一章 14:約束Ⅱ

 食事が終わり、俺が持ってきたペットボトルの茶を少女は飲んでいた。


「嬉しかったです」


 しばらく静かだった中、少女からそんな言葉が飛び出した。


「どうした? 藪から棒に」


 少女の持つ手に力が籠もり、ボトルのへこむ音が牢部屋に木霊する。


「あんなことを言ってくれる人は、初めてでした」


 あんなこと。少女は求めたのだ、自分の存在意義を。そして、それに俺は応えてしまったのだ。俺は今頃になってから、ことの重さを身に置いていた。


「気にするな」


 よっぽど嬉しかったのだろう。少女は頬を綻ばせ、鉄格子ギリギリまで近寄っている。ここまで互いの距離が近いのは初めてのことだった。


「誰かと一緒にする食事も、楽しかったです」

「食べていたのは、大体お前だけだったけどな」

『おかげで、余も食いっぱぐれたのじゃ……』

『そこは大目に見てやってくれ』


 昨日利用したような喫茶店など、この基地には夜間以外ならいつでも使える食堂が数店存在しているようだった。司の話によればここで仕事をしている研究者などに対する配慮なのだそうだ。食事を摂ろうと思えば、そこでいくらでもできるだろう。

 ただ、いくら暇といえども任務中に行くのは忍びない。


「……ごめんなさい」

「俺は大丈夫だ」

「本日はご相伴にあずかりまして――」


 少女は地に手を付け、額ずこうとする。


「やめろ、そんなことはしなくて良い。素直にごちそうさまって言っとけ」


 相伴なんて言葉、一体何処で覚えたのだろうか。


「えっと……。ごちそうさまでした」


 改めて少女は小さくお辞儀をしながら言った。


「お粗末さん。それ、持って行くから寄越してくれ」

「わっ」


 俺は空の容器を受け取るために鉄格子から手を出したが、少女に飛び退かれてしまった。


「ごめんなさい」


 空を切って行き場のなくなった俺の手を見て、少女は項垂れてしまう。


「何かにつけて謝る癖はやめた方が良い。今のは俺も悪かったんだしな」

「ごめ――……つい、言ってしまうんです」

「少しずつ慣れれば良いさ」


 俺がそう言うと、「あの、なんで……」と何かを言いかけて、少女は躊躇いがちに視線を落とした。


「どうした?」

「いえ……」


 少女は答えることなく、その先に続く言葉を飲み込んでしまう。


「言いたいことがあれば言って良い」


 続きを促すと、少女は顔を上げて俺を見据えた。


「どうしてこんなに優しくするんですか?」


 どうやら、裏があるのではないかと思われているらしい。


「元から見返りなんて求めちゃいない。単なる気まぐれだ」


 そうは言ったが、気まぐれの一言で片付けられるような気持ちでもない。そもそも何故ここまで少女に肩入れするのか、自分ですらわからなかった。

 少女は口を噤んで黙ってしまう。少女がだんまりを決めこんで、俺は少しほっとする。何故なら、ここで少女から単なる同情だと非難されても俺には反論できる言葉や材料を持ち合わせていなかった。


 いや、待てよ――

 納得できないならば、わかりやすい見返りを求めてしまえば良いんじゃないか?


「なら、こうしよう」


 少女に求める見返り。それは――


「俺のために歌を歌え。それでいいだろ」

「えっ!?」


 少女の瞳孔がはっきりと見えるほど瞳が大きく見開かれた。どう見ても突拍子もないことを言われた顔だ。だが、間違ったことは言っていないと思った俺は構わずに続ける。


「対価だ。今日のお礼がしたかったら、俺のために一曲歌え」

「えっと……」


 少女の口が、ぽかんと弛緩する。


「歌うのはいやか?」

「いえ、そういったことではなくて、それだけで良いんですか?」

「何か他に俺の利益になることができるのか?」

「ないです、けど……」

「一昨日も言ったが、お前の歌は上手かった。また聴きたい」

「信哉さんってすごく変わってますね」


 少女はくすりと笑って、口元に右手を添えた。

 ――信哉さん、という言葉が、少女の口から出たことに俺は驚く。

 名前、覚えていたのか……。


「そうか? 俺には良くわからん」


 名前を呼んだことについては、あえて触れなかった。


「それに優しいです」

「人からそう言われたのは初めてだな」


 そもそも優しいという言葉を耳にすること自体、久々のことだった。


「そうなんですか?」

「昔にも言われたかもしれないがな。忘れた」

「記憶喪失って奴ですね」

「……お前、それはちっとも面白くないぞ」


 自虐的すぎて洒落になってない。だが、そんなことは気にしていないのか、少女はころころ笑う。


「今なら私、あまり気にしませんよ」


 その姿を見て、あんなにも暗かった少女がこんな風に笑えるのかと胸に深く響く。


「やっぱり、呆れちゃいましたか?」


 少女はキョトンとして俺を見た。


「……冗談の一つや二つ言うんだなって思っただけだ」

「わ、私だって冗談の一つや二つ言いますよ」


 そして、少女は二、三度軽く咳払いをすると立ち上がった。

 その瞬間、俺は少女の右手がギュッと服を強く握っているのに気付く。何度そうしたのか、薄汚れた少女の服はお腹の部分だけがシワだらけになっていた。


「……えっと、今日は特別ですよ」


 消え入りそうなほど小さな声。

 少女は見るからに頬を紅潮させていた。恥ずかしいのか、しばらく少女は逡巡していたが、一度歌い始めると人が変わったように真剣な表情かおになった。


 Amazing grace.


 少女が歌う歌は、心地良い響きをもたらし――

 ――今日の牢獄には、美しい歌が響き渡った。

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