左腕のアイリス

エンジニア㌠

アメイジンググレイス篇

一章 ――The Lord has promised good to me,

一章 01:始まり

 Amazing grace how sweet the sound

 That saved a wretch like me.

 I once was lost but now I am found,

 Was blind, but now I see.


 アメイジンググレイズ、なんて甘美な響きだろうか。

 私のような愚者もお救い下さった。

 私は迷っていたが、再び見出せた、

 見失っていたものも、今は見える。

      ――賛美歌『Amazing grace』より



 百年前にあった日本という国では、銃の携帯が許されていなかったことを、俺は最近になってから知った。日本という国から和国わこくという名に変わった今、スーパーマーケットの一角にでかでかとSALEと書かれた張り紙とともに売られている有様だ。


 それが良いのか悪いのか。杓子定規に考えれば回答は容易いことだろう。だが、単純に武器を悪とするのは所詮、周りから受けた同調に過ぎない。事実、今この世界でいちばん人間を殺しているのは銃でも刃物でも爆弾でもない。


 では何か。

 その質問を道行く人に訊ねて回っても、同じような回答が得られると断言しよう。

 それは病気だ、と。


 なかなかウィットに富んだ回答だろう。それでも、その病気とは三大疾病でも新種のウィルスでも、ましてや国が開発した生物兵器というわけでもない。

 超常能力症候群Psychic Abilities Syndrome――PASSパスと呼ばれる奇病。

 その病が人を殺しているのだ。けれども、死ぬのは患者ではなく、何ら病を持たぬ普通の人の方だった。どういうことかといえば、答えは単純だ。


 圧死、焼死、凍死、毒死、轢死、爆死、煙死、溺死、感電死と死因は様々。

 それら全ては人あらざる異形の力によって引き起こされ、力なき者たちが犠牲になる。

 その異形の力を持つ者たちは、デミゴッドや悪魔付き、サテュロスなど様々な呼び方をされているが、それらが意味することは一つだ。


 そして、この和国ではとある言葉を引用して、とりわけこう呼んでいる。

 異界に住まう者のような人々。

 ――まさに『稀人マレビト』である、と。



 一章 ――The Lord has promised good to me,



 おおよそ人生の意義について考えるときは、考える時間がたっぷりあるときか、哲学書を読んで感化されてしまったときぐらいだろう。そして今の俺は前者であり、エアバスと呼ばれる軍用輸送機の客席で十時間を超えるフライトの最中だった。


 言ってしまえば、暇という訳で。

 だからだろうか。ぼんやりとした頭で、今までしてきたことの意味について考えてしまうのは。もっとも、今の生き方以外に生きる術を知らないということも確かだった。生きるためには、大なり小なり何かを犠牲にしなければならない。


 俺のそれは、他人の血を吸うような生き方だった、というだけだ。

 なんてこともない。


 けれども、心のどこかで割り切れない自分が存在しているのも確かで、今のままで良いのかとも考えてしまうのだ。そんな俺は、五年後には一体どうなっているのだろうか。相も変わらず軍人を続けているかもしれないし、ふとした切っ掛けで死んでいるかもしれない。あるいは――


『なーに、ため息ついているんじゃか』


 感傷にどっぷり浸っていると、古風な話し言葉でありながら、幼めの声が心の奥底から聞こえてきた。


しずは悩みがなさそうで良いよな』


 俺はそう静に向けて

 声に出してはいない。けれど、言葉を差し向けた相手にはしっかりと伝わったはずだ。

 俺と静の意思疎通。それは俺の心の中で行われる。


『二十そこら生きたぐらいで、今までの人生について考えるなぞ片腹痛いわ。ざっと百年ほど生きてから申せ』

『そこまで生きる人間のほうが稀だろ』

『多少のことで迷うなという意味で言ったつもりなんじゃがな』


 それぐらいわかってるが、その見た目で言われてもな……。

 静の言った百年という言葉だが、冗談でもなく、彼女自身が百年以上も生きているが故の台詞だ。とても百年以上生きているようには見えない、子供の姿をしているが、その言葉が本当であると思わせるモノを静はもっている。


『……今なんか変なことを考えたじゃろ』


 頭の上にくっつけたような尖った耳がピクリと動き、服の横から飛び出ている黒い尾が不機嫌そうに揺らめいていた。この耳と尾が静の一番の特徴で、本人は稲荷玄狐いなりげんこの妖怪と自称しているが、俺に取り憑いている状況は狐の悪霊に近い。


 それに見た目でいえば狐というよりは犬――いや、これ以上はよそう。野狐の天敵は山犬なのだ。

 伝えようという意思がなければ伝わらないはずだが、どうやらぼんやりとぐらいは伝わってしまうらしい。

 心の中で思っただけで意思疎通ができてしまうのは、逆に不便だった。


『気のせいだ。それよりも当機は禁煙ですとかやることがなさすぎるだろう? 感慨に耽ってもおかしくないと思わないか』


 やるせなく俺がそう言うと、静は眉間にしわを寄せた。


『お主は煙草を吸い過ぎなのじゃ。吸うなとは言わぬが、少しは控えたらどうじゃ』


 できる限り努力はしてみるさ。無理だがな。


『しかし、お主が言うように確かに暇じゃな。何かしようぞ』

『何か、ねぇ……』


 俺はエアバスの座席に深くもたれてから考える。昨日まで俺たちは、クルトという名前の国でずっと任務にあたっていたので、遊び道具なんてなにひとつ持っていない。


『何かと言われても知っての通り、将棋とかは持ってないぞ』

『つまらんのう』


 遊べるものがないと知るや否や、静は座席の上でVの字になって目の前の座席へ足を投げ出した。よりによって静の服装は和服なので、めくれ上がった裾から足の付け根まで見えてしまっている。


『ケツが見えてるぞ』

『余の姿はお主にしか見えぬから別によいではないか』

『俺が気にするんだよ』


 ふて腐れて言うと、静は挑発的な表情で裾を軽く持ち上げた。


『どうじゃ? 触ってみるか?』

『アホか』


 目のやり場に困っていると、ちょうどよく背後から扉の音がした。助け船が来たような感覚で扉の方へ視線を持って行くと、そこには清楚そうな若めの女が立っていた。


長谷部はせべ様。お飲み物はいかがでしょうか」


 このまま十時間、誰とも会わずに目的地まで着いてしまうのではないかと思えたが、さすがに飲食の提供ぐらいはしてくれるらしい。

 長旅で眠くなってきたところだし、「コ――」ヒーで頼む、と言おうとしたところで、


『コーヒーは嫌じゃ、甘いのがいい!』


 静の声が俺の思考に割り込み、その後に続く言葉を妨げた。


「少し黙ってろ!」


 やけに大きく響いてしまった俺の声に、女は弾けるように肩を揺らした。


「し、失礼しましたっ」


 深く頭を下げた女を見てハッとした俺だったが、口にしてしまった後ではもう遅い。俺は静に向けて言ったのだが、この女から見れば自身に差し向けられた言葉でしかないだろう。


「これは違うんだ。ちょっとした勘違いだ」


 俺はすかさず立ち上がって、なんとか誤解を解こうとした。辛い弁明だ。貴女は何一つ悪くない。悪いのは俺に取り憑いてるこの狐です。なんて言えたらどんなに楽なことか。


「ちょっと寝ぼけてたみたいでな……ハハハ」


 無理に言葉を継げば継ぐほど顰蹙を買うばかりで、挙げ句には変なものでも見ているかのような視線を女から向けられてしまった。


『あーあー、切り替えが上手くいかぬからこうなるのじゃ』


 俺が心痛めている中、原因の一端である静が大きく肩を落とす。

 いつもであれば何か言い返してやるところだが、そんな余裕もなく、俺は女の視線に耐えきれずにたじろいでいた。


「お飲み物は?」


 先程までの慇懃な対応とは打って変わり、女の口調はひどく素っ気なかった。


「オレンジジュースをお願いします……」

「かしこまりました」


 女はそのまま出口側の通路に繋がる引き戸を乱暴に開くと、扉の奥へ引っ込んだ。

 俺は女が出て行った先へ続く扉を見つめながら、ため息をついた。

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