一章 08:朝

 朝の気配を感じ取った俺は睡眠から覚め、まぶたを開いた。

 朝日がカーテンの隙間から差し込み、周囲はしんと静まり返っている。

 何の音もない。


 のろのろと起き上がって大きく息を吐くと、吐息の音が白い壁に吸い込まれただけだった。見慣れない寝具。見慣れない天井。見慣れない部屋。

 ――ここは何処だ?


 夢遊病の類いで他人の家に入り込んでしまったか? いやいや、まさか。

 そんなことがあろうものなら、静に止められるだろう。体を起こしたのは良いものの、まだ意識はぼんやりとしてしまっている。昨日の記憶をまさぐり、ようやくのことで和国のアイン基地にいるのだと俺は自覚し直した。


 そういえばそうだったな。……って、待てよ?

 もしやと、慌ててチェストに置いた腕時計へと手を伸ばす。杞憂にも時刻は五時ぐらい。朝訓練にも間に合う時刻だ。時差ぼけが気になっていたが、体は程よい時間に起きてくれたようだった。

 視線を右下へと移すと、静はすやすやと寝息を立てていた。


「静、起きてくれ。もう朝だぞ」

『うーむ、もう食べられないのじゃあ』


 肩を揺らすと、静はコメツキムシのように手足を宙でばたつかせた。その動作で静が纏っている和服はひらひらとベッドの上で舞い、髪はクシャクシャと乱れてしまっている。


 非常に滑稽に見えるが、俺にとっては長年続いてきた茶飯事だ。俗っぽい妖怪だなぁと呆れかえるのも、もう飽きた。もうしばらくしたら演習場へ向かわないといけないのだが、こんな状態の静をひきずりながら歩くのはさすがに気の毒だった。

 俺がそのまま揺さぶり続けると、


『あぐっ』


 噛みつかれた。腕を。


「――いっっってぇ」


 まさか、噛みつかれるとは思ってもみなかった。袖を捲って見ると、くっきりとした歯形が腕に残ってしまっている。相当な力で噛まれたようだ。


『しょぱようなのじゃ。なんか腕が痛いのう』


 静は目を擦りながらむくりと起きた。


「おはよう、静。……おはようとしょっぱいが言いたかったのはわかった」


 俺は噛みつかれた右腕をさすりながら、挨拶を返す。


『うむ、しょっぱかった』

「俺の腕はそんなにしょっぱかったか」

『おぉ、久方振りに何かを口にしたと思ったら、お主の腕だったとは驚愕じゃ』

「いつか静に食われるんじゃないかと思うと、末恐ろしいな」

『不味かったからそれはない』


 勝手に噛みついておいて、不味いとは酷い言われようだ。


『なんじゃ、こんな早うから。訓練だったりするのかの?』


 静はベッドから降りて、背伸びをしながら立ち上がった。


「その通りだ。ところで静、髪がぼさぼさになってるぞ」


 静の髪は見るからにぼさぼさだった。ところどころ髪が跳ねっ返り、前に垂れ下がった髪は顔をうっすらと覆っている。


「今から幽霊の練習か?」

『馬鹿を申すでない。低級霊に身を堕としたつもりなぞ微塵もないわ』


 幽霊と比較されたのが気にくわなかったらしく、静が表情を歪ませる。朝っぱらから噛みついてきて悪霊そのものなんだが、それ以上考えるのはよそう。もう噛まれたくない。


「嫌だったらなおすんだな」

『まったく、別にお主にしか見えないからよいではないか』

「駄目だ。そのままだと俺が気になる」

『わ、わわわわっ……』


 俺は静の腰を両手で掴んで持ち上げると、そのままベッドへ座らせた。


『昨日から余のことを気にしおって……ただし、耳には触れるでないぞ』


 静は昔から頭上の耳に触られることを異常にいやがる。


「わかってるわかってる」


 俺は乱れた静の髪を手櫛ですいて整えてやる。静の髪はぼさぼさになっていたが、梳ると驚く程サラサラだった。そして、


「よし、これで大丈夫だ」

『もうよいのか?』


 首を回してこちらを振り向く静。


「ああ、いいぞ」


 静は時折、突拍子なく子供じみた行動に出ることがある。この場合の静は、ベッドの上で立ち上がるなり、勢いを付けてひょいと跳び上がった。その瞬間、装束の袂が鳥の翼のようにふわりと舞い、俺の横にストンと着地した。そして、俺の顔を見るなり、


『メシ』

「亭主関白か」

『常套文句の内で風呂の文字は余にはないぞ?』


 俺のツッコミに対して、静はあどけない顔で返す。


「それでも食いたくなったら、俺に食わせて、あとは寝るだけじゃないか」

『元来、妖怪はそういったものじゃし……』


 俺は妖怪でもなければマレビトでもない。妖怪だからと開き直られてしまうと、返答に苦しい。自由奔放な静が何処か羨ましかった。


「まぁいいか、静はいなり寿司を食べたいんだったか?」


 俺がそう言うと、静は思い出したように三度肯いた。


『おお、こうしちゃおれぬ。早う朝餉を調達しに行こうぞ』

「わかった。身支度を済ませたらすぐに行くか」


 そうして俺達は、地上にあるPX近くへとやってきた。

 ここら一帯はマーケットになっているようで、軍人の他にもここに勤めている研究者らしき人などが見かけられた。それも朝早いというのに結構な人数だ。


『お主、あの小洒落た店は何じゃ?』


 静が物珍しそうに、店の看板を指差す。

 先程から静はずっとこんな調子で、さながら公園ではしゃぐ子供のように遊歩道を駆けずり回っては、俺へ質問を重ねていた。


『あれは喫茶店だな』


 喫茶店が軍の基地内に存在しているのは、俺も初めて見る光景だった。


『そうか、カフエーか。信哉、ここへ入ろう』


 俺はぞっとした。静がカフェという単語を知っていただけでも驚きだったが、静がカフェという単語を喫茶店を差し置いてわざわざ使い、あまつさえここへ入ろうと言い出すなどひどく衝撃的だった。


『静。いいか? 寝ぼけるのもいいが、ここは寿司屋とは違うぞ』


 喫茶の入り口付近でキョロキョロしている静に向けて、俺は言葉を投げかける。対して静は返事こそしなかったが、俺の小馬鹿にした物言いはしっかりと伝わっていたようで、むっと口を結んで睨み付けてきた。


『喫茶店に入ったら、寿司が食えなくなるぞ? いいのか?』

『よい』


 きっぱりとした返答。俺は再びぞっとした。驚きを越えると震え上がるらしい。大好物のいなり寿司を蹴ってまで、物珍しさに惹かれる静でもないはずだった。それなのに、目の前の彼女は喫茶店をご所望の様子。

 良く似た偽者だろうか? まさか。偽者であれ、静は一人で十分だ。


『本当にいいのか?』

『やぶさかでないと言っておろう。……まさか、余がカフエーも知らぬであろうと馬鹿にしておるな? じゃが、そのようなことはない。カフエーの作法も心得ておる』


 心得顔で静は言い切り、フフンと鼻を鳴らす。つまりは正気というわけで。


『本当の本当にいいのか?』

『くどいぞ』


 もっともらしい理由を聞いたが、予想してなかった展開についつい聞き直してしまった。


『……わかった。入ってみるか』


 俺には確固たる対案があったわけではないので、異論はなかった。それに、こういった類いの店には、しばらく縁がなかったので悪い気はしなかった。

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