第2話

 私、桃井硝子は雨が嫌いだ。

 台風のように荒々しい雨は恐い。 冷たいみぞれのような雨は、切り刻まれるようで痛い。

 その中でも、暑さが足元から上がってくるような梅雨の雨が特に嫌いだった。

 しとしとと降る雨の中、毎日歩く通学路。 その途中にある公園。

 危ないから、と遊具が撤去された公園の真ん中に、ブランコが一つだけ揺れていた。

 ぽつん、と置かれたブランコはいかにも寂しげで、そのブランコに座るおじさんも寂しそうだ。

 くたびれたスーツ姿で冴えない七三分けのおじさんは、こう言ってしまうのは可哀想だけれど、将来こうはなりたくはないサラリーマンの典型だった。

 そんなおじさんがうな垂れてブランコに座っているのは、見るからにつらい。

 それにもう、あのおじさんはいる。

 私が初めてあのおじさんを見たのは、高校の入学式の日だった。

 その日から雨の日も、風の日も二年間ずっとぎーこ、ぎーこと同じリズムでブランコをこぎ続けているのだ。


 私は、幽霊が見える。


 小さな子供の頃はお母さんにそんな事を言って困らせていたようだけれど、高校三年生ともなれば、もうそんな事はないし、話しかけたりもしない。

 幽霊とはいる人達なのだ。

 話せはするけれど、もう彼らの中では全てが終わっていて、全てが固まっている。

 だから、彼らに話かけた所でどんな正論も意味はなくて、どんな言葉も届いたりはしない。

 気付いたら、いなくなっているだけの人達だ。


 だから、その少年を見た時はなんて無駄な事をしているのだろうと、私は思った。

 しとしとと雨の降る、梅雨の暑い日の事だった。


「そうそう、拳の作り方は小指からでな」


「……こうかい?」


「お、いいね。 結構サマになってるぜ、おっさん」


 まるで漫画から飛び出してきたような男の子だ。

 街中には明らかに不釣合いな、ぼろぼろの空手の胴着は山篭もりの帰りだろうか。

 いや、この現代に山篭りとかやっている人はいないと思うのだけど、あれを見るとそうとしか思えない。

 シャンプーどこ使ってる?なんて絶対に聞かれそうにないごわごわの髪は、どこかうっすらと赤みがかかっていて、洗っていない犬のようだ。

 割と細身だけど、筋肉のしっかりとした腕とか、雨の降る中で傘も差さずに屈託のない笑顔を浮かべているとか好きな人は好きだろうけれど、私はああいう馬鹿っぽい男の子は好みじゃない。

 私の好みは、後悔なんてこれっぽっちもしないような大人の男の人だ。

 未練なのか恨みなのか、そういう物を残して自分の好きな人が毎日、同じ所をぐるぐるしているのは、想像するだけで気分が悪い。

 ああいう馬鹿そうな子は、きっと馬鹿な理由で死んで、馬鹿みたいに幽霊になってぐるぐる回ることになるだろう。

 そんな事を考えながら、私は二人を遠くから眺めていた。


「よし、おっさん。 ちょっと構えてみようぜ」


「こ、こうかな……?」


 ブランコから立ちあがったおじさんは、彼が思うそれっぽい構えを取ったけれど、これがまたひどいへっぴり腰で見るからに格好悪い。

 あれじゃあ空手というよりも、フラダンスで思わず笑ってしまいそうだ。

 なのに、


「お、いいじゃん。 おっさん、本当に空手やった事ないの?」


「はは……四十で死ぬまで運動なんて、何もした事ないよ」


「マジかよ、才能あったりしちゃうんじゃない? あとはそうだな、腰をもっと前に出して、肩の力抜いてだな」


 ぽん、ぽん、ぽんと男の子がおじさんの体を軽く叩くたび、フラダンスがそれらしい構えになっていく。

 空手の事なんて、これっぽっちもわからないけれど、何だかそれっぽい。


「よしよし、だーいぶよくなったよくなった」


「ほ、本当かい? 凄く窮屈なんだけど……」


「マジマジ。 構えってやつは電車のレールなんだよ。 だから、どうしても線路からはみ出す動きすると動きにくくなっちまうんだ。 それより、ちょっと一発打ってきなよ」


 男の子はおじさんの前に立つと、両手を胸の前で開く。

 何が楽しいのかわからないけど、男の子は満面の笑みを浮かべて、それに釣られるようにしておじさんは少し笑みを浮かべていた。


「じ、じゃあ、いくよ……? 痛かったらごめんね……?」


「おう、来い来い!」


 おじさんの拳と、男の子のてのひらが、弱弱しい拍手のようにぱちんと鳴った。


「かー! いってえいってえ! よっしゃ、おっさんもういっちょだ!」


「う、うん」


 あまりにわざとらしい褒め方だ。

 だけど、そのわざとらしさがおじさんの遠慮を取り払っていくのか、段々パンチに力が入っていく。

 ぺちん、ぺちんと鳴っていた音がしっかりとしていき、フラダンスを踊っているようにしか思えなかったおじさんの動きが、段々空手っぽくなっていのが不思議だ。

 しかし、男の子が大きな声を上げる度に不安になる。

 この公園の遊具が撤去されたのは、何も子供を心配したPTAみたいな人達だけじゃない。

 公園ではボール遊びも禁止されている。

 近くに住んでいるお年寄りが、子供の声が五月蝿いから、という理由らしい。

 その結果が誰もいない公園で、そんな所で大声を上げて、げらげら笑っていたら通報されちゃうんじゃないだろうか?

 いや、私が心配するような話ではないのだけど。


「そ、そうだ……お手本見せてくれないかい?」


 何回パンチを打ったのだろうか、やがておじさんはそんな事を言った。


「お手本?」


「う、うん……僕、空手の試合とか見た事なくてさ……」


「お、いいぜ。 俺の格好いい演舞に惚れるなよ?」


 にやり、と笑った男の子はおじさんから少し離れると、大きく息を吸い込み、


「はっ!」


 と、もやもやとする梅雨の暑さの中、とんでもなく大きな声を出した。

 まとわりつくような雨を切り裂くような手刀、後ろに誰かいるみたいに素早く切り返される足捌き、鋭い弧を描いて落ちるキック。

 私の言葉では、繰り返される彼の動きを何と言えばいいかわからない。

 

「はっ!」


 だけれど、水滴の一粒を狙って放たれたかのように思わせてくれるパンチは、まるでレールに乗った電車のように真っ直ぐで――


「ちょっと君、話いいかね?」


 やっぱり通報されてるよね、と思った。

 演舞を続ける男の子の元に、警察の人が二人やってくる。

 子供が遊んでいる声だけで嫌がるくらいなんだ、そりゃああれだけ大きな声を出したら近所に住んでいるお年寄りは通報するだろう。

 外で遊べ、と言われても子供はどこで遊べばいいのか。

 しかし、これで彼の演舞が終わると思うと、少し物足りない気分だ。

 どうせなら最後まで見てみたかった気がしないでもない。 いや、終わっても別に残念じゃないのだけれど。

 私はつい誰かに聞かれているわけでもないのに、言い訳をしてしまっていた。


「はっ!」


「君ィ!」


 と、思っていた私を尻目に、男の子の動きは止まらない。

 警察の人に怒鳴りつけられて、捕まえようと手を伸ばされてもひょいひょいと避けていく。


「あ、旭くん……も、もういいよ」


「はっ!」


 キレのいいパンチが、警察の人の顔の前で止まり、固く握られていたパンチが開いて、ちょちょいと警察の人の鼻をつついた。

 男の子はにやりと笑うと、ふてぶてしい表情を浮かべ、


「いやぁ、やっぱ俺は演舞とか向いてねえや。 ちょいと実戦形式でやってみようか」


「て、抵抗するのか! 公務執行妨害だぞ!」


 一人の警官が警棒を抜き、男の子に向けて振りかぶった。

 あんな棒で殴られたら骨なんて簡単に折れてしまいそうで、恐くなってしまった私は目をつぶってしまう。


「空手なんてもんは、よーするに、だ」


 そんな私の事なんて、これっぽっちも気付いていないだろう能天気な声が聞こえた。


「まっすぐ走るレールを、ちょっと横から叩いてやれば、そらこの通り」


「お、おお……」


 何をどうしたのか、警察の人が持っていた棒が彼の手の中にすっぽりと納まっている。

  

「き、君ィ! こんな事をしていいと思っているのかね! それに誰と話しているんだ!」


「あとはそうだな。 単純にだ」


 警察の人が気を抜いていた、とは思えない。

 だけど、さっと身をひるがえすと、警官の後ろにあっという間に回りこんで、その背中にそっと触れていた。


「こうやって単純に速く動くとかな。 いやまぁ格下相手にしか出来ないけど、こんな事」


「す、凄い……」


 そう言ったのは私なのか、おじさんなのか。

 どっちなのかはわからないけど、まさに目に留まらぬ早業だ。


「そうだろう? 空手ってすげーんだよ」


「う、うん……そうだね!」


「だから、大きな声を出してやってみようか」


 警察の人が手を伸ばして男の子を捕らえようとするけれど、突き出した左腕がそれをぱんと弾いて、一歩前へ。


「はっ!」


「はっ!」


 真っ直ぐに走った右のパンチが、警官の人に触るか触らないかの所でぴたりと止まる。

 おじさんも見様見真似で、男の子に比べれば笑っちゃうような動きだけれど、それでも真剣にパンチを放つ。


「いいね、おっさん! 次はこうだ!」


「あ、ああ……!」


 私の目で追うのも、おじさんの目で追うのも精一杯な、早い動きが連なっていく。

 雨を切り裂くようにして動き回る男の子はとても楽しそうで、いつも暗い顔をして俯いていただけのおじさんも、これまでに見た事もないくらいに楽しそうな笑顔を浮かべている。

 動作の要所要所で入る大声は、いつしか私に梅雨の暑さを忘れさせていた。 


「はっ!」


「はっ!」


 無線で応援を呼んでいた警察の人が男の子を捕まえようと加わるけれど、二人がかりで男の子を追いかけてもさっぱりで、よくよく見てみればさっきの演舞と同じ動きをしているだけなのだと気付く。

 何がどう凄いのかはわからないけど、きっと男の子は凄い男の子なのだと思う。

 丁寧に、丁寧に作られたパイ生地のように、一層一層積み重ねられた鍛錬の成果なのだ。

 そして、いつしか振り回されていた警察の人達は息も絶え絶えになって、踊りの輪から脱落してしまう。

 

「と、まぁこんな感じか」


 膝をついてぜえぜえと荒い息を吐く警察の人なんて眼中にないのか、男の子はおじさんの方に向き直る。


「どうだった、おっさん」


 質問するまでもない、と言わんばかりの自信満々な声色。

 それに対する返答はもちろん、


「ああ、楽しかった!」


 乱れに乱れた七三分け、笑顔を浮かべておじさんは答えた。


「……うん、もしも生きてる内に、君と出会っていたら僕は自殺していなかったと思うくらいには、楽しかったよ」


「そりゃよかった」


「仕事とか家庭とか……何もかも嫌になって首吊っちゃったんだけどね。 うん……こんな風に大声出して、普段やろうともしなかった事をやってみればよかったのかな?」


「ははは、おっさん。 そいつは無理だ。 その時やろうとも思わなかった事をやろうとするはずないだろう?」


「いや、まったく……まぁその通りだね」


「嫌な奴を思いっきりぶん殴ればすっきりするけどよ、おっさんみたいなサラリーマンがそれをやっちゃ駄目だぜ。 そいつは後が続かねえよ」


「……うん、その通りだ。 だったら」


 足を止めたおじさんが、ぽつりと言った。


「僕は、どうしたらよかったんだろうね?」


 その言葉は、あまりに難しい問いかけで。


「……さてねえ。 おっさんの……何が悪かったんだろうなあ」


 その言葉は、とっくの昔に結論の出ていた言葉だったんだろう。

 警察が来てから、演舞の途中から、それとも最初からだったんだろうか。

 それを、あの子に聞いてみたいと思った。


「まぁなんだ、何か落ち込んだ時は俺の所にくりゃいいよ。 空手くらいしか出来る事はないけど、嫌ってほど付き合ってやる」


「うん……頼むよ。 つまり、僕は君の弟子って事かな?」


「おっ、ついに天道空手塾にも初の弟子が出来たのか?」


「ははは、一番弟子か。 なんだか格好いいね」


「おっさんのために一番弟子の座は空けておいてやるよ」


「……ああ、嬉しいなあ」


 おじさんの気配が、遠ざかっていく雨雲のようにどんどんと薄れていく。

 困ったようにしか見えない、気弱げな微笑みだった。

 そっぽを向いた男の子の顔は、私からは見えなかった。


「ごめんね……ありがとう」


「……おうよ。 とっとと生まれ変わるなりして、早く弟子になりに来いよ」


 そして、おじさんは消えた。

 綺麗な光が降り注ぐわけでもなくて、感動的な音楽もなく、天使が降りてくるわけでもなく、最初からそこに何も無かったかのように。

 果たしておじさんの人生とは、一体なんだったんだろう。

 自分で自分を殺してしまうほどの嫌な事なんて、幸運な事に私にはまだわからない。

 

「こんな事くらいで成仏するなんて……馬鹿じゃないのか、おっさん」


 だけれど、おじさんにとっては『こんな事』がどうしようもなく嬉しかったのだろう。

 それは確かに救いだったんだと、私は信じたいと思った。


「天道空手塾、除霊承ります……ってか」


 話してみたいと、思った。

 あの子と、あのおじさんの事を。

 寂しげに笑う、あの子と。

 だけれど、その機会はまた今度になりそうだ。


「いたぞ! あの空手馬鹿っぽいガキだ!」


「げっ、何人連れてきたんだよ! お前らこそ馬鹿じゃねーの!?」


 いつの間にか逃げ出していた警官の人達が、何十人も連れて戻ってきたのだった。

 猿のような身のこなしで逃げ出した男の子の足は私どころか、警官の人たちも振り切る速さで、どうにかなる気はこれっぽっちもしない。


「ああ……」


 どたばたと走っていく警察の人達の背中を見ながら、私は思った。


「もう一度、幽霊の人達と話をしてみよう」


 つまらない正論でも、上から目線のお説教でもなくて、ただただ話がしてみたいと、私は思ったのだ。

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