二章 ――His word my hope secures;
二章 01:夢
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.
神の恵みは私の心に恐れを諭し、
神の恵みは恐怖からも解き放つ。
そのすばらしい恵みは現れた、
私が初めて信じた時に。
二章 ――His word my hope secures;
何処かから聞こえてくる銃器の音と人の声。そんな喧噪の中、俺は司と演習場の隅にある縁石に腰を下ろして、ここへ来てからの話をしていた。
「――で、お前の言うその子と信哉が結ばれました。めでたしめでたし、と」
そう締めくくるように司が言った。
そのような内容を話の中に出した覚えはない。どういうわけなのかはしらないが、右手の中でゴムナイフを弄びながら、俺の話をうんうん頷いて聞いた後の台詞がこれだった。
「一体どんな話を聞いてたんだ?」
「だってそんな流れを聞かされたら、なぁ?」
司のその言葉は、空っぽな空間へ投げかけられたものだったが、『うむ』と静がキャッチして、司の知らぬところで会話が成立する。
『静が反応するなよ……』
やれやれと肩をすくめる俺をよそに、静が言葉を継ぐ。
『しかしのう……。客観的に判断できなさそうだから、余から言わせて貰うと、お主の話は脚色だらけで美談になっておったのじゃ。そう思われるのも無理はないぞ』
『ん? そうだったか?』
『嘘は言っとらん』
そんなつもりはなかったが、無意識のうちに美談にしてしまったようならば要注意だろう。大げさな話をするような性格には見られたくない。
「とにもかくにも、面倒事が一つ増えただけだ」
「面倒事とか言われちゃって、可哀想だなぁ」
司はごろんと後ろに倒れて、地の上で大の字になった。腰から足先の方は縁石を挟んで、グラウンドになっているのだが、既に服は上下とも土まみれなので、気にしていないのだろう。
「言ってろ」
俺も後ろに倒れて地を背負う。そのまま寝転んでいると、静がふざけて馬乗りになろうとしたが、寸前のところで追っ払った。
時折、暖かい風がびゅうと吹き、仰向けになった身体をそっと撫でて過ぎてゆく。
俺はその風で物寂しさを覚え、静の方へと顔を向ける。急に大人しくなった静は嵐を控えた農夫のように、気難しい顔をして空をじっと見上げていた。
『どうした?』
『うむ、ちょっとのう……』
らしくない表情をしている静が気になったが、得られたのは煮え切らない返事のみ。釈然としない思いだけが俺の中に残ったが、静はそれに気付いてか、
『
と空を見上げつつ付け加えた。
『……駘蕩ってどういう意味だ?』
静は小難しい言葉をよく使うので、意味がわからないときが往々としてある。
『のどかとか、うららかって意味じゃ。そろそろ卯月になるしのう』
そんなことを考えていたわけではないのだろうが、無理に訊こうとは思わなかった。大事なことであれば、静の方から言ってくれるだろうし、語らないのであればそれなりの理由があるはずだ。
『確かに良い日だな』
なので、俺は余計な詮索をやめて、静の言葉に合わせることにした。
静の言う通り、確かにのどかで良い天気だった。空は天を青々と染め、白い雲が緩やかに漂っている。まるで絵に描いたような春空だ。
俺は先週まで、和国がもうすぐ春の季節になるということをすっかり忘れていた。和国に居なかったから、と言ってしまえば言い訳か。時の流れは速いもので、俺が和国へ来てから二週間が過ぎようとしていた。
良い天気の日には良いことがありそうだなと思いつつ、俺は身体を起こす。
「この後、信哉はどうするんだ?」
司は横たわった状態から、腕を使わずに持ち上げた足と腰の反動のみで跳ね起きて地面に両足を着けた。そんな芸当は俺にはできないので、思わず感心してしまう。
「俺はこれから巡回だな」
ここ数日の内にやったことは、見回りに加えて風呂などへ連れて行く時の付き添い程度だった。
「楽そうで良いよなぁ。オレなんてこれから晩飯まで座学だぜ? 変わってくれよ」
案の定、司から羨望の眼差しが飛んでくる。
軍において座学は訓練と同じく、一生つきまとうものだった。勘違いされやすいことだが、軍隊は身体を動かすだけで良いと思ったら大間違いで、武器の運用保守から作戦計画の模擬講習までみっちり扱かれる。
「退屈過ぎるのも大概だけどな」
「いやいやいや、そういう言葉は暇な奴が言えるんだ。若妻付きで文句を垂れるなよ」
「その若妻ってのは何なんだ」
「だって、信哉はその子のところにいつも行ってるんだろ?」
司はニタニタ笑いながら、俺の右肩に手を置いた。
「その子の歳はいくつなんだ?」
「それについてはさっきも話したが、記憶喪失でわからないそうだ」
記憶喪失と言った辺りで、司は眉を軽く顰めた。
「いくつぐらいかは、見た目でわかるんじゃないか?」
「……背丈は、これぐらいだな」
立ち上がってから鎖骨の下あたりに手を添えると、司から冷たい視線が飛んできた。
「若妻じゃなくてロリ妻か」
「あ?」
思わず凄みを帯びた言葉が飛び出してしまう。
「女の子って言っても、もう少しでかいと思ったんだがな。しっかし、そうかぁ……信哉はそういう子が好みだったとはなあ」
司は小さい声で言ったつもりなのだろうが、丸聞こえだった。いや、むしろ聞かせるように言ったのかもしれない。
『なるほどのう……』
静がうんうん頷いて、納得している素振りを見せる。俺は心の中でアホかと嘆息した。
「やめろ。変なことを言うな」
少女好きの軍人というのは、それはそれで面白そうな奴だが、自分がとなると話は別だ。言いふらされでもすれば、沽券に関わるので勘弁願いたい。
「まぁ、信哉がどうであれ、その子に好かれてるんだろ?」
「何故かな」
「さっきの話を聞く限りあれだな。将来の夢はおよめさん系の子だな」
「なんだそりゃ?」
司の唐突な話題転換についていけず、しらけた顔をしてしまう。
「オレのカテゴライズではそうなる」
「しばらくみないうちに、変なサブカルチャーに毒されでもしたか?」
漫画やアニメ、ゲームといった文化は今でもなお存続している。ただ、マレビトと繋がるようなものに対しては規制が敷かれていて、少年向け雑誌やゲームの衰退が起こっていた。俺も昔は漫画を良く読んだものだったが、静に憑依されてからは静が活動写真(静がテレビのことを頑なにそう呼んでいる)の方が面白いと言うので、いつの間にか読まなくなっていた。
「んなコトねぇって、試しに訊いてみろって」
「気が向いたらな」
――司とそんな会話をしたのが、今から丁度三時間前のことだった。
「お嫁さんとか……ですかね?」
頬を赤らめて恥ずかしそうに言った少女の側で、俺は腰を下ろしているのにもかかわらず、転びそうになった。ありえない話ではあるが、気持ちではすっ転んだ。
「お前、本気で言っているのか?」
「……はい?」
少女の口調には、戸惑いと疑問の色が混じっていた。
「司に何か言われたか?」
「つかさ?」
司のことは知らないらしい。全く身に覚えがないという顔だった。
「何でもない、俺の思い違いだ」
日は西に傾き、窓から光が伸びて、牢部屋の出入り口付近に縞模様の影を形作っていた。以前ならば、その光に目を焼かれただろうが、少女と約束を交わしたあの日を境に、鉄格子の真横が定位置となっていた。
世界から切り取られて隔離されたような空間に、少女と二人きり。正確には三人ではあるが、少女からすれば二人だ。いつかは、すっぽかしてしまう日もあるだろうと俺は思っていた。しかし、結局のところはたわいない話を交えるためだけに、毎日のようにこの牢部屋へと足を運んでいる自分がいた。
『そういえば静の夢はなんだ? まさか、お嫁さんじゃないだろうな?』
そう俺が静に訊ねると、静はクツクツと笑いだした。
『何を言うか、余の夢は世界征服じゃ』
『さいですか』
訊いた俺が馬鹿だった。
『冗談で言っただけじゃ、本気にするでないぞ』
言葉に熱を帯びていたように感じたのは、気のせいだろうか。
『妖怪に夢なぞない。夢なんて、生きる者が得る糧のようなものじゃからな』
『糧、か……』
俺の夢は何だっただろうか。思いを巡らせても答えは出なかった。
「歌手、とか他になにかないのか?」
俺の夢を訊ねられても困るので、俺から質問することにした。
「歌手ですか……」
ピンとこないのか、ため息をつくように少女は言った。
「歌、上手いだろ。目指してみて良いんじゃないか?」
俺がそう問うと、数秒の間が空く。
「そんなことないです。音痴ですし、へたくそですよ」
少女は暗鬱な表情を一瞬だけ見せたが、すぐに一変して作ったような笑顔で言った。この少女とここまで親しくなったのは、いつ頃からのことだったか。思えば、食事の約束をした時には既にこんな状態だったかもしれない。
「そこまで言われると、お前の歌で感動した俺の耳まで、悪いことになるんだがな」
「い、いえ、そんなつもりで言ったわけじゃ……」
少女はぱたぱたと手を振って慌てふためく。軽い冗談で言ってやったつもりだったが、思った以上に狼狽するものだから、逆にこちらが面を食らってしまった。
「そう卑下する程じゃないと思うんだがな。もっと自分に自信を持て」
「そんな、買い被りすぎです。……それに、あの歌以外に歌えるものがないですし」
「だったら、他も歌えるようになればいいんじゃないか?」
「それは……」
「楽譜とか欲しいか?」
「大丈夫です。お気持ちだけで嬉しいです」
ここで遠慮の言葉が出るのは、俺が知る少女の反応そのものだった。だが、そんな返答が返ってくるとわかりきっていた俺は言葉を継いで、
「金なら心配しなくて良い。煙草ぐらいにしか使ってなかったからな」
あまり良い
たまには誰かにプレゼントをしてやるのも一興だろう。
そう思っていた俺だったが、それでも少女は首を大きく振った。
「えっと……違うんです」
頭を振った拍子で、銀色の髪がふわりと舞う。
「違う?」
「その、字が読めないんです。私……」
「そう、だったのか」
俺は少女の返答に肩すかしを喰った。字が読めないとは、楽譜以前の話であった。全世界での識字率は、七災の影響で産業文明の絶頂期に比べて、数段落ちているものだった。故に、文字が読めないことについては世界的に見ても珍しいことでもない。
実際、俺と一緒に任務にあたった仲間の中にも、字が読めないからマニュアルは絵にしてくれ、なんて注文はザラだった。
だが、この少女が字を読めないのではないか、なんて考えは俺の中で微塵もなかった。
「実際に何か読んだのか?」
「本を頼めば頂けるんですけど、読んでも頭に入ってきませんでした」
「前に、色々な言語を話せるって言ってたよな?」
「私もそう思って、違う言葉を色々と試そうとはしたんです。ですが、信哉さんの前の人は面倒臭いと言って、初めの一冊以外は受け付けて貰えませんでした」
前任者とかそういう話もあったな。
「でも、今は大丈夫だろ」
些か傲慢な物言いだったが、少女の話だけでもどういう人物だったかぐらいは察しが付く。俺は字が読めないと言われて臆するよりも先に、この少女へ何らかの助力をしたいという気持ちの方が強まっていた。
「……憶測なんですけど、色々と試さずとも読めないって感じるんです」
それは遠慮というより、恐怖を感じている様子だった。読めなかった時のことを考えると怖い。少女の目がそう言っていた。
「記憶喪失のせいか?」
「どうなんでしょう? 元から読めなかったのかもしれません」
そんな返答が戻ってきた辺りで、俺は後悔した。
「……悪い。いらない詮索をしたな」
その場の勢いに任せて、少女の古傷に触れるような言葉を重ねた自分が嫌に思えた。気怖じする少女の性格を考慮せずに、色々ずけずけと言ってしまうのは危ないだろう。
「いえ、何とも思ってませんから大丈夫です」
俺の懸念は無意味であったかのように、少女はさして気を悪くした様子もなく言い、
「私こそ、信哉さんのご厚意に応えられずにごめんなさい……」
と、おまけに申し訳なさそうに謝罪を口にした。
「気にしないで良い。お前のことを知らなかった俺が悪いんだ」
知らなかったとはいえ、発端は俺だ。少女が謝るのは筋違いだろう。
「だが、それだとお前は普段、何をしているんだ?」
「空を見たり、ですかね」
いつぞやに聞いたような返答が帰ってきた。
そうだ。こいつは、いつも空ばかり見上げている。
ここへ通う内に、俺は少しだけ少女のことを理解できた気がした。この少女は自己と世界の区分を作るために天窓を見続けているのだろう。朝も、昼も、夜も――
「……暇じゃないのか?」
「今は信哉さんが居ますし」
ここで引き合いに出されるとは、思ってもみなかった。
「俺と居てもあまり面白くないだろう」
「そんなことないです。楽しいですよ」
「会話しかしていない気がするんだがな」
そうは言ったが、薄々とは気付いていた。会話が楽しいとかそういった話ではなく、二人で時間を共有することこそが楽しいのだろうと。
回答に悩むだろうと踏んだ俺だったが、もたらされたのはちょっとした間のみ。
「それなら、しりとりしませんか?」
屈託のない笑みを浮かべつつ、少女は大真面目に言った。
「断る」
「いいじゃないですか。この際、会話以外に何かしましょうよ」
俺は素っ気なく返したつもりだったが、少女に笑顔で返されてしまう。しかも、その声は妙に
『しりとりってなんじゃ?』と、静が訊いたのと同時ぐらいに、「私がしりとりの『り』からで――リス。はい、『す』ですよ」と、勝手にしりとりが始まった。
最近になってから、どうも調子が狂わされるようになってきた。
『最後の文字を繋げて、言葉を言い合う遊びだ』
『ほう、
俺には歌鎖の方がわからなかったが、逆を言えばしりとりみたいなものなのだろう。
「水族館」
「うぅ……」
俺が言った単語に、威勢の良かった少女が尻込みした。
『おおっ、なんじゃ護法のことか。だがお主、最後に『ん』がついてしまっておるぞ?』
『わざと言ったんだ』
『素直に相手をしてやればよいのに』
「た、たまたま、『ん』が付いてしまっただけですよね」
たまたまなら仕方ないですよね、などと言いながら少女は苦笑いをした。
「しりとりの『り』からで――リンゴ! はい、『ご』ですよ」
「午前」
「えっと、出来れば物で……」
午前でなくとも御膳でいいのだが、まぁいい。似たもので同じ結果になるものがある。
「ご飯」
ついに、少女は凍り付いたように黙ってしまった。
『護法は言葉を続けぬと結界が解けてしまうのじゃぞ? もしかしたら、余に身体を取られてしまうかもしれぬぞ』
『そいつは勘弁だな。くわばらくわばら』
今になっては、冗談にならない言葉を笑って流せる。これが静と出会ったばかりの頃なら、恐れ戦いたに違いない。
「しりとりはもうおしまいか?」
「イジワルです。信哉さんなんて嫌いです」
さして怒ってないように見えるのは、こいつの顔が可愛らしく見えるからか。
「初めてのしりとりだったのに、二言目で終わるなんて……」
そう呟いた少女は、本当に残念そうだった。
こんな場所にいれば、今までしりとりをするような相手が居なかったのは当然だ。そう考えると途端に悪いことをしたように思えてきた。
「今度、時間がある時にでも付き合ってやるから。な?」
今もなおへこんでいる最中の少女をよそに、俺はゆっくりと立ち上がった。少女は立ち上がった俺を見て、うん? と軽く唸った。
「もう行ってしまうんですか?」
引き上げる空気を悟ったのか、少女は寂しげな表情を浮かべる。
「そろそろ、食事が来る時間だろ?」
楽しげに会話をしている姿を誰かに見られでもしたら、どんなことになるのかわかったものではない。最悪、担当を外されるなんてことも考えられるだろう。
「あっ……」
待って欲しいとでも言うかのようにすっと伸ばされた少女の腕が、俺の腕を捉えるどころか鉄格子も越えることができずに、力なく項垂れた。
行き場を失った少女の手を見て、俺は心苦しくなる。
いつまで、こそこそと会いに行く日々を送らねばならないのか。いっそのこと自室に連れ込んでしまえば――と思ったが、そんなことができるはずもない。
「そう、しょぼくれた顔をするな。夜にまた来てやるから」
俺はそんな言葉を紡ぐことで精一杯だった。
「いいんですか!?」
俺の言葉を聞いた途端に、少女がぱっと電気を付けたように明るくなる。表情がコロコロ変わって、見ていて面白い。
「今日は何もないしな。お前さえ良ければ、消灯まで付き合ってやる」
「はいっ、是非いらしてください」
薄暗い牢獄。場違いな笑顔。
この笑顔はいつまで見られるのだろうか。
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