第4話

 元々はは人間だった。

 華やかなりしバブルの頃、世界全てを買い取ってしまえるのだと、ひどく愚かな夢を見ていたそんな時代だ。

 膨らみ切った泡は数多の人々を巻き込み、派手に弾けたがもまた、その一人だった。

 事業に失敗したのか、会社が倒産したのか、それとも恋人に捨てられたのか。 すでに知る者も無く、も覚えてはいない。

 未だ取り壊される事もなく、朽ちるがままに放置されたボロボロの小さなビルの中で、は誰かを待ち続けていた。

 己の憎しみをぶつければ、ほんの僅かでも晴れるのだと信じながら。

 もはや、その憎しみすら磨り減り、何のためにやっているのかすら覚えてはいないが。

 何人かの犠牲者を出しながらも、街外れにそのビルはまだ建っている。

 そんなビルの前に天道旭が立ったのは、午後九時をわずかに過ぎた頃だった。

 彼の顔に浮かぶのは、一言で言えば困惑だろう。

 夏の陽射しに華やぐ山を背負い、辺りは一面の田んぼが広がり、遠くには民家の明かりがちらほらと見えるのんびりとした田舎だ。

 そこに朽ち果てた五階建てのビルが、ひたすらに浮いていて、ひどく奇妙な光景だと旭は思った。

 普段から街中の明かりに慣れ親しんでいれば、また違った印象を受けたのかもしれないが、星と月しか見ていない山奥を遊び歩いていた旭からすれば、闇は恐れるものではない。

 むしろ、


「担がれてんのか、俺……」


 旭の考える除霊とは、何やらおどろおどろしい舘だか廃墟に入り込んで塩をまいたり色々する、という物である。

 しかし、目の前の廃ビルから、恐ろしい物が飛び出してくる印象など、これっぽっちも感じられない。

 ただ時の流れに取り残された、奇妙なオブジェのように思えた。

 何かあるようには到底思えず、担がれたと思ってしまっても仕方あるまい。


「とはいえ、ここで立ってても仕方ない……。 初仕事行ってみようか!」


 一つ気合いを入れると、旭は平然と敷地内に足を踏み入れた。

 聞こえるのは土を噛む自分の足裏、生温い風で揺れる草木のざわめきに、飛び回る羽虫のはばたき。

 ビルの入口は安っぽいベニヤ板で封じられており、それがまた旭のやる気を削いでいく。


「危険な物件じゃなかったのか、ここ……まぁいいや。 おっじゃまーしまーす!」


 と、前蹴り一閃。

 ずどん、とベニヤ板をへし折ったダイナミックお邪魔しますから始まる旭の足取りに、霊がどうこうという躊躇いはない。

 少しばかり広い玄関で待ち構えるのも手か、と旭は一瞬考える。

 入口以外から光が入り込んでいる様子はなく、真っ暗だ。

 ほんの僅かでも外から明かりが入り、動き回るスペースのあるこの場は戦うつもりなら悪くはないと考える。

 とはいえ、まだ入ったばかりで待つというのは、あまり面白くない。

 そう結論を出した旭は、さくさくと前に進む。

 構造は平凡な雑居ビルだ。

 三人ほどなら並んで歩けるだろう廊下に、左右には扉がいくつかある。


「……何かもう面倒くさくなってきたな」


 ひょっとして部屋を一つ一つ調べなきゃなんないのか……そう考えるだけで、嫌になり始めている旭は、勤め人には向かないだろう。

 一階を適当に歩き回り、二階への階段を発見した時の事である。


「おーい、幽霊さーん! どーこでーすかー!」


 ついには呼び始めた。

 飽きたのだ。

 空手に絡めばどんな辛い事だろうと耐えるが、絡まなければ落ち着きのない子供より堪え症がない。

 それが天道旭という男であった。

 しかし、古来より霊との対話と言うほど。

 法則すら違うあちら側と、こちら側。

 そこを橋渡しするのは、常に音である。


「お、本当に来た」


 二階からゆっくりと降りてきたは、黒い影だ。

 光無き廃ビルに溶け込むようにして現れた影は、小柄な旭よりも少しばかり大きい程度か。

 ひどく静かで、ひどく普通だと、旭は思った。

 もし彼を月明かりの下に連れ出せば、照れた顔でお互いに何をしているのか訪ね合うんじゃないか。

 そう思ってしまうくらいに、ひどく普通だ。

 敵意も、悪意も、殺意もなく。

 だから、旭は問いかけた。


「よう。 あんた、このビルに住んで」


 るのかい?という言葉は、漏れなかった。

 代わりに旭の口から漏れたのは、肺の中にあった酸素だ。

 怨念に満ちた叫びもなく、苦痛を訴える呻き声すらなかった。

 ただ旭がわかる事は、


「くっ……随分景気のいい先制パンチかましてくれるな……!」


 それだけだ。

 人影との距離は五メートルほどか。

 殴る蹴るの間合いは、まだ遠い。

 何をされたのか。 踏み込む動作があったわけでもなく、拳を振るう動作もなかったはずだ。


「って、あんたは幽霊だもんな、そりゃそうだ!」


 ダメージは、無い。 少なくとも今すぐ動けなくなるようなダメージは、だ。

 そして、この距離で旭が出来る事も、また無い。

 ならば、やる事はただ一つである。


「天道空手塾、天道旭」


 右手を前に、左拳を引いたいつもの構えを取った旭は、


「行くぜ!」


 真っ正面から、真っ直ぐに踏み込んだ。

 力強く踏み込まれたはずのコンクリートの床、だが積み重なっているはずの埃は踊らず。

 疾く、鋭く、そして静かに。

 左右の足を交互に上げるという事は、その度に身体のバランスが左右に揺れ動くという事である。

 そのバランスの変化は、コンマ一秒を争う格闘の世界に大きな影響をもたらす。

 ならば、その影響を極限まで削ぎ落としてみればどうか。


 右手に、何かが触れた。


 科学的に説明するのであれば、が動いた事により、空気の動きを鋭敏な皮膚感覚捉えた、などともっともらしい説明は付くだろう。

 しかし、天道旭にとって、何の意味もない。

 自らの様々なバランスの変動から解放された鋭敏な感覚、などという説明は何の意味もないのだ。

 右手で、意を感じた。

 それは攻撃の前兆だ。

 旭を打ち倒さんとする、意思だ。

 夜目の利く旭をしても、真っ暗なビルの廊下では見えない幽霊の攻撃の正体は未だ掴めていない。

 だが、左右からほぼ同時に疾る何かを旭は感じ、


「疾っ!」


 左から迫る何かを右手で打ち落とし、暖簾をくぐるように頭を下げれば、後ろ髪にかするようにして何かが通り過ぎていく。

 更に一歩、踏み込む。

 右手に残る感覚は、まるでぎちぎちに詰まった砂袋を打ったようであり、また一発食らえば足が止まるだろうという確信がある。

 ただ立ち尽くすだけの影だが、未だ攻撃の正体は見えず。

 あと一歩踏み込めれば、拳が届くだろうが、その一歩がとてつもなく遠い。

 もし、まともに一打もらってしまえば、足が止まり次の攻撃が捌けるかはわからないのだ。

 単純な猪突では、リスクが大きすぎる。

 と、冷静に損得を考えたわけでもないだろうに、旭の身体は動いた。

 屈めていた頭を勢いよく上げると、その勢いを乗せ地面を右足で蹴り付け、その身を宙に踊らせ――直後に見えない攻撃が誰もいなくなった空間を貫く。

 影の攻撃の回転はひたすらに素早く、また鋭い。

 このまま受け続け、じわじわと近付く――無理だ。 それより先に体力が尽きる

 被弾覚悟で突っ込む――もっと重い攻撃が来るかもしれない。

 リーチの差は絶対だ。

 今の旭は、影と戦う土俵にすら上がれていない。

 しかし、


「おいおい……」


 ほんの僅かに重心を左に傾ければ、影の意が左に逸れるのを旭は感じると同時に、影の意が左から抑えるように飛んでくる。

 今度は右に、と重心を傾けても同じだ。


「ぼんやりしたツラしてるくせに、やるなあ、あんた!」


 受け、弾き、避ける。

 嵐のように放たれる連撃の中に、たくさんの意があった。


 旭が左に動こうとしているから、動けないように左から攻撃しよう。

 左右どちらにも避けにくいように、真ん中を狙おう。

 足元はどうだろう? 気付かれないように静かに払おう。


 それは、工夫だ。

 あらゆる手段を用いて、が旭を打ち倒さんとしているという事だ。

 ルールに守られた試合の中ではない、真剣勝負という事だ。


「こういうのだ! 俺はこういうのがやりたかったんだ!」


 旭は吠えた。

 最初からほとんど考えていなかった戦術を頭から吹き飛ばし、鍛え抜いた身体に刻み込んだ空手を縦横無尽に走らせる。

 見えない攻撃なんぞ、当たり前だ。

 山で倒した幽霊の蹴りは、最後まで見切れなかった。

 こうして捌いて捌いて、捌き切れるだけで上等だ。

 少しずつ腕は重くなり、足に泥がまとわりつくようにして動きが悪くなっていくが、じりじりと、呆れるほどだが確かに前に進んでいる。

 相変わらずから感じる何かは、これっぽっちもない。

 だが、旭を狙う攻撃は徐々に、徐々に激しさを増す一方だ。

 この瞬間、感じた意は、四つ。

 人間では不可能な同時攻撃は、とにかく当たれとばかりに弧を描くようにして上下左右から旭に迫る。


「ぐっ……!」


 三打までは落とした。

 だが、間に合わなかった右からの鋭い攻撃が、その小柄な身体を吹き飛ばし、旭は背中から壁に激突する。


「覚悟はしてても、いてえ!」


 しかし、垂直の壁で受け身を取るかのように動いた旭は、素早く足裏を壁に触れさせ、


「ちょっと派手に行くぜ!」


 そのまま壁を蹴りつけた。

 右拳を振りかぶり、飛びかかってくる旭と、待ち受けるの攻守は、その瞬間に逆転。

 身体ごと叩き込まれるようにして放たれた旭の拳は、自分の指の骨にヒビを入れながらも、の顔面に突き刺み、派手に埃を撒き散らしながら二人は倒れ込んだ。

 明暗を分けたのは、状況への覚悟か。

 最初からこうするつもりだった旭は即座に立ち上がると、意表を突かれ倒れ込んだままのの上にどかりと尻を落とした。


「形勢逆転だなぁ?」


 にやり、と旭は笑うと、ヒビの入っている右拳を真っ直ぐにの顔面に落とす。

 がつん、と会心の手応え有り。


 がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん。


 暴力的な音の連なりが、どれほど続いたのか。

 がつん、と旭が最後に叩いたのは、堅い堅いコンクリートの床だった。


「―――っ!?」


 あまりの激痛に、旭は転げ回る。


「な、何かこう、もう少しそれっぽく消えろよ……!」

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