二章 07:長い夜の幕開け
さっくりと基地の状態と兵の配置の下見を済ませた俺は、ここでの最後の食事を少女と共にすることにした。一緒の食事といえば、俺が初めて少女に歩み寄れた日のことを思い出すが、なにも今回が二度目というわけではない。俺はあれからも、何度か少女と約束を交えては食事を共にしていたのだった。
しかし、今夜は今までと違うところがあり、それは俺が鉄格子を超えて少女側に居ることだった。そんな違いもあれば、さぞかし食と会話が進むであろうと思いきや、そうでもなく。
少女はスプーンを手に取っただけで、目の前に置かれている食事を一口も進めずに、じっと見つめているだけだった。固まった状態の少女に気付いた俺は、千切った菓子パンを口へ放る寸前のところで手を止める。
「食べないのか?」
そう少女に問いかけると、少女はスプーンを食器が載った盆の上に置き、
「……苦手なんです。トマトスープが」
と、気の毒そうに呟いた。
俺から見て、丁度良く上目使いになっているところが何ともにくい。静にはこういうのが足りないんだとついつい思ってしまう程に、男心を掴むような表情だった。
『なんじゃ? 余は苦いのは嫌いであれ、食べようと思えば何でも食べるぞ』
これだから静はダメダメなんだ。
『ああ、好き嫌いは良くないよな』
『そうじゃ。有り難みを感じつつ、美味しく頂かぬとな』
偏食極まる静が言うのもおかしな話だったが、それについては俺も同意見だった。
「好き嫌いは良くないな。大きくなれないぞ」
年長者として、ありきたりな窘めを少女に呈する。俺にも嫌いな食べ物の一つや二つはあるが、全く食べられないわけではない。
「ま、お前のは俺が食うからお前は俺のを食え」
けれども今は大事な時。負担になるものはすべて避けるべきであろう。
「良いんですか?」
ふと前にも同じようなやりとりをしたなと思い出し、俺は笑う。
「良いも何も、今食っておかないと後が辛いぞ? 食っとけ」
「えっと……では、お言葉に甘えて頂いておきますね」
そんなわけで、俺と少女はそれぞれの食事を交換することにした。
『味気がないのう。もう少しばかり香辛料をきかせてくれると嬉しいんじゃが』
スープを口へ運ぶと、小言じみた感想を静が漏らす。
『確かにな』
俺は具材ぐらいはと思い、申し訳程度にある具材を口にするが、汁と同様に締まらない味にしか感じられなかった。しかし、味はともかく食事のバランスは考えられているようだ。スープにサラダにパン。俺からすれば質素ではあるものの、余所の国の食糧事情を鑑みると上出来な方だ。こんな食事を毎日続ければ健康体になるのも間違いないだろう。
「毎日こんなものを食ってるのか」
「それを食べていないのでわからないですけど、あまり変わらないと思います」
俺はふうんと唸り、パンを咀嚼する。パンに関しては変わった点はなかった。
「ここから出たら美味いものでも食べるか」
「楽しみです」
「まぁ、それよりも最初にしなければならないことがあるけどな」
俺はおもむろに立ち上がって窓を見上げた。
今夜は昨夜と変わらず晴れになるそうだったが、目視できるのは何処かの外灯から発せられたぼんやりとした光だけで、星影ひとつ見つけることができない。
どうやら、上空に厚い雲が貯まっているようで、静の術は成功したようだった。
「さて、食いながらで良いから聞いてくれ」
くるりと踵を返して俺は少女へ向き直った。
「は、はいっ」
食べながらで良いと言ったのにもかかわらず、少女は畏まったように手にしていたカレーパンを袋に戻して膝の上に載せた。
「今から丁度、四時間後。消灯から三時間後の午前一時に行動を開始する」
「一時、ですか?」
俺は再び腰を下ろして残ったスープを一気に啜ると、真新しい煙草の箱を取り出した。
「昼と夜。やはり、どちらかというと夜の方が見張りは少ない。今日から明日の間に武器などの大量搬入などがあれば昼を選んだんだが、残念ながらそういったものはなかった。よって一番リスクの低い夜を選んだ」
取り出した一本を、トントンと箱にぶつけて葉を詰め直しながら俺は言った。ライターを点火させると、薄暗い牢部屋にぼうっと明るい火が灯る。俺は咥えた煙草の先端に火を付け、息をついた。
「経路についてだが、基本的に地上ではなく地下を移動する。そしてゴールだが、ここの基地の主な出入り口は空を除いて四つ。大きな壁で囲まれている中、出口がそれぞれ東西南北に位置してる。今居るこの場所は南に位置しているから、目指すのは南口だ」
「あの、やっぱり戦うこととかになったりするんですか」
「避けては通れないだろうな」
ここから南口は近いが、下見の時にも多くの警備兵とすれ違った。故に、どんな状況に陥ろうが門を突破する以上、強行突破になるのは確実だろう。
「……大丈夫なんですか?」
少女の瞳が微かに揺れる。心配の眼差しだ。
「大丈夫だと言ったら嘘になる。俺一人なら難なくいけると思うんだが、お前を護りながらだと話は別になってくる。そこで一つ訊きたいんだが、お前は何が使えるんだ?」
「何が使える、とは?」
「すまない、言い方が悪かった。その、マレビトの力だ」
思い返せば、少女へマレビトの力について言及するのは、今回が初めてだった。
それが少女のおかげかは定かではない。ここ一ヶ月、何か憑き物でも落ちたような気持ちで過ごせたのは確かだった。
少女は少し悩んだ末に、申し訳なさそうな顔で、
「それなんですが……使えない以前に、どんなものなのかもわからないんです」
「仕方ないさ。これが、五メートルの壁を飛び越せるとかなら、話は違ったんだがな」
そんなものは例外中の例外だったが、どんな力なのかがわからないのがマレビトだ。
「それでしたらやっぱり――」
少女が何を言わんとしているか、俺にはすぐわかった。
「それ以上は言うな。お前がその気にならなくてどうする」
「え、えぇと……その……」
図星を付いたのか、少女はしどろもどろになってしまう。少女が不安になるような言葉を口にしてしまったのは確かだが、それとこれとは別だ。
「言っておくが、これでも数々の修羅場をくぐり抜けてきたんだ。俺を信じろ」
歯の浮くような言葉だろう。しかし、少女は俺のことを信頼しているのか、心配そうな面持ちは晴れていた。
そして、日付が変わると、耳を澄まさなくても雨音が聞こえるぐらいの雨が降り出した。
「そろそろか」と俺は静かに時を告げ、少女は「はい」と言って小さく肯いた。
俺は手持ちで最後の煙草をもみ消すと、手持ちの鍵で少女の足に嵌まった枷を丁寧に外していく。これが初めての解錠というわけでなく、入浴の際など外さなければならない用事で外すことはあったが、それでも少女は新鮮な気分だと言って笑った。
準備は整った。
俺が立ち上がると、続いて少女も立ち上がる。そして――
「行くか」
長い夜の幕開けだった。
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