一章 02:祖国

 オレンジジュースはすぐに届いたものの、俺がそれを口にしたのは少し経ってからのことだった。

 目の前のオレンジジュースは一つだが、俺が飲んでいるのには理由がある。


 それは、俺の味覚や触覚と言った五感は全て、静にも伝わるからだった。これも取り憑かれているが故の副次的なものだろう。そういうわけで、俺はコーヒーの代わりに甘ったるいオレンジジュースを飲む羽目になっていた。あんなことがありながら、自分が飲みたくないものを飲まされる気分は最悪に近かった。


『うまいか?』


 せめて相方は楽しんでくれているかと訊ねてみれば、静の返答は『ん』と、鼻を鳴らしたような適当なものだった。


『うまいんなら、うまいぐらい言ったらどうだ』

『うまい』


 人の気も知らずにコイツは……。

 そう静に言えば、人間じゃないからの、なんて言うにちがいない。これがいつもの静のペースなので、ぐだぐだ言っても仕方ないだろうと俺は諦めた。


『しっかし、和国に来るのも久々じゃのう』


 二人揃って無言のまま窓から見える景色を眺めていると、静が感慨深そうに呟いた。


『確かにそうだな』

『んん? あまり嬉しそうでないな? お主の祖国じゃろうに』


 再びストローを啜ると、口の中に柑橘の酸味と甘みが広がってゆく。

 嬉しい。確かに嬉しいのだが――

 和国であった数々の出来事を思い出すと、俺には辛さしか感じられなかった。柑橘の甘さと酸っぱさは、今の気持ちとよく似ていると思う。


『静と出会った場所でもあるからな。さっきの件といい、ほんと残念な気持ちだ』

『もう一度、申してみるがよい。そんなに余が嫌か』

『それは言い過ぎだ。ちょいとフォックスハンティングでもしたい気分なだけだ』


 先ほどの仕返しにと、冷ややかな笑みとともに言い放つと静は柳眉を逆立てた。


『お主、余が言葉を理解できぬと思って馬鹿にしておろう!? 狐を馬鹿にしておることぐらいは、お主の心を通じて余にもわかるぞ』

『そいつは失礼』


 さすがに意味が直截的だったようだ。


『これじゃったら、お主の身体を早々に乗っ取っておくべきだったか』

『その言葉だけど前々から言いつつ、しようともしないよな。情でも湧いたか』

『ちっ……ちがうわい!』

『はいはい、わかったわかった』


 静が顔を茹でダコのように真っ赤にして怒り始めたので、静の頭をぽんぽん叩く。

 これは俺だけの特権だった。


『この痴れ者が! 余に気安く触れるでないわ』


 適当にあしらわれた上に頭を撫でられたからか、静は俺以外の奴にも聞こえるのではないかと思えるほどの盛大な舌打ちをして、窓に視線を移した。


『お主なんか、犬に喰われてしまえ』


 繰り返すが、野狐の天敵は山犬だ。


『そう拗ねないでくれ。後でいなり寿司を買ってやるから』

『それは誠であるか』


 俺の言葉に静は座席からがばりと飛び起きた。ありきたりと言ってしまえばそれまでなのだが、静の好物はいなり寿司だった。狐に油揚げ、よくある話だ。


『せっかく和国に向かっているんだしな』


 そう言い終えた直後、俺は興奮しきった静に首根っこを両手でがっしり掴まれてしまう。


『約束じゃぞ。余とお主の約束じゃ』


 首を掴まれた状態で右へ左へとぐらぐら揺さぶられる。俺以外の奴が端から見れば、一人で揺れているように見えるだろうから奇っ怪なことこの上ないだろう。


『わかっ――わかったから、離してくれ。息ができない』

『うむ。お主に手を出すと余も痛いから、これぐらいにしておくかの』


 急に手を離されたものだから、俺は勢い余って倒れそうになった。


『だったら最初からしないでくれ』


 よろよろと身を起こして座り直す。


『……話の続きなんだが。和国では色々とあったから、良い思い出がないんだよ』

『そんなに余と出会うのが――』


 冗談とも思えない真剣な切り出し方をしてしまったからか、静が心配を口にしようとしていた様子だったので俺は慌てて言葉を遮った。


『あー違う違う、俺にとって静はかけがえのない家族だ』

『むぅ』


 静は返答に窮したのか、頬を紅くして唸っただけだった。


『だけど、ずっと一緒ってのは少し頂けないけどな』


 俺と静が離れられる距離は静曰く、十尺だった。

 十尺をメートルに直せば三メートル。これ以上離れると、静が俺の方へ引っ張られるらしい。静は俺の身体に縛られているとのことだが、仕組みはどうであれ、四六時中一緒というのは不便なことこの上ない。


『お主のことは嫌いではないし、余は平気じゃぞ?』

「俺が平気じゃねぇよ!」


 つい言葉にしてツッコんでしまった。風呂とかトイレとか、一向に慣れる気がしない。


『あー、オホン。お主』


 俺の気持ちを汲んだのか、静はわざとらしい咳をして腕を絡ませてきた。そのまま静に右腕をぐいぐいと引っ張られ、窓際の方へとたぐり寄せられていく。

 その力があまりにも強かったので、今度は静の方へと倒れそうになった。


『ちょっ……どうした?』

『見ろ。あの街は一体何なのじゃ?』


 静に言われるがまま視線を窓へ。窓の向こうには陸地が広がっていた。遠くには青緑色の綺麗な山々が連なり、その山の近くに密集している建造群は、まるでミニチュアのようだ。だが、静が指差していたのはそこではなく海側の方で――


『あれは……』


 人がいなくなった場所。死んだ街。

 昔は息づいていたと思われる街は、海に沈みひっそりとその生を終えていた。注視すると多くの家が海面から屋根を氷山のようにちょこんと出していて、その光景が何とも珍妙だった。


『死んだ街だな』俺がぽつり漏らすと『死んだ街?』と静が質問を重ねた。

『今から百年ぐらい前に、七災しちさいと言われている災害があったんだ。多分、ああやって街が海に沈んでるのはその影響だろうな』

『七災か……。うーむ聞いたことはあったやもしれぬが、忘れた』


 けろりとした顔で言う静に、まるで他人事だなと思いつつ、


『噴火、飢饉、水害、地震、疫病、稀人――最後に戦争。それら七つを合わせて七災と呼ぶんだ』


 そう言い終えた直後には打って変わって、静の顔はさっと青ざめていた。何事かと訝しんでいると、静がわなわなと震えながら口を開いた。


『もし、余が封じられていた社があのように沈んでいたらと……』


 ああ、そういうことか。


『その時は海の藻屑でさよならだったな』

『よ、よかったのじゃ……』


 静がへなへなと座席にへたり込む。俺はそんな静を見て、仮に海に沈んだとしても海藻として上手くやっていけそうだな、と心の中で失笑した。

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