第10話
しばらくぶりの道場に帰ってきた俺は、掃除を始めていた。
人の出入りの無かった道場は、あちこちに埃が溜まっている。
無駄に広い道場の板の間は本格的に雑巾がけをしなければならないだろうし、壁に取り付けられている木刀や木槍も手入れが必要そうだ。
街に戻ってきても、道場に帰らない時が……というより、ほとんど帰ってこないからなあ。
これからは少しは帰ってきて、ちょくちょく掃除しよう……とはいつも思っているんだ。
一人だと面倒くさいんだよなあ。
「……いや、落ち着け。 冷静になれ、天道旭」
現実逃避をしている場合ではない。
硝子の様子は、明らかにおかしかった。
見たことのない様子の彼女は、ジェットコースターのようにテンションを上下させて、最後にはいきなりスーパーに走っていった。
まだ短い付き合いだけど、ああいう子ではなかったはずだ。
「また霊の仕業とかか……?」
もし、そうだとしたら立て続けに来すぎじゃないか、これ。
よっぽど悪い事したのか、俺は。
猫の呪いだろうか……。
「にゃーん」
「おっと、忘れてた」
ゲージから出た黒猫は、借りてきたどころか、我が家のように道場の床で寛いでいた。
図々しいを通り過ぎて、日当たりのいい所で寝転ぶ姿はいっそ戦国武将並みに堂々としている。
あそこまで堂々とされると、怒る気にもなれない。
「餌入れる茶碗とかあったかな……」
オヤジの茶碗でいいか。
水皿もオヤジの茶碗でいいだろう。
そう考えた俺は、道場の裏手にある台所へ足を踏み入れ、中の惨状をスルーした。
一体、いつから置いてあるのだろう、という皿が山のように積み重なっていたのは、きっと気のせいだ。
硝子の事を考えながら道場に戻ると、そこには、
「…………誰だ、お前」
道場に正座した、一人の男がいた。
よく鍛えられた二の腕と、繊維の束一つ一つが皮膚に浮き上がる足、力一杯ぶん殴ってもけろりとしてそうな厚い腹筋が見える――全裸の男だ。
真っ黒い髭を生やした、歴戦の勇士のような筋肉質の男が、全裸でやたら堂々と他人の家の板の間に座っている。
身体中には落書きのように傷痕が走っており、ただ者ではない風格が漂っていた。
「はっ、それがしは貴殿とご主人様に助けて頂いた猫でござる。 この度は命を助けていただき、誠に感謝いたします」
「……いや、どっから入ってきたんだよ、おっさん」
「無論、貴殿が持っていた篭にて」
きりっ、と表情を引き締めたおっさんは、まるで死ぬまで戦い続ける覚悟を持った武士のように、そんな事を言い出した。
意味がわからない。
「……猫?」
「はっ、猫にてござる。 その証拠に頭に耳が付いたままでござるよ」
「いや、寝癖か何かだろ、それ」
おっさんの頭の上にはがちがちの針金か、たわしのような、見るからに固そうな髪が左右に二つ盛り上がっている。
言われてみれば、猫の耳のように見えなくもないが、言われなければ間違いなく寝癖だと思うだろう。
「いやいや、きちんと動くでござるよ。 ほれ、このように!」
「気持ち悪っ!?」
「失礼でござるな。 これはそれがしの鉄板芸でござるよ。 婦女子の方々に大人気なのですな」
心なしか偉そうに語る自称猫の自称耳はぴこぴこと、まだ生きているハエが必死に暴れるハエ取り紙のように動いた。
確かに動いてはいるが、絶対に女に人気はないだろう。
「で、おっさんは何者だ」
「まったく信じてないでござるな。 証拠を見せるでござるよ。 ――にゃおん!」
「おい、なんだそのかけ声!? 腹立つな!」
いきなりぽふんと湧き出した白い煙より、かけ声の方が気になるわ!
なんだそれ、腹立つ!
「にゃーん」
煙が晴れると、そこにいたのはおっさんではなくて一匹の黒猫だ。
「マジかよ」
「にゃおん」
と、再び煙が吹き上がると、
「これでわかっていただけましたかにゃん?」
「おい、語尾変わってるぞ」
再び筋肉質なおっさんに戻っていた。
どうやら本当に猫らしい……いや、何か信じたくないな。
「……えー」
「実はそれがし、ここ最近辺りを荒し回っている猫めを討ち取ろうとしたのですが、力及ばず破れてしまいましてにゃん」
「おい、語尾を戻せ」
猫のおっさんは俺の言葉を無視し、何やら事情らしき物を勝手に話し始めた。
「そこで助けてくださったのが、ご主人様だにゃん。 まるで天使のような優しさと、包容力の塊でござった。 ……ふぅ、まさにそれがしのご主人様に相応しいお方でござる」
「おい、お前なにを考えていやがる」
何かを思い出すかのように目をつぶり、顔を赤らめる猫のおっさんは、そろそろ殴ってもいいのではないか。
「そして、生死の境をさ迷った事により霊力が増して、こうして猫又としての格が上がり、人化出来るようになったにゃん」
「猫又」
俺の知ってる猫又と違う。
「さよう」
「なんでもっと可愛い女の子じゃないんだ!」
「猫とて半分は男。 ならば、男の猫又がいても、おかしくないにゃん」
「そりゃあそうだが、百歩譲っても服は着てこいよ!?」
「残念ながら、それはまだ猫又力が足りないにゃん」
こいつ本当にムカつくな!?
なんで少しいい感じの事言った、みたいな顔してんだ。
「ところでお前、さっきからご主人様って言ってるけど」
「さよう、桃井硝子殿でござる」
「俺が飼い主で、お前に餌くれてやるつもりなんだが」
「ククク、貴殿だってわかるだにゃん? 飼われるなら、可愛い女の子がいいでござろう」
「わかるけど、すげえムカつくな!?」
「まぁまぁ、落ち着くでござるよ……? それがしが可愛さアピールで、この家にご主人様を呼ぶでござるから、正々堂々とどちらがご主人様の心をゲッチュ出来るか勝負だにゃん」
「びっくりするほど可愛くねえな」
どちらかと言えば、悪巧みをする戦国武将にしか見えないぞ。
「くそ、こんな奴飼うとか言わなきゃよかった……」
「今からそれがしを捨てれば、ご主人様はどう思うでござるかなあ……? もはや、それがしと貴殿は一蓮托生でござるよぅ?」
一発くらい殴っても許されるんじゃないかね、これ。
というか、絶対に殴る。
しかし、とりあえずまず聞いておかなければならない事があった。
「で?」
「にゃん?」
「……何をした?」
「にゃーん」
明らかに目を逸らしやがった。
「あらかじめ一つだけ教えておいてやる。 お前をぼっこぼこにした白猫は、俺が倒した」
「にゃーん!?」
「その上で、一度だけ聞くぞ。 お前、硝子に何をした?」
「それがしが何かしたとは限らないんじゃないかにゃーん!?」
所詮、猫は猫か。
にっこりと、笑ってやれば、途端に慌て出した。
目を逸らし、右に左に顔を向ける姿は滑稽極まりない。
「一度だけ聞く、と言ったからな。 二回目は聞かせるなよ」
「にゃーん!? にゃーん!?」
じりじりと距離を詰めてやれば、猫のおっさんは鳴き声を上げながら、必死に立ち上がろうと、
「足が!? 足が何かビリビリするにゃあ!?」
何物にも包まれていない尻を晒しながら倒れ込んだ。
黒い尻尾が骨盤の辺りから生えているが、おっさんの尻をまろやかにしてくれるような作用はなかった。
猫だからって何でも可愛くなるものではない、と証明されてしまったな。
「クハハハハハ! これが白猫を倒した我が霊力よ! 早く答えなければ、お前の尻は三つに割れるぞ!」
「ぎにゃあ!? 答えるにゃあ!?」
じたばたともがくおっさんだが、多分初めて正座したせいで足が痺れただけだ。
タイミングがよかったから、ついでに乗っておこう。
「にゃぁぁ……ひどいにゃあ。 にゃあが何したって言うんだにゃあ」
「うるさい、早く答えろ」
「ぐにゃにゃにゃ……ご主人様は何かに迷っていたようだったにゃあ」
「ふむ」
「だから、心の天秤が、ほんの少しだけ傾く術をかけたんだにゃあ」
「……ん、どういうことだ?」
「簡単に言うと、サンマと鰯のどっちか食べたいと思った時、とりあえずどっちでもいいから結論出す術だにゃあ。 ただご主人様にかけたら、いきなり暗い顔になって……」
「……なって?」
しかし、その術は何の役に立つんだろう。
心の天秤を傾かせる術、という事は落ち込む気持ちと、はしゃぎ出したい気持ちがあったという事か。
「これはヤバいと思って、もう一度かけたらおかしくなったにゃあ。 またかけたら、更におかしくなったんだにゃあ」
「……つまり?」
「今、ご主人様の心の天秤は、勢いよく重りを乗せたみたいに、左右にぐわんぐわん動いてるにゃあ。 それがしが手を出すと、もっと大きく動きかねないにゃあ」
「ど、どうするんだ、それ!?」
「まぁ所詮、天秤を揺らしただけだにゃん。 時間が経てば戻るにゃん」
「なんだ、よかった……いや、嘘じゃないだろうな?」
「貴殿に嘘は吐いても、ご主人様のためにならない事は絶対にしないにゃん。 たまにうっかりはするにゃけど」
「お前、俺を敬えよ、少しは」
「男は嫌でござる! 絶対に!」
疑う気持ちが無くなるくらい、猫のおっさんは堂々と言い切った。
ろくでもない猫だけど、嘘を吐けるほど頭よくもなさそうだし、信じていいかもしれない。
「ふう、やれやれ。 一時はどうなる事かと思ったけど、硝子はすぐに戻るんだな。 安心したぜ」
「……おっと、それがし猫又力が切れてきたでござるゆえ、そろそろどろんするにゃんよ」
「おい、そろそろキャラは統一しろよな」
どういう奴なのか、物凄い掴みにくいよな、猫のおっさん。
こんな奴が小説に出てきたら、鬱陶しいぜ。
どろん、と煙を出したと思えば、おっさんはまた猫に戻っていた。
猫又力ってなんだよ、と言ってやりたくはなるが、よく考えたら……あいつ、去勢されてるんだよな。
昔、飼い猫だったのか、それとも野良猫に去勢手術した人がいたのかはわからないが、動物病院のじいさんが言っていた。
そう考えれば、可哀想な奴なのかもしれない。
「ほら、水をお飲み」
「にゃーん!?」
何故か怯えたように飛んで逃げたが、そんな細かい事では怒ろうとは思わなくなった。
「てんどーうっくーん! たっだーいまー!」
「……お、おう、お帰り」
「にゃーん」
優しい目で猫を見ていると、玄関口から硝子のやたらテンションの高い声が聞こえてきた。
初めて来たのに勝手知ったる、というわけではないだろうが、どたどたとした足音が道場へと近付いてくる。
「あー、手伝えないで悪かったな。 今、戸開けるよ」
と、道場と玄関を仕切る戸を開くと、
「やーん、天道くん優しい! ももちゃんポイント、あげちゃうね☆」
きゃはっ☆という擬音と共に、硝子が俺の胸に飛び込んできた。
男の物とは違う柔らかな感触と、その中でも特に感じる……すっごい柔らかな感触。
「あのね、あのね。 私、たくさんお買い物してきたんだよ? えらい? えらい?」
「あ、うん……えらい、な?」
例えば夜の暗闇の中、一切の気配を感じさせないまま襲われたとしても、ここまでの無様は晒さないだろう。
腰元にぎゅっと抱き付く硝子の胸元は、俺の身体に押し潰されて上から見ると、谷間がそのあれだ。
「えー、口だけじゃやだぁ。 なでなでして?」
「なでなで……?」
「うん、なでなで!」
幼さすら感じる笑顔で言葉を作る硝子は、とてつもなく可愛い。
っていうか本当に女の子凄い。
柔らかいし、凄いいい匂いする。
ぶん殴られたくらいに凄まじく幸せな気分になるシャンプーの香りの中に、急いできたのか少しばかり汗の臭いが混ざっていた。
それは嫌な匂いではなくて、何というかとてつもなく生々しい。
「なでなでして……くれな……」
「硝子? おい、どうした!?」
そんな幸せに浸っていると、硝子は電池の切れた玩具のように動きを止めて、手に持っていたスーパーの袋と一緒にしゃがみこんだ。
「……急ぎすぎて疲れたし、いきなりこんな事する女の子とか絶対引かれた。 私は貝になりたい」
「うおおい!? 猫てめえ、これどうすんだ、一体!?」
アップダウンの切り替えが激しすぎて、着いていける気がしないぞ!?
しかも、よく考えたら、あいついつ術が終わるとかも言ってないよな!?
「にゃーん」
そんなのんきな声に、俺は復讐を決意いた。
「天道くんが無視する。 やっぱり私には何の価値もないんだ。 そうだよね、当たり前だよ。 ……死にたい」
「待て待て待て待て!? 超構うから、構うから!?」
「無理に言わせてる……死にたい」
どうしたらいいんだ、これ!?
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