第7話

 何度も何度も見る夢がある。

 決闘に破れ、俺に勝った奴の背中を見送る夢だ。

 これ以上、何もないってくらいにこてんぱんにされた俺はとっくに死んでいて、ドブ川に捨てられて腐っていく。

 はらわたにはうじが沸き、眼球はこぼれ落ち、巻藁を叩き続けて変形した拳は、骨だけになって鍛え抜いた形跡なんてもうわかりもしない。

 だけど、俺はそうなりたかった。

 全てを出し切って、死ぬ。

 これ以上の生き方が、あるはずがないと思っていたし、今も思っている。

 山には、死が溢れていた。

 それは病死した猪だったり、猟師に背中の肉だけ切り取られた鹿だったり、食い殺された熊だったり、首を吊った人間だったり。

 生きていれば、死ぬ。

 それはどうしようもなく、当たり前の事だと、俺は思う。

 どれだけ頑張っても、どうしようもない瞬間は、必ずあるんだ。

 だから、彼女はきっと間違えている。


「……っ!」


 何か声をかける間もなく、彼女は走り出した。

 俺から見れば走っている、というよりは少し早く歩いている、としか見えない動きだ。

 黒の毛皮は血の色が目立たず、路地裏で倒れている猫は血溜まりが無ければ、ただ寝ているだけにすら見えた。

 ぴくりとも動かず、通り過ぎている最中に目の端に止まれば、よく寝てるな、なんてのんきに思ってしまいそうな有り様だ。


「あ、う……」


 おそるおそる、という言葉がよく似合う動きで、しゃがみこんだ彼女が猫に手を伸ばしていく。

 一方の俺は、薄暗い路地裏の中でも彼女の指先ははっとするほどに白いな、なんて考えるくらいに猫に興味はない。

 ぱっと見るだけでも毛皮は傷だらけで、長時間に渡っていたぶられたのが見てわかる。

 だけど、もあるだろう。

 彼女は猫を抱き上げた。

 白いセーラー服が、猫の血で染まっていく。


「て、天道くん……」


 ぽろぽろと流す彼女の涙の意味は、俺にはわからない。

 言葉ではきっとわかったような気にはなるけど、最後の最後では理解出来ないだろう。

 彼女と俺の距離は、途方もなく遠いと、最初からわかっていた。

 だけど、


「こ、この子まだ生きてる……天道くん」


 もし、自分が死んだ時、こうして彼女が泣いてくれるのならば、


「お願い、助けて……!」


「任せろ!」


 それはきっと、


 










「あと少し遅れてたら危なかったね。 いや、最近こういう子が増えてて、やんなるね」


「ほ、本当にありがとうございました!」


 そう言って獣医のじいさんは、真っ白な髭を揺らして笑った。

 あれから三時間、外はもう日も暮れて、とっくに真っ暗になっている。

 俺達のいる待ち合い室では、他に誰もおらず、待っていた人達はすでに帰ってしまった。


「おう、じいさん。 あんがとよ……ちょっと少ないけど、取っておいてくれ。 足りなかったら言ってくれ」


 全財産の三万……明日からどうやって暮らそう。

 最悪、また山に戻って食える物を探しにいくか。

 この時期なら、鹿とかいるだろ。


「だ、駄目だよ。 私がお願いしたんだから、私が払うよ……。 あ、あの明日持ってきます……!」


「こういう時は男が払うもんだ」


 三万円を差し出した俺の手を、彼女は必死になって押し返そうとしている。

 俺の腕はびくともしないが、ぷるぷると震えるくらいに必死に力を彼女を見ていると……うん、何かいけない感情に芽生えてしまいそうだ。

 悪戯して、涙目にしたい。

 本気でやったら、自己嫌悪で死にそうになりそうだからしないけどさ。


「わ、私が払うから……天道くんにはお世話になったし、私の方がお姉ちゃんだと思うし……!」


「いやいや、世話なんてしてないし、俺と大して年変わらないだろ。 十八だぞ」


「嘘っ……!? ……いいの、私が払うから」


「青春だねえ、青春」


 何が楽しいのか目尻の笑い皺を深くさせながら、揉めている俺達に獣医のじいさんが話しかけてくる。


「あっ。 ご、ごめんなさい……」


「いや、いいよいいよ。 こっちもいい物見せてもらったからねえ。 僕も傷だらけの猫を抱いてきた女の子を、空手の子がお姫様抱っこで走り込んでくるとは思ってなかったからね。 いやぁ、想像も出来ない事があるのは、本当に面白い」


 けらけらと笑うじいさんは、本当に楽しそうだ。

 

「で、でも……私のせいで、待ってた皆さんを帰らせてしまいましたし……本当にすみませんでした」


「いいのいいの、どうせみんな予防接種とかだからね。 むしろ、いつも来てる山下のおばさんなんて『あら、やだ。猫ちゃんが大変じゃない。 早く診てあげてなさいよ』とか言ってたくらいだよね。 みんな動物好きな人達だからねえ」


 身振り手振りを交えて話すじいさんの語り口はいかにも滑稽で、これ以上小さくなれるのか、といわんばかりだった彼女が少し肩の力を抜いた。

 これが出来る男か……どっかの河辺のおっちゃんとは違うぜ。


「あとね、お代だけどさ」


「は、はい……おいくらでしょうか?」


「いやね、髭じゃない僕?」


「たいした髭だな」


 それこそ中国の仙人みたいな、へその上まで伸びた真っ白な髭だ。

 痩せた身体は、手の甲にはっきりと骨が浮き上がっていて、老いが滲み出ている。

 だけど、受ける印象はふらふらと頼りない年寄りではなくて、しっかりと根を張った古木といった感じだ。


「うん、実はさ。 この髭って凄い邪魔なんだよね。 手術する時とか縛って専用の袋に入れるくらい邪魔なんだ」


「ふーん、よくわかんないけど、切ればいいんじゃないのか?」


 俺がそう言うと、じいさんはよく言ってくれた、とばかりににやりと笑い、


「だって、この方がだろう?」


 へったくそな、見れたもんじゃないウィンクを一発かましてくれた。


「そいつは確かにそうだ!」


 思わず手を叩いて、げらげらと笑い転げてしまいたくなるくらいに、粋なじいさんだ。

 ちくしょう、なかなか格好いいじゃないか。

 だから、この次の言葉だって、また格好いいに決まっている。


「だから、お代はいらないよ」


「そ、そんな……悪いです!」


「君達、若い子が格好付けたんだから、僕にも格好付けさせてくれよ。 ね? 頼むよ。 お願いね」


「で、でも……」


「はい、決まり。 んじゃ今日はうちで様子見るからね。 三日くらいしたら様子見に来てくれるかな」


 何とか食い下がろうとする彼女に、じいさんは有無を言わせず追い出しにかかった。

 何とかして金を払おうとする彼女も、猫のために頑張ってくれたじいさんも、俺みたいな空手バカとは違って本当に大したもんだ。

 それに待っていた、俺達のせいで追い出してしまった他の患者さんも大したもんだった。

 血塗れの猫を見て慌てるおばちゃんはいても、自分の番はどうしたこうしたと喚き散らしたりはせず、むしろ心配してくれた人達ばかりだ。

 いやぁ、みんないい人達ばかりじゃないか。






 だから、


「よう、探したぜ」


 お前は、少しばかり許せない。

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