一章 10:約束Ⅰ
朝訓練を終え、昼が過ぎて午後。昨夜にできた心のわだかまりを晴らすため、俺は階段を昇っていた。続く先はあの少女の元。暗がりが続く廊下を抜けて扉を開けると、少女は昨夜と同じ位置に座っていた。
そして、扉が閉まると同時に少女は俺の方へと顔を向け、
「また来たんですか」
と、にべもなく言い放った。どうも、前回のやり取りがご立腹らしい。
「ご挨拶だな。退屈していたんだろ?」
俺がそう返すと、様子を伺うような冷たい視線が飛んできた。
「退屈しているのは、貴方の方では?」
「違いない」
予想外の返しに、俺は心ともなく笑ってしまう。朝訓練を終えて士官室へ向かうと、俺が服部に命じられたのは昨日と同じ基地探索だった。基地の調査に関する報告書を提出したのにもかかわらず、だ。つまりは暇を言い渡されたというわけだった。
「お前はここでいつも何をしているんだ?」
「何も」
素っ気ない口調。どうやら相手をしたくないらしい。
「答えろ」
俺は言い方を少しきつくすると、少女の目がかすかに逸れた。俺は追い打ちを掛けるように少女の瞳をじっと睨むと、少女の視線は行き場を失いよろよろと泳いだ。
「……外を見ていました」
少女は視線に耐えきれなくなったのか、萎縮した様子でぽつりと呟いた。俺は「そうか」とだけ返して、静と共に昨夜と同じ位置に腰掛けた。
「ま、じっくり腰を据えてなにか話そうじゃないか」
「結構です」
きっぱりと断られてしまった。
だがここで『はい、そうですか』などと返して、帰る俺でもない。
「そう言うな」
そうは言ったものの、俺には話題という話題を持ち合わせていなかった。
「今日は良い天気だな」
朗らかに、そしてさりげなく。俺は少女へ話題を振った。
「あの、曇りなんですけど」
窓へ視線を移すと、鈍色の雲で覆われた空が映っていた。訓練中は晴れていたのだが、地下で過ごす内に曇ったらしい。地下に居るとこういった弊害が出るようだ。
「……冗談だ。それぐらいわかってくれないと困る」
俺がそう言うと少女は沈黙してしまい、会話が途切れてしまう。
『何を話せば良いんだろうか?』
形容しがたい圧迫感に返り討ちにされた俺は、助け船を求めて静に訊ねる。
『余に聞くのか!? うーむ、名を訊いたりすれば良かろう』
『なるほど、名前か』
確かに俺は、こいつの名前を知らなかった。
「そういえば、お前の名前を訊いてなかったな」
俺が名前を訊くと少女の顔が陰った。
良くない話題だったのだろうか?
「えっと、あの……その……」
しかも、しどろもどろになって混乱しているようだった。
「ごめんなさい。……名前、覚えてないんです」
「そういえばそうだったな」
昨日、記憶喪失だと打ち明けられたのをすっかり忘れてた。いつ頃から記憶喪失になったのかは聞いていなかったが、こんな状態なら名前も忘れていてもおかしくはないだろう。
「でも、ここの人達からはホープって呼ばれています」
「何だ? そのホープってのは」
「……私の名前だそうです」
少女は躊躇いがちに言った。
「名前ねぇ……」
つい、俺はオウム返しに呟いてしまう。その後に出たのはため息だった。
――
この少女の識別記号。牢獄の中の希望とは傑作だ。
『何か意味でもあるのかの?』
『ホープは希望って意味だ』
『名付けた奴は粋な名を思いつくのう』
俺の内心を代弁するかのように、静が皮肉を言う。
「気に入らんな。それでいて実にくだらない」
昨日の歌のことといい、気に食わない。
こいつの境遇を壊したい。なんとなく、そんな気持ちになった。
「ホープなんてくだらない。俺はお前のことをお前と呼ぶ。わかったな?」
「へっ?」
意外、といった様子で少女は俺の顔をまじまじと見つめる。
「どうした? 文句でもあるのか」
「ま、全くない……です」
ここで再び会話が途切れてしまう。
――重苦しい沈黙。何か話そうにも話題が尽きてしまったので俺はいつも通りに煙草を取り出し、火を付けた。静はふて腐れているようだが大丈夫だろう。
煙草の箱をポケットに仕舞う時、ふと箱に書かれていた文字に目が留まり、俺は無言で箱を握りつぶした。箱の中にはまだ数本残っていたが勿体ないとは全く思わなかった。
「それ、煙が出てる……」
「これのことか?」
俺は鉄格子に近づき、煙草を持った手を少女の方へと向けた。少女は興味があるようで、四つん這いになって鎖を引き連れてきたが、煙が当たるかの寸前で彼女は顔を顰めて後ろへ下がった。
「くさいです」
「煙草だしな。吸ってない奴からすればそうかもな」
「これが煙草?」
少女は初めて見るような眼差しで煙草を見つめていた。――だが、それはおかしい。
「昨日も吸ってたんだけどな」
そう。こいつは昨日に一度見ていたはずだ。
「昨日はその、あまり見てませんでしたから」
俺は紫煙を燻らせながら、昨日の少女を思い出す。確かにあの時は気が触れていた様子だったので、こちらを気にする余地もなかったのだろう。
「どうして煙草を吸うんですか?」
『そうじゃあ、そうじゃあ。何故、お主は暇になれば吸うのじゃあ』
静はさて置き、少女の方は疑問というよりは、俺の返答を試している様子だった。
「吸わないとやってられないんだよ」
「煙草については体に悪い物だって知ってます」
「それでも、だ」
「自分で自分を痛めつけるなんておかしいです」
『ほんとじゃぞ、信哉。お主よりも数段この娘の方が
「そいつは詭弁だ」
食って掛かる少女を睨み付けると、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「本当のことを言っただけです」
『ようし、そのままガツンと言ってやるのじゃ』
「ちょっと黙ってろ」
うっかり口に出してしまい、少女から警戒した表情で睨み付けられた。
「あ、いや、お前は喋って良い」
意味がわからないのは当然で、少女は小さく首を傾げた。
『はいはい、余は黙っているとするかの』
「――ともかく、だ。ガキはまだ知らなくて良い。それよりもお前は、俺の心配じゃなく、自分のことを心配するべきなんじゃないか?」
「し、心配なんて微塵にもしていません。ただの興味です!」
思いもよらない切り返しだったのか、少女は大きな声で叫んだ。肌が白いので、顔を真っ赤にしているのが見てすぐわかる。俺は少女の言葉を無視して、そのまま煙草を吸い続けた。少女はどうも俺のことが気になるらしく、俺が煙草を吸い続けている間ずっと、煙草を吸っている姿を見るともなく眺めていた。
「匂いが気になるか?」
急に話しかけたからか、少女はビクッとして視線を逸らす。
「いえ、平気です」
昨晩は窓の外が夜だったので気付かなかったが、天井を見ると空調が付いているようだった。辺りが全く煙たくならないのはその空調が効いているお陰だろう。
「だったらずっと見てるな。お前は食事中の人間をじっと見たりするのか?」
俺の問いに少女はむっとした表情になる。
「私は誰かと一緒に食事したことなんてないです。今後も一切ないでしょう」
箸が転んでもおかしい年頃の女の子が、自己憐憫をするどころか諦観したような物言いをするものだから、俺は憮然として二度目のため息をついてしまった。
おそらく、こいつは記憶を失ってから、ずっとこの牢獄で過ごしてきたのだろう。
「そいつは残念だったな」
辛辣に返すと少女は俯いてしまった。
自分から切り出しておいて、こんな返答一つで落ち込むぐらいなら最初から言うなと言いたいところだが、そんなことを口にしたところでどうにもならない。
「明日の昼、俺と一緒に食べるか?」
そして出てきたのはこんな言葉。その言葉を聞いた少女が、ぱっと顔を上げた。
「い、良いんですか?」
「ただの気まぐれだ。今夜と言ってやりたいところだが、先客がいる」
「それは、本当に……」
「昨日、くだらない嘘は言わないと言ったはずだがな」
「そうでしたね」
少女は初めて見せる笑顔で大きく肯いた。
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