雨の残照【短編】

河野 る宇

◆雨の残照

 朝から雨が降っていた。パタパタと天から落ちる水の粒は傘が必要なほどで昼を過ぎても雨は止まず、夕方近くになっても降り続いた。

「も~、やんなっちゃう」

 彼女はオレンジの傘を広げて、人通りの少ない道をコンビニ求めて歩みを進める。梅雨の雨はさほどの冷たさを感じないが、もの悲しい景色には違いない。

 折角の有給休暇だったのに、雨のせいでどこにも行けなかった。神様がいるなら恨んでやる。

 肩までの黒髪を鬱陶しそうに払い、やや強い足取りで数十メートル先のコンビニを見やった。食べるものが無かったのだから仕方がない。予報では今日は梅雨の晴れ間だったはずよ。

 時折は空を睨み、何を買おうかと思案した。公園の横を通る道は舗装されていて、両脇に所々植えられている紫陽花が雨の風景をほんのり彩っている。

「あ」

 ふと、右にある空き地に目をやるとぼんやりした影が視界に入った。ゆらりと立っているその影は、傘もささずに空を仰いでいた。

 彼女は何故かその姿に不思議な印象を受けた。遠目からでも青年だと解る影は、感情を表すことなく雨に打たれ続けている。

 声をかけようか、どうしようか。こんな所で雨に打たれているなんて、変な人だったらどうしよう。雨の公園になど自分以外は誰一人として通りかからない。

 もし声をかけて襲われでもしたら、きっと逃げられない。

 このまま通り過ぎてしまおうか……。しかし、その横顔がとても綺麗で彼女は魅入られたように立ち止まった。

 悪い人ではなさそう。だけど、悪い人は大抵そんな言い方をテレビでもされているじゃない。躊躇っていたが、優しそうな眼差しに意を決して歩み寄った。

「あのっ」

 怖々と声をかけると、その青年はゆっくりと振り向いた。間近で見る顔立ちは言葉を無くすほど整えられていて、彼女はしばらく見つめてしまった。

 青年はそんな女性に笑みを見せ、再び空を仰ぐ。その笑顔にドキリとし、傘を青年の頭の上にかけた。

「風邪、引きますよ」

 言われて青年はキョトンと小首をかしげ、すぐに傘を女性に戻した。

「え?」

「あなたが風邪を引きます」

「でも」

「わたしは冷却しなければならない状況にあるため、ここを離れることは出来かねます」

 は? 冷却? 何を言っているのか解らずに顔を覗き込む。柔らかい表情だが、どこか違和感を覚えた。

 青年の瞳は黒というより、とても深い緑色をしていて肩まである栗色の髪は濡れそぼり互いにまとまっているけれど乾けばサラサラなんだろうなと窺える。

「とにかく雨宿りしなきゃ。じゃあコンビニまで一緒に行きましょう」

「ありがとう。しかし、それは了承しかねます」

 変わらない笑みを向けて優しく応えた。喋り方のせいなのか、なんだかのらりくらりとされていて、少し苛ついてしまう。

「こんな所にいたら熱が出ちゃうわ」

 やや筋肉質の腕に触れようとすれば、青年はそれを避けるように後退した。

「接触は許可出来ません」

「え?」

 まだ言うのこの人……呆れて青年を見上げた。百六十二センチの自分と比べると、青年の身長は百七十五センチほどだろうか、細身だけどしっかりした体格なんだと半袖から覗く腕で解る。

 年齢はどれくらいだろう、二十八歳の自分よりもかなり若い気がする。二十一歳かそれくらいかもしれない。

「諸事情により人体に影響を及ぼす物質を体内に有しています。無害なエネルギーへの変換に伴い大量の熱を発生させるため現在、冷却作業を行っています」

 何を言っているのか全然、わかんないんだけど。誰か説明してほしい。

「え、ちょっと待ってよ。冷却ってことはやっぱり熱があるんじゃないの?」

 ちょっとおかしな人だけど、熱があるなら病院とかに行かなくちゃ! 腕を引っ張ろうと伸ばした手をさらにかわされる。

「いい加減にして! なんで逃げるのよ」

 さすがに大人しくもしていられなくて声を張り上げる。青年は、そんな彼女の態度にも柔らかな笑みを湛えていた。まさか、この人は私が怒っていることが解らないの?

「胎児にどのような影響を及ぼすのか解りません」

「──え」

 青年の言葉に女性の動きが止まる。

「成人には影響はほぼありません。しかし胎児を対象としたデータはありません」

「なんで──」

 なんで知ってるの?

「初期症状が見られます」

 どうしてそんなことがわかるの? まだ三ヶ月にも満たないのよ。誰にも話してないのに、親にだって……。

「母胎は速やかに天候を考慮して安心、安全な場所に──」

「うるさいわね!!」

 カッとなって怒鳴りつけると青年は言葉を切った。体を震わせて睨みつけたが、それでも色を変えない彼の表情に喉を詰まらせる。

「うるさい……。何にも知らないくせに何なのよ。ふざけないでよ」

 青年の気味悪さよりも、気遣うような言葉が許せなかった。たったいま出会っただけの奴が、知った風なことを言わないでよ。

「胎児にどんな影響があるか解らない? だったら、もっと触って欲しいくらいだわ」

 どうせ産む気なんてない。

「何故です」

「決まってるでしょ、父親がいないからよ」

 会社の上司だった人は、私を置いて他の人と結婚を決めてしまった。別れてくれと切り出されたのはつい先日のことだ。だから私は有給をとって、会社を辞めようかと悩んでいた。

 妊娠が解ったのも彼と別れてからだった。今更、私を捨てた人に何もしてほしくない。

 だから、いまある貯金で──

「胎児にとって父親がいることは重要でしょうか」

「当たり前じゃない」

「血縁でなければなりませんか」

「え」

「胎児があなたの手を離れるまでに、胎児の父親が見つかる可能性はあります」

「そ、そんなあやふやなものにすがるなんて出来ないわよ!」

「何故でしょう。確定されている未来などは存在しません」

「そんなの屁理屈じゃない」

 一人で育てるなんて無理に決まってる。ましてや、いつ現れるかも解らない、出会えるかどうかも解らない存在を信じるなんて出来ない。

「可能性がゼロでないのなら諦める理由はない」

「──っえ!?」

 今までと変わらないトーンで発した言葉のはずなのに、どうしてだか彼女には胸の奥まで響くような声に聞こえた。抑揚を示さない声色だからだろうか、それが返って自分との温度差をこれでもかと広げているようで、いつまでも彼の声が耳にこだました。

「博士がそう言っていました。私にはよく解りませんが、0%でなければ何かが含まれているということです」

「博士ってだれ?」

「わたしの父です」

 博士……そんな言い方をするってことは、

「血はつながっていないの?」

「はい」

「そう、なんだ。お母さんは?」

「いません」

 それじゃあこの人は、血のつながった両親がいないってことじゃない。博士という人は、何かの可能性に懸けたんだろうか。だからこうして、彼はここまで成長出来たんだろうか。

 変な喋り方だけど、とても穏和な人のように思う。でも、私はこの子を育てる自信なんてない。そりゃあ、誰でもそうかもしれないけど不安で仕方がないよ。

 女性は何も言えなくなり、青年をじっと見上げていた。青年はパンツのポケットに手を入れて何かを取り出し、彼女の前に握った拳を突き出す。

 なんだろう? 彼女は左手を広げて差し出すと、手のひらにぽとりと小さなものが落ちてきた。

「これ……」

「人工エメラルドです」

 博士が唯一、成功だといえるものだと言っていました。

「人工の?」

 確かエメラルドはイミテーションでも造れないと聞いたことがあるのに……。覗き込むと、中には何か入っているのかキラキラと輝いていた。

「人工的にインクルージョンを封入しています」

 それって、宝石に取り囲まれた内包物のことをそう呼んだような気がする。宝石にとっては無い方がいいものを、わざわざ入れたんだ。エメラルドはそれが特徴とも言えるらしいけれど。

「それは世界にただ一つのものです」

 同じものは二度と造れないと言っていました。

「それじゃあ、とても貴重なものね」

 エメラルドは幸福や幸運ていう意味があったっけ。

「わたしにはその価値はわかりません」

 幸せということも、わたしにはよく解りません。しかし、人にとって良いものだということは解ります。

 そう言った子供っぽい笑みに、なんだか心が安らぐ。

「あ」

「え? あ、雨が止んでる」

 青年の声に顔を上げると、雨はいつの間にか止んでいた。女性は傘をたたんで再び顔を上げたが、青年の姿はすでになかった。

「ちょっと、どこ行ったの?」

 周囲を見回しても人の気配はない。まさか夢だったのかと、もう一度手のひらを開いた。そこには、夕闇の迫る中でも輝きを放つ緑の石が小さく彼女を見つめていた。

 日は沈み空の雲は赤い光に照り映えて、とても美しく幻想的な空だった。



*****



「ねえ、ママーはやく!」

「待って待って、ママは疲れたわ」

 公園に行きたいという娘を連れて、とある母親が夕暮れ時に訪れた。幼稚園に入ったばかりの娘は元気に走り回り、あちこちを興味津々で見回す。

「もうすぐしたら帰るわよ」

「はーい!」

 元気に手を上げて答えた娘に目を細め、梅雨の晴れ間にオレンジの陽を受ける紫陽花を見つめた。次に空を見上げ、空き地に目をやる。

「あ」

 ふと、見知った影が見えた気がした。でも、いるはずがない。あの時のままの姿だなんてあり得ない。

 夢のような出来事を懐かしむように小さく溜息を吐く。

「あら、綺麗ね」

 気がつけば、あのときに見た残照が空に広がっていた。決して忘れる事のなかった幻想的な風景は、雨の日に出会った青年を思い起こさせる。

 左手薬指に輝く緑の石は、空を仰ぐ女性の顔をただ静かに映していた。





 END

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