第8話

 猫、という生き物は、別に好きでも無ければ嫌いでもない。

 興味がない、というのが正しいか。

 しかし、俺が猫にこれっぽっちも興味がなくても、猫を好きな人はいるんだ。

 あちこちを駆け回り、聞き込みをした結果、猫がなぶられて殺される事件は半年ほど続いていたらしい。

 警察もパトロールをしていたようだが、それでもさっぱり犯人は見付からず、猫だけがやられていく。

 追われ慣れている俺からすれば、警察という連中は無能じゃない。

 それなのに猫殺しの犯人が見付からないなんて、おかしいじゃないか。

 ひょっとして、霊の仕業なんじゃ?

 と、までは考えたものの、推理なんて俺には無理だ。

 出来る事と言えば、とにかくこの二日間、歩き回って探すしか出来なかった。


「と、まぁ運がいいわな、俺。 普段の行いがいいからだと、お前も思わないか?」


 そこは、不思議な場所だった。

 明るく辺りを照らすはずの電灯は、闇に怯えるようにして無言で立ち竦くみ、立ち並ぶビルの林はデッサンの狂った絵のように伸び狂う。

 そんな狂ったビジネス街で、月の光すらネジ曲げて、そいつは歩いていた。

 まるでスポットライトを浴びる主役のように、鉤しっぽを水平に威風堂々と。

 真っ白な毛皮は艶々しく、しゃなりしゃなりと花魁道中か、王様のパレードのように道路のど真ん中を歩いている。

 そいつは、一匹の白猫だ。


「クシ」


 小柄な白猫は、嘲った。

 それは、嫌な笑いだった。


「クシ」


 明らかに自分が強いのだと、確信している笑いだ。

 目の前の相手が、俺が自分より弱いと確信していなければ出てこない、嫌な笑い方だった。


「なあ、お前。 なんで仲間殺したんだ? 喰いたかったわけじゃないだろ?」


「クシ」


 白猫は今にもつまらない事を聞くなあ、なんて喋り出しそうなほどに下品な笑いを溢す。

 お高く止まった歩き方、下から上目線でこっちを見下しながら。


「いやまぁ、実の所さ。 お前の気持ちはわからなくもないんだよ」


 相手より強くなった瞬間は、たまらないものがある。

 子供の頃、俺は猿にだって負けていた。

 目にも止まらぬすばしっこさと、武器を扱う小器用さはたまったもんじゃない。

 だけど、これまでかすりもしなかった拳が当たるようになり、木から木へと飛び移るタイミングを見計らって蹴りをぶちこめるようになり、いよいよ真っ正面から勝てるようになった時。

 尻から頭まで突き抜けるような、そんなどうしようもない、抵抗しようとすら思えない快感があった。

 結局、俺が空手をやってるのは、そんなくだらない理由でしかない。

 ヤク中みたいなもんだ。

 この白猫だって、きっとそうだろう。

 小さな身体で負け続けた。

 そして、何やら妙な力を手にいれてみればどうだ。

 あいつも、こいつも、誰も自分に勝てやしない!

 お前達は俺より弱いんだ!


「そりゃあ楽しいよなあ」


「クシ」


 わかってるじゃあないか、と言わんばかりに白猫が笑う。

 負けるってのは、本当に嫌だ。

 一度でも勝ってしまえば、どうしようもなくそれがわかる。

 悔しくて悔しくて、布団にくるまりながらわんわん泣き喚きたくなるけれど、それをやってしまえば、更に負けたみたいで。

 勝てば心地いいとすら思える痛みも、負ければ痛みのままだ。

 身体の痛みはいつか消えても、負けた痛みはなかなか消せやしない。

 それを忘れるためには、勝つしかないんだ。


「熊にでも、生まれてきたかったよなあ」


 最初から誰にも負けない生き物だったならば、俺達はきっと痛まずに済んだだろう。

 だけど、人として生まれ、猫として生まれてしまった以上、どうしようもない話だ。


「クシ」


 いいから、早くやろうぜ。

 猫は言った。 そんな気がした。


「いいよ、来な」


 俺の言葉がわかったわけではないだろうけれど、猫は動き始める。

 一歩――たったの一歩で、猫は俺の視界から消え失せた。

 最初からそうだったかのように、月のスポットライトすら消え、目の前にはやたらのっぺりしたアスファルトが広がる。


「クシ」


 笑い声は後ろから。

 振り返れば、今度は白い線が俺を避けるように描かれる。


「クシ」


 笑い声は、また後ろから。

 振り返れば、俺を嘲笑うかのように白い線が描かれる。

 とてつもない、速さだった。


「クシ」


 笑い声が、真っ暗なビル街に響き渡る。

 愉しそうに、面白そうに、たったの一匹の声が続いていた。


「クシシ」


 白い線が、通り過ぎる。

 そう思った瞬間、俺の二の腕から血飛沫が舞う。


「クシシシ」


 残像は消えず、暗闇のキャンパスは子供の落書きのように白線が描き足され続けていく。

 ぐちゃぐちゃとした線は、いよいよデッサンの狂いを増して捻じ曲がるビルを足場とし、弧を描くラインから、俺への最短ルートを取る鋭角を描き出す。

 通り過ぎるたびに、猫のキャンパスに血の赤を添え、振り返ればそこには笑い声が残っているだけだ。


「クシシシシシシシシシシ」


 猫の笑い声は、もはやどこから聞こえてきているのかすらわからず、まるでピアノの同じ鍵盤を叩いているかのように、どこまでも平坦だった。

 猫の爪はどこまでも鋭く、胴着も皮膚もあってないような、ナイフよりも大した切れ味だ。

 そのくせ皮を切り、肉を僅かに掠める程度の入れ方は、なかなかやるもんだ。


「お前は勝つよなあ」


 目にも止まらぬ素早さと、異様なまでに小器用な技がある。

 そりゃあ勝つに決まっている。

 負けないわけだ。


「だけど、強くはないんだよ、お前」


 ぽん、と白線のに、そっと手を添えた。


「クシッ!?」


 力の流れを変えられた白線は空中でぐるぐると縦回転、このまま放っておけばバターになってしまいそうなくらいに円を描く。

 速ければ速いだけ、崩された時に戻すのが大変だ。

 かと言って、こいつは自分が崩されるだなんて、ちっとも想像していなかった。

 ぐるぐると回る白線の真ん中には何もなくて、それは月の無い夜空のようだった。


「強く、なろうとすればよかったんだ」


 もしも、こいつが最初から俺の首を狙ってくれば、間違いなく反応出来なかった。

 もしも、強い相手との場数が俺以上にあれば、勝てなかっただろう。

 もしも、こいつが俺に少しでも向き合っていれば、もっともっと楽しかっただろうに。

 最初から、これから訪れる最後まで、こいつは俺を見ていなかった。

 自分だけの楽しさに酔って、ただひたすらに力に振り回されていただけだ。

 真っ白な毛皮には血の臭いをぷんぷんとさせて、鋭くなりすぎた爪は誰からも嫌われて。

 どこまでも俺と同じなくせに、最後の最後で全然違う。

 それは、どうしようもなく寂しかった。


「じゃあな、同類」


 最初から違う世界に住んでるとわかっていた彼女とは、こんな寂しさを覚えなかったのに。









 私、桃井硝子は、追い詰められていた。


「あのいかにも空手バカな彼は本当にいけないね。 憲法に定められている人として、最低限の生活ってやつに価値を抱いていないんだよ。 山に籠って、猿みたいに木の実をむしゃむしゃと食べていればいいのかもしれないけれど、それに付き合わされる私達からすれば、たまったもんじゃあない。 そうだろう?」


「は、はい……」


 これほどに追い詰められたのは、これが制服だと渡された和風のスカートがぱんつが見えてしまいそうなほどに短かったあの時くらいだ。


「いやね、私はももちゃんのセンスを信頼しているんだ。 勿論、ただ単純にそう言っているだけではないよ。 確かに君は最近の女子高生としては地味だ。 しかし、ちょろっと付けられた小物の類いが、おっ?と目を惹き付けてくれるんだ。 そんな君があの空手バカにどんな服を選んだのか、私はちょっとばかり気になるね」


 いつものように、妙に気取った語り口で衝立店長が捲し立てるのを、私は黙って聞くしかなかった。

 天道くんと猫を助けてから三日、猫が心配で……服を買いに行くのを忘れていた、と伝えるのを忘れていたのだ。

 昨日まで何も言わなかったのに、いきなりこうして言い出すのだから、実は店長は相当に気になっていたのだろう。

 この人には、そういうひねくれた所があった。

 今日も喫茶室 葛葉は開店休業だ。

 お客様は誰もおらず、静かな店内には店長の話し声だけが響き渡っている。

 お願いだから誰か来て、この気まずさから助けてください……!

 そんな私の願いは、半分だけ叶えられた。


「いよう、あやのさん! 仕事くれよ!」


 そんな元気一杯な声と共に入ってきたのは、天道くんだ。


「……!? ……!!」


「なんだい、どうしたんだい金魚みたいに口ぱくぱくさせて。 腹でも減ったのか?」


 そう言う天道くんの顔には、底の抜けたバケツのような明るさしか見えない。

 思い切り転んだ人のように、彼の手足にはたくさんの傷が増えていて、胴着は地面に落ちて車に轢かれた軍手みたいになっていて、


「この前より、もっとボロボロになってるー!? ど、どういうことなの、ほんと!?」


「いや、ちょっと喧嘩しただけさ」


 そう言って私に笑いかける天道くんは、妙に寂しそうに見えた。

 話したいな、と思った。

 ……で、でも、その前に店長にちゃんと説明しないと。

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