第8話 木帰町の叉鬼衆

熊谷くまがいが猟を終えて山から降りてくると、町は異様な光景に包まれていた。まだ陽も沈んでいないのに、畑仕事をする年寄り連中の姿はどこにもなく、代わりに、そこかしらを見た事もない連中が歩き回っているようなのだ。


それは遠目に見ても分かる異様な動きで、歩いているというよりは、まるで空中から糸で吊られ、無理に操られているかのようだった。間接がぎこちなくあっちこっちへと曲がる、その気味が悪い人影。熊谷は、今日まで歩き回る留人の姿を見た事はなかったが、それが人間ではなく、この世の理から外れた存在であることを一目で見てとった。


町の危機を静かに悟った熊谷は、後から降りてきた叉鬼またぎ連中に合図して、一旦山から出ず、息をひそめるように伝える。当然皆に動揺はあったが、そこは普段から猟を生業とする連中なだけあって、状況の飲み込みもすこぶる早かった。


残念ではあるが、彼らはその日の戦利品を持ち帰ることを諦め、その場に穴を掘ってカモシカの肉を埋めることにした。死んだ人間は転化すると、まず数日で眼球が腐って視力を失い、その代わりに聴覚と嗅覚が鋭くなるのだという。こんな匂うものを持ち歩いて、奴らに気付かれるような事態は避けたかった。


「これからどうする、じき陽も沈むぞ、いつまでも山ん中におる訳にもいかんじゃろ。」


そう言って、一旦自宅へ帰ろうと提案するのは、猪猟を得意とする奥田だった。彼はこの中では狩猟経験が浅く、まだ散弾銃しか持っていなかった。普段メインとしているのも、もっぱらくくり罠での受動的な狩猟だ。皆、無事避難は出来たのだろうか。家に残してきた家内のことが彼には気がかりだった。


「あの数を見てみぃ、今町に入るんは死ぬのと同じこっちゃ」


そう言って、今から一晩かけて山を越え、隣町へ抜けるべきだと主張するのは、この中で熊谷に次ぐ狩猟歴を持つ篠原だ。奴等の来襲からどれほどの時間が経ったのか分からないが、そこかしこに留人達の姿が見える。人間の匂いが残っているのだろうか、その痕跡を探るように、民家の周りをぐるぐると歩き続けている者もいる。あの中へ飛び込んでいくような無茶は、出来れば避けたかった。


「そうじゃなあ・・・、山本さんはどう思うけ?」


熊谷は、一番後ろで黙ったままでいる山本に声をかけた。この4人の中で、山本は最も狩猟歴が長く、同時に誰もが認める確かな腕を持っていた。熊谷が、皆をまとめるリーダー役だとしたら山本は、叉鬼またぎ連中にとってブレーンのような存在である。彼の判断がこれまで間違っていたことは一度もなく、叉鬼またぎ連中が皆高齢者になっても、未だに熊を追いかけ山へ入っていけるのは、一重に彼のおかげであると言っても決して過言ではなかった。


そんな、猟師仲間から絶対的な信頼を寄せられている山本は、いつにもまして難しそうな顔をして押し黙っていた。


その昔、一人で山に入って熊にやられたという顔の大きな傷が、難しい表情をした山本の強面ぶりに拍車をかけている。山中で弾が尽き、追っていた獲物に逆に襲われ、酷い怪我を負いながら、ナタ一本でその熊を仕留めた山本の伝説的な逸話が、この町だけでなく近隣の山々に住む猟師達全てに語り継がれている。熊谷も、当時血だらけで下山してきた山本の姿を見たときは、そのあまりの壮絶さに息を飲んだものであった。


「・・・山ん中が安全とは限らねぇ、まずは生きとるもんを探すべきやな」


ついに重い口を開いた山本。彼は、少ない選択肢の中でも最善の道を選んだつもりだったが、今回ばかりは自信がなかった。何しろ、ベテランの猟師である山本にとっても、死者を相手にするのは初めてのことなのだ。しかし、奴らがどこからやって来たのかが分からない以上、明かりもない山中でばったり群れに出くわす方が、山本には危険であるように思えた。


それを聞いた熊谷は、他の二人に町の様子を見に行くことで異存はないかと確認をする。本当は、山本の判断に従うというのは、誰が言わずとも決まっているのだが、4人で合意したということが大事なのだ。山本さんに言われちゃ敵わんと、篠原も渋々納得した様子だった。


まず4人は、風向きに気を付け、低地の田んぼ側から町に近づく。すると、遠目に見ると分からなかったが、町に歩いている留人達はずいぶんと若者が多いようだった。金髪と茶髪が、不気味な動きでゆらゆらと揺れている。


ざっと見た限り、幸いにも町の人間はその中には見えなかった。おそらく、うまく避難ができたのだろう。


さて、近づいてみたはいいが、この町に何が起きたのかは相変わらず分からずじまいだ。山ではなくはるばる街から来たのかもしれないという事と、どうやら木帰町民はどこかに逃げたらしいという事だけが、今分かる全てだった。


ため息をつきながら、これからどうしたものかと一同顔を見合わせる。いくら4人が銃を持っているとはいえ、目の前の光景を見たら、そんな事は何の足しにもならないことは誰だって分かる。既に、町中いたるところに広がった奴らは、見える範囲から見積もっても、この町の人口の2倍近く、軽く100体以上はいるだろう。熊谷は、大通りを我が物顔で歩き回る彼らを見て、この町に活気があった頃の夏祭りの賑わいを思い出してしまい、その不謹慎さから一人苦笑いを浮かべた。


「死んでから、わざわざこの町に来なくったっていいもんだけどなぁ」


熊谷が、バツの悪さを誤魔化す為にそう呟くと、案外他の三人も同じような事を考えていたらしく、皆が苦笑いを浮かべたまま、クスクスと笑った。


とりあえず、町中の高齢者達が全員町の外へ逃げ出す選択肢を取ったとは思えなかった一同は、彼らが町のどこかへ避難をしたという前提に動くことにした。そうなると、一体どこへ逃げたのかという話になるのだが、それはやはり公民館ではないかとの結論に至った。他にいくつか候補があった訳ではなく、それ以外にまともに留人の相手を出来る場所自体がない為、出来ればここに逃げていて欲しいという4人の思いも多分に入っていたであろうことは言うまでもない。


ここから見て反対側の公民館へ行くには、どうしても一度、町の中を通って行かなくてはならない。それなら、せめてギリギリまで大通りに出る事を避け、出来る限り町の外周を進んでいくルートを選ぶ必要がある。限られた時間の中4人が選んだのは、まず山沿いにある自分達の集落に寄り、必要な物資を手にした後、あぜ道を進んで町の反対側に近づき、最後に大通りを突っ切り高台の公民館へと向かう、という道のりだった。


一旦町から離れ山を沿うように歩き、自分達の住む山側の集落にまでたどり着いたのは太陽が下り坂を迎える頃だった。幸いにも、山側の集落にはまだ留人達は辿りついていない様子である。


山本の提案で、万が一に備え二人一組になり、各自の必要なものを取ってくることになった。これは普段の狩りの時と同じで、熊谷は奥田と組み、篠原は山本と組むことが決まっている。大体の時間を決めると、4人の男達は、それぞれ自身の家へと向かっていった。


猟を生業とする彼らは、昔からこの町の、北の山沿いに密集して住んでいた。それは、4人の爺さんの、そのまた爺さん達の時代から続いている。なんでも、かつて北の山を越え、留人達が頻繁にやってきた時代に、それを防ぐ役割を担う守護人しゅごにんの家の者らが、留人を屠るために銃の使用を許されていたなごりであるらしい。そのまま平和な時代になった守護人達は、留人の代わりに鹿や熊を追う猟師となり、山へ入るようになったのだ。その為、今でも彼らが入るのは、自分達の家のすぐ裏にある北の山ではなく、町から出て西に向かった離れ山と決まっていた。これは、留人達の血が染み付いた忌み山での狩猟はしないという守護人の掟が、その子孫達にも脈々と受け継がれていることの証であった。


熊谷と奥田は、まず熊谷宅の保管庫から、ライフル銃と散弾銃の実包をあるだけかき集め終わると、役に立つものがないか探しに奥田の自宅へ向かった。家の前まで来ると、奥田家の玄関は開けっ放しになっているのが見えた。何故かジワリ、と嫌な汗が流れ、二人は、銃を構えたまま恐る恐る玄関に入る。


その玄関に家内の靴がないことを確認し、奥田はやっと緊張の糸が解けたのか、そのまま廊下にへたりと座り込んだ。それを見て良かったじゃねえかと熊谷が笑う。熊谷は、20年も昔に妻と子供に出ていかれ、それ以来独り身だった。奥田家の玄関の壁には、時間が無かったのか、なぐり書きで「公民館」とだけ書かれた紙がガムテープで貼り付けてある。


「いちいち仕事が雑なんだよなぁ、ホントあいつらしいわ」


そんな軽口が叩ける程になった奥田を、またも熊谷がからかっている時だった。


ドゴォーーーン・・・・


二人には聞きなれた音、あの腹に響くような発砲音が聞こえた。二人が慌てて家から出ると、同じく斜め向かいの篠原の家から、篠原と山本の二人が飛び出してきたところだった。


「ばかやろう!何で撃っちまったんだっ!」


そう唇を震わせ、篠原が熊谷と奥田を問い詰めてくる。言われた二人が困惑したのは言うまでもない。聞けば、この発砲音は4人の内の誰のものでもないらしい事が分かった。そうなると、4人でない誰か、ここらの家の人間がまだ山側の集落に残っていることになる。


「ほ、ほんでも、ワシら以外猟に出とるもんはもうおらんはずじゃが」


不思議そうな様子で心当たりがないか考える奥田。


「もしかすっと、森田のじっさまじゃないけ」


それに、そう篠原が答える。彼ら以外で、猟を営んでいる家と言ったら森田家しかない。それも過去形の話であり、森田のじいさんは、数年前に年齢を理由に猟を引退しているのだった。では一体、この発砲音の主は誰なのだろうか。


しかし、その議論は一旦中断せざるを得なかった。なぜなら発砲音につられ、ここまで辿りついていなかった留人達が、山側の集落にやって来たのが見えたからだ。こちらへと向かって来る人影は、既に10、20体の群れとなっている。


「ち、ちくしょう!」


南無三もはやこれまでと、遠くに見える影に向かって、熊谷がライフルを素早く撃ち込んだ。それを見て慌てた奥田が、照準も合わせず同じ方向へ散弾銃を放つ。先頭の留人は肩口から血を流しながらも、真っ直ぐこちらへ向かって来る。一方奥田の撃った弾は、どこにも当たらなかった。


ドゴォオーン、ドゴォオーン


二つの激しい発砲音が周辺一体に鳴り響く。


「やめんかっ、この馬鹿たれがっ!!」


それを見て激しい怒りの声を上げたのは、山本だった。熊谷は、あまりの光景に冷静さを欠いてしまったようだ。こんな中で発砲すれば、さっきの音に気付いていなかった連中も引き寄せてしまうのは決まっている。


すまんつい、と慌てて銃を下げる熊谷と、ただただパニック状態に陥っている奥田。篠原は篠原で、思考停止して呆然と群れの方を見つめている。


「引けっ、ワシの家まで走るぞっ!」


山本自身、何か考えがある訳ではなかったが、ここで棒立ちしているよりはいくらかマシだろう。とりあえず一番奥まった所にある山本の自宅へと3人を走らせる。一体これからどうしたものか、そして、さっきの発砲音は一体誰が出したものなのか。


考えることは山ほどあったが、それをまとめる時間は与えられていないらしい。4人は、ただ無我夢中で山本家へ向かっていった。




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