くなったが、こんなものは誰にだってできることだった。ただし、いくつか食えなくなる食い物はできてしまうんだが……具体的に言うのはやめといてやろう。
ともかく、私は定職に就いた。酒も付き合い程度、風俗には行かなくなった。かといって付き合うような女もいなかった。その一方で、桜木町にジョイホース横浜ができたせいもあって、よく競馬をやるようになっていた。
そして、あの日が来た。チヤンピオンスター、二度目の帝王賞の日だ。私は一年と十ヶ月の間、怪我と戦い続けた王者に心酔していた。水曜日、仕事を休もうと思えば休めたが、なんとなく言い出せずに私は職場に出ていた。最近のものは知らんだろうが、ナイター競馬なんてもんはなかったのだ。私は私の脳みそを掻き出すように、虚ろにだれかの脳みそを掻き出していた。たまに目に入る日時計がひどく気になる。そして、また私に電撃が走ったのだ。このままではいけない、と。
私はどっかのだれかの脳みそを1/4くらい残して、ヘラもそいつの頭のなかに入れたまま、工場を飛び出していた。ジーンズの上はミイラ作りの祭服のままだったが、そんなこと気にしないで京急に飛び乗った。私はチヤンピオンスターを見るために大井に急いだ。京急はそれに応えてまさに快特の勢いでナイル川沿いを疾走した。
着いたころには日は傾いていた。しかし私は間に合った。そのころの大井といえばまだまだ鉄火場の空気が濃かった。おまけに砂も砂漠の砂をそのまま使っていたから、今と比べると時計二つは違ったろう。平日の昼間からなにをしているかわからないおっさんや爺さんをかき分けて、私はゴール板前に陣取った。肝心の馬券を買うのも忘れていた。
そして、ファンファーレが鳴り、馬たちが私の前を通り過ぎていった。ジョージモナークがいたナリタハヤブサがいた、あのミスタートウジンもいたし、東海の女王マックスフリートもいた。だが、私の目はチヤンピオンスターに釘付けだった。高橋三郎の勝負服だけを追っていた。
馬たちは四角を回ってくる。前残りかと一瞬思う。しかし、間を抜けてきたのはわがチヤンピオンスターだった。それはもう鮮やかな末脚だった。実況の及川サトルがゴール板より随分前に「おまえがチャンピオンだ!」と絶叫する。
私は涙を流していた。砂漠を豊穣の地に変えてしまうんじゃないかと思うくらいたくさんの涙を流していた。しばらく最終レースが終わっても、しばらく一歩も動けなかった。
工場に帰るころには、すっかり暗くなっていた。親方に叱られるか、クビにされるかすると思い、足取りは重かった。が、シャッターの前でタバコを吹かしていたカチ割り師のシゲさんが「親方には気分が悪くなって早引けしたって言っといたよ。仕事も終わってたみてえだしな。うん、なんかおめえ、大切なことがあったんだろ。それでいいんだ、仕事なんてのは」と言う。
大切なこと……。そこで私はどっかのだれかの1/4の脳みそと、置きっぱなしにしたヘラのことを思い出した。が、時すでに遅し、そいつはしっかり梱包されて、今まさに集荷に来たヤマトのクール宅急便に載せられているところだった。私にはそいつを止める暇もなかった。
というわけで、これが脳抜き職人だった私の、唯一の手抜き仕事だ。あのミイラの脳みそとヘラは、今でもチヤンピオンスターの輝きとともに、心のなかにしまってある。まあ、何千年かしたら、どこかの物好きが見つけちまうかもしれないが、そんときゃ私だってこの世にいるまい。ピラミッドもスフィンクスもいつか崩れて砂に還る。そうさ、それだけのことだ。
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