エピソード2 StarCrew

あの絶望とあの奇跡を、きっと僕は忘れない。



僕と藍菜は、長い時間を共に過ごしてきた。いわゆる幼馴染み。お互いの家は目の前だ。だから仲は良いと思う。それは高校生になった今でも変わらない。多分。


僕たちは星を見ることが好きだった。星に詳しいわけじゃない。北斗七星とか、そういうメジャーなやつしか知らない。ただ、星空を眺めるのが好きだったんだ。でも、ここら辺じゃあまり綺麗には見えない。余計な光が多すぎて、小さく光る三等星くらいの星は消えてしまうのだ。そんな時、僕は発見してしまった。


「藍菜、深夜は暇?」

登校してすぐ、教室に幼馴染みの姿を見つけて声をかける。

「深夜? 暇だよ?」

「そっか、じゃ迎えに行くから待ってて。起きててね」

「迎えって言ったって、私ら家目の前じゃん」

鈴のような笑い声で、藍菜は笑う。この笑顔を見られるなら、僕は何だってする。

絶対に失いたくないし、失わせたくない、昔から気づけば隣にあった宝物。

十六歳になってやっと認められた。この笑顔を守りたいと、自分が思っていることを。もう僕は嘘つきをやめたんだ。

「そういえば、明日は流星群だっけ」

「うん。今日から明日にかけて」

「だからか」

「まぁね」

そう、今日の深夜から明日の明朝にかけて、ふたご座流星群が観測できる。

幸運なことに、明日は土曜日。いくら遅くに外に出ても怒られない。僕たちの両親は、僕らが星を見ることが好きなのを分かってて、それを認めてくれていた。

恵まれた環境だと思う。本当に。


やっと一日が終わった。徹夜というわけにはいかないから、学校から帰ってきてすぐに仮眠をとった。体調に問題はない。むしろ最高。

「行ってきまーす」

「風邪引かせないでね」

藍菜のことしか心配しないんだ。薄情な親だね。

夜も深くなり、静まり返った世界。インターフォンを押すと、驚くほど速く藍菜が出てきた。寒さにやられないように、防寒対策は完璧だ。

「じゃ、行こっか」

「なんか、こんな時間に出歩くなんて、やましいことがあるみたいだよね」

十分な睡眠をとったらしい。こんな真夜中でも、藍菜は元気だ……。

「バカじゃないの?」

「そんな気しない? ああっ、変なことしないでよね! お母さんに訴えるからね、優音ゆうと

「テンション大丈夫なの?」

誰がそんなことするか。っていうか、自動的にうちの母に伝わるわけで、それは僕が死ぬので絶対にしない。たとえ、ちょっとそういう妙な気を起こしてもね。

たっぷり釘を刺されてきたし。

「で、どこ行くの?」

「まぁまぁ、ついてきてよ」

黙々と歩くこと二十分。黙々とではないか。小さく喋りながら歩いてた。

「到着」

「……広場? へぇ、こんなところあるんだ。知らなかったな」

当然だ。だって、こんな遠くまで歩いてくるなんてこと、滅多にしない。しかも、この広場見え辛いところにあるし、なおさら。

「ここ、星の広場っていうんだよ」

「星のためにある場所って感じだね」

確か、真ん中あたりにベンチがあったはず。それを探してうろうろしていると、不意に声をかけられた。

「君達」

「うわっ!!」

二人揃って仲良く声をあげると、僕たちに声をかけた人は穏やかに笑った。

「驚かせるつもりはなかったんだ。悪かったね」

後ろに立っていたのは、柔和な顔をした初老の男性。かけている眼鏡が、なんとなくインテリ感を醸し出している。

勘だけど、先生だったんじゃないかな。話し方とか、表情が。

「こ、こんばんは……」

まだ驚いている藍菜に代わって、僕はとりあえず挨拶をした。

「こんばんは。ちゃんと挨拶ができるのは、真っ当な人間の証だよ」

「あっ……こんばんは?」

「何で疑問形なの、藍菜」

まだ動揺してるらしい。無意識で僕に近いところに来ている。

「いや、驚かせて悪かったね。こんな夜更けにこんなところに来るなんて、君達も星を見に来たのかい?」

「はい」

「初めて見る顔だね。どこから来たのかな」

「……二十分くらいかかるところから来ました」

どうとも説明できなかったから、かかった時間で答えるっていうね……。

おじいさんは、そんな僕の答えに満足したように笑った。

「面白いなぁ、君。高校生かい?」

声に出さずに頷く。

「そうかそうか。星が好きなんだね」

「あんまり詳しくないですけどね」

やっと落ち着きを取り戻した藍菜が、苦笑しながら言った。

あんまりも何も、全然分からないけどね?

「わしも分からんよ。だが、星を見るのは好きだな」

「一緒ですね!」

藍菜に持ち前の人懐っこい笑顔が浮かぶ。

おじいさんは、微笑ましそうに目を細めた。やっぱり元教師だ。

「急に話しかけてしまってすまなかったね。そうだ、星を見るなら、ここを真っ直ぐ行ったところにあるベンチが一番だよ。何も遮るものが無いからなぁ」

ああ、なんだ、ちゃんとベンチある場所に向かえてたんだ。

「ありがとうございます。迷ってたんです」

「そうだと思ってな、声をかけたんだ」

本当かな? まぁ……疑う意味は無いか。

「それじゃあ、親御さんに迷惑をかけないようにな」

この口振り。うん、思った通り。答え合わせ、しないと気が済まない。

立ち去るおじいさんの後ろ姿に、僕は問いかけた。

「あの、貴方は昔教師をやっていらっしゃいましたか?」

背中が少し真っ直ぐになって、威厳のある背中になった。

「よく分かったね」

元教師のおじいさんは、軽く振り向いて微笑をたたえた。


ベンチには誰もいなかった。

空気は澄んでいて、冷たいけれど気持ちいい。冬の夜の空気は最高だ。夏は、なんとなく何かがそこに留まっている気がする。冬は何もない、綺麗な空気。そんな感じ。

「んー、冬の空気って感じだねぇ」

「今そう思ってた」

「流石幼馴染み」

「以心伝心」

面白がるように、藍菜が顔を覗き込んでくる。僕は慌てて身を反らした。

「ゆー君がそういうこと言うなんて珍しいね」

「僕が冷たい人みたいに言うのやめてくれる?」

だってそうじゃん、と藍菜が悪戯っぽい笑みで僕をつつく。

昔っから変わらない、僕にしか見せない藍菜。それが嬉しい。愛おしい。

ずっと変わらないこの関係性は、多分変わらないのかな。

僕は、臆病者だから。

「もっと言ってよー、減るものじゃないんだしー」

「減りはしないけど、信憑性がなくなるよ? いいの?」

「それもそっか。ゆー君は賢いね」

「僕より成績優秀なくせに」

さらっとムカつくこと言うのも変わらない。

これにいちいち腹を立てるようじゃ、藍菜の友達は務まりません。

「あ! 見て見て、流れてる!」

不意に藍菜が声をあげて、遠くの空を指差した。

つられて見上げると、ちょうど星が流れていった。雲のない夜空に、無数の星が点々と飾られている。

「ホントだ」

「うわぁ、さっきまで全然流れてなかったのに! やっぱり凄いなぁ!」

これぞ大自然、みたいな。

この大空を眺めていると、自分が抱えている悩みとかストレスが、いかにちっぽけで馬鹿らしいものなのか思い知らされる。

「今ね、この場所が日本で一番綺麗なんじゃないかっていう錯覚に陥ってる」

じゃあ藍菜の微笑んでる姿は世界一綺麗だね。

なんて、口が裂けたって言わないし、言う度胸も持ち合わせてない。

「そうかもね」

無難な返事に逃げてしまう。だから冷たいなんて言われるんだ。自覚はしてるけど、思ったことを口に出すのは危ないことだから。


しばらく黙ったまま空を見ていた。

ここにいる誰もかもが、一切喋らない。草木も眠る丑三つ時だ。

完璧なサイレントナイト。そんな夜に二人で星を見ているなんて、ありがちな恋愛小説みたいじゃないか。

現実は、ベンチの上で決して重ならない微妙な距離感を保った二つの手。

藍菜と僕の関係は、この右手と左手が表してる。


僕は、僕たちは、このままで良いと心から思ってる?


少なくとも僕は思ってない。

このままじゃ嫌だって、この距離感で安心してちゃダメだって。

これから先、きっと後悔する。

藍菜が僕の幼馴染の藍菜じゃなくなった時に、絶対に過去の自分を恨む。

誰かの藍菜になんてなってほしくない。そう訴える『相宮優音』に気づいたんだ。

……変えるなら今だよね?

ありったけの勇気を出して、そっと藍菜の手に自分の手を重ねる。

驚いたように僕を見る藍菜。今僕は、何でもないように振る舞えているだろうか?

意識して、別なところに注意を逸らしているけれど、確かにそこにある初めて握った手の温もりは、しっかりと僕に伝わってくる。

藍菜の驚いた表情が、ゆっくりと世界一の表情に変わる。

「どうしたの? 優音じゃないみたい」

「冬だからね」

「なにそれ」

さぁ、僕にも意味が分からないよ。きっと、この特別な空気に惑わされてるんだ。

「……嫌?」

だから、こんなことを訊いてしまえるのかも。

「ううん、全然?」

「そっか」

相変わらず無愛想な僕だ。でも、本心は違うんだって、ずっと隣にいてくれた藍菜なら分かってくれてる。


「……ねぇ、寒い」

「しょうがないなぁ」


ただ重ねていただけの手を、しっかりと、強く握る。

僕の心が、これで伝われば良いのに、なんて思いながら。

藍菜は、それに応えてくれた。


時計さえもうたた寝をはじめる、深い深い静かな夜。

あるのは僕たちだけの世界。誰にも邪魔できない、僕らだけの時間。

この世界に存在していいのは、僕たちを優しく見守る星たちだけ。

星の記憶に、二人だけの特別な記憶を刻んだ。



階下で電話が鳴っている。

どうせ売り込みかなんかだろう。いちいち出るのも面倒くさい。誰かか出てくれる。……あ、ほら、お母さんが出た。また、意識を音楽に集中する。

しばらくして、イヤホンから聴こえてくる音よりも大きい音で、お母さんが荒っぽく僕の部屋のドアを開けた。

「何? 部屋壊す気?」

わざわざ目を開けるのも面倒くさい。閉じたままで嫌味っぽく言う。

「優音、落ち着いて聞いて」

そう言うお母さんの声が落ち着いていない。

変だな。流石に違和感を感じて、片目を開く。目の前には、見たことない取り乱した表情があった。

「何したの?」

「……が」

「え?」

声が掠れていて、全然聞き取れない。聞き返すと、今度ははっきりとお母さんが言った。それは、嫌に明瞭で。


それは、僕から何もかもを奪い取る大泥棒。




急いで向かわなきゃ。早く早く早く早く、速く!!

こんな時に限って道は混んでいる。意味わかんない。僕は急がなきゃいけないっていうのに! ここにいるほとんどが、どうしても急がないといけない用事を抱えているわけじゃないだろ!? だったら僕に場所を譲ってよ……!


やっと目的地に着いた。

車から降りるのもそこそこに、ダッシュで走り抜ける。建物から出てきた、安心して笑いあっている人々にぶつかる。だけど謝る気なんてさらさら無い。今はその笑顔が憎らしくてしょうがない。僕は悪魔か?

建物内も走る、走る、走る。

「走らないで下さい!」

注意なんて気に留めてる暇無いんだよ!

一目散に駆け抜けると、ついに目的の場所に着いた。


「優音君!」

泣き腫らしたおばさんが僕の名を呼ぶ。そのまま抱きしめられた。近くで見ると、余計にはっきりと目の赤さが分かった。抱きしめる力は弱弱しくて、いつも優しく笑っているあの姿は、すっかり鳴りを潜めている。

「おばさん……」

言葉が詰まる。勝手に上がってくる熱さを、無理矢理飲み消す。

「これから先生に話を聞くわ」

「……うん。一緒に」

よろよろと危なっかしく歩き始めるおばさんを、厳しい顔をしたおじさんがそっと支える。おばさんの後ろ姿に、魂は無いように感じられた。抜け殻。あまりにも大きすぎるショックに、精神的な処理が追いついてないんだ。


もちろん、僕だってそうだけど。


僕はもう、理解することを頭が放棄してしまった状態。

処理能力が追いつかなくて、ダウンしたんだ。


先生は言った。

「佐々木藍菜さん。交通事故でしたね。一番ぶつかった時のダメージが大きかったのが、頭部でした。その他にも各所の骨折がありましたが、命に別状はありませんので、ご安心下さい」

張り詰めていた空気が、一気に抜けていく。ふー……と思いっきり息を吸って吐いたところで、自分が呼吸していなかったことに気づいた。

「しかし……」

「何ですか!?」

先生の深刻な暗い声に、反射で食いついてしまう。


「脳へのダメージがかなり大きかったので、なんらかの後遺症が残ると思われます。麻痺、あるいは記憶喪失など……。覚悟をなさって下さい」




そのあと僕たちは藍菜の病室にいた。

こちらの気も知らないで煌々と輝きながら沈んでいく太陽。僕には、それが悪魔かなんかに見えて、静かに激しく睨みつけた。


藍菜が目を覚ましたのは、完全な夜になってからだった。


藍菜は、思い出を失くしていた。


目覚めてすぐに発した言葉が、それを表している。

「誰……?」

おばさんは崩れ落ちた。おじさんは静かに下を向いた。

僕は……生きる仮面になった。



立ち直れなくて、僕は何日か学校を休んだ。それでも精神が回復しない。だけど、保健室登校でもいいから学校に来ないかと先生に言われた。このまま家にいたって何もならない。藍菜は帰ってこない? 考える気力もなく、僕は言われるままに学校へ重い足を引きずった。


いざ校門というところで、勝手に体が怯む。

だって、ここには思い出が、記憶がある。笑っていた藍菜がいる。

会いたくなかった。もう二度と会えないかもしれない、そんな藍菜に。

「情けないかな、僕は」

誰も答えてくれないと思っていた独り言に、誰かの答えが返ってきた。

「情けなくなんかないさ」

びっくりして顔をあげると、いつの間にか目の前に白衣の男性が立っている。眼鏡が似合う人だと思う。特別整ってるわけではないけど、どこにでもいるようでいない目を引く顔立ちが、どこか兄っぽさを醸し出してる。なによりも、優しい声が耳に心地よかった。

「驚いてるね? 俺、君が登校してきた時からいたんだけどな」

「そうだったんですか」

「素っ気ないな。無愛想だって言われない?」

「言われます」

無愛想に磨きがかかってるから、今の僕に関わるのは良策じゃない。

というか、この人は誰だ。

「お前誰だって思ってる?」

見事に内心を当てられて、思わず「何で」と言ってしまう。もう僕は人に関わりたくないのに。今は関わってきた人を傷つける言葉しか出ない。

「何でって、そりゃあ顔に書いてあるからだろう。言葉にしない代わりに顔に出やすい性質なのか」

「……あなたは誰なんですか」

「俺かい? よくぞ聞いてくれた、鬱少年。俺はこの学校の生徒の心を慰め、時に正しい道へ連れ戻し、共に悩みを解決することを生業なりわいとしている、稔凜乃弥みのりりのやだ。よろしく」

心を慰め、正しさを教え、悩みを聞く。

この職業とは、人生で関わることなんてないと思ってた。

「カウンセラーですね」

「そういうことさ。えーと、名前何だっけ?」

「相宮優音」

「そうそう、相宮ね。相宮相宮」

頭に叩き込むように名前を連呼する姿は、どうしたって先生らしくない。

「オーケー。ではでは、これから夢の相談室へご案内」

ふざけて校舎を指すのだって、全然先生らしくない。

だからなのか、この人との空気は嫌じゃない。藍菜の記憶喪失から一週間。

初めて口角が緩むのを感じた。


「そこのソファーにでも座ってくれ」

相談室なんて初めて入った。どうでもいいような本が置いてあったり、トランプとかのゲームがあったりする。居心地はいいのかも。

「お茶飲むかー?」

「見当たりませんけど」

「ここに」

白衣のポケットから紅茶パックの袋が出てきた。なぜ。

「ちなみに紅茶一択だ。お前は飲めるか?」

「好きですよ。砂糖は絶対入れないでください」

「おっ、俺も砂糖入れない派なんだ。奇遇だな」

藍菜も……と思い出して、気持ちがどん底に落ちる。この数分の間でちょっとだけ気分が浮いてるような気がしたのは、どうやらただの錯覚だったらしい。

「なんだ、嫌な事思い出したか? 話してみ」

「稔先生はご存じないんですか」

先生は顔をしかめた。

「稔先生より凜乃弥先生の方がいいな。って女子っぽいから、よくからかわれたんだよ」

それは嫌なことをしちゃったか。

「すみません」

頭を下げると、凜乃弥先生は照れ臭そうに笑った。

「いや、知らないことを責めるような心の狭い男じゃない」

「僕も責めてないですからね」

「分かってるさ。で、相宮。お前は一体何があって精神的に病んでるんだ?」

僕は藍菜のことを話した。事故のことだけじゃない。どのくらいの付き合いだとか、どういう人だとか、そういうことも全部だ。事故のことだけ話すのは無理だった。先生の聞き方が上手かったからかもしれない。とにかく何もかもをぶちまけたくなった。流石に、一つだけは隠したけど。


「……相宮にとって、佐々木は宝物なんだな」

「大事ですよ。幼馴染みですから」

「幼馴染みだからじゃない。好きだからだろ?」

「え」

反射的に口を覆う。そんなこと喋ってないし、匂わせたつもりもない。

上手く隠したと思ったのに。

「図星か。勘だったんだけどな」

「…………鎌かけただけですか?」

「誘導尋問もカウンセラーにゃ必要なスキルさ」

「誰にもバレなかったのに」

僕の恋心を隠す能力は、そこら辺の奴らには劣らない。

友人曰く、僕はガードが堅いらしい。

「ま、そこは年の功だな」

「でも二十歳前半くらいですよね」

「残念。俺は今年で三十路だ」

絶句。とてもじゃないけど三十路には見えない。お世辞なんかじゃなく。十人中九人は絶対に僕と同じ見積もりをするはず。

「若く見えるらしいな。よく言われるよ。嬉しいが、若いのはなめられる原因にもなる。この学校に来て最初の頃、俺の実年齢を知らない先生方が、あんな若者にカウンセラーなんて大きな仕事が務まるのか、って陰口を言われたよ」

先生方、っていう言葉に皮肉な響きは籠ってない。

「大人の陰口の方が陰湿だと思いませんか?」

「中身がないまま大人になった人なんかは特にな。中身があったって、大人であることはイコール色んな体験をしてきたってことだ。そりゃ陰湿にもなるだろう。人間は嫉妬や屈辱を味わうもんだからな」

確かにこの人はいい加減で薄っぺらそうな感じがする。だけど人は見かけによらない。僕は、この十数年の学生人生で、初めて先生らしい先生に会った。

「先生は、どんな体験をしましたか」

「聞きたいか?」

「じゃあいいです」

「なんでだよっ」

天邪鬼ですみません?

「聞きます」

どうしたらこんな大人になれるのか、純粋に興味がある。たとえ僕じゃなれないとしても、参考にしてみたいから。今の僕にだって、参考になるところはあるかもしれない。記憶のない藍菜を受け入れられるようになりたい。

僕は背筋を伸ばした。


そんな僕を目を細めて眺める凜乃弥先生は、どこにでもいるようでいないタイプの人だった。

「俺はな、高校生の時に親を亡くした。事故だった。飲酒運転の免許無しの同い年の車に、両親が運転してた車が突っ込まれたんだ。しかも、その運転してた奴は、俺のクラスメートだった」

交通事故。飲酒運転。藍菜と一緒だ。僕と違うのは、事故で亡くしたということ。

「現実が俺の一部になる前に、両親の葬儀が執り行われた。当然涙は出ない。死んだなんて受け入れたくなかった。骨になっても、まだ受け入れられなかった」

その時の気持ちはどんなものだったんだろう。僕は大事な人を亡くしたことがないから分からない。けど、大事な記憶を失うよりも辛いはずだ。


思い出が全部消去されたって、それは新たに創ることができる。未来がある。

でも、いない人との間にあるのは過去だけ。そこに未来は生まれないから。


「現実が受け入れられないまま、日常は過ぎていく。誰も俺を慰めてくれない。穴は埋まらない。そんな時、俺を助けてくれたのはカウンセラーの先生だった」

カウンセラー。

「その人は言った。『消えてしまったものを探しても見つからない。寿命が来た時計は動かない。見つからないものを探して、動かないものを動かそうとするのは不可能だ。今を生きている僕たちにできることは、不可能だということを認めること。そして、過去には確実にあったそれらを忘れないこと。過去に縋り付いても、君の人生が出来るわけじゃないんだよ』」


消えてしまって動かない時計は、失われた命?

僕にとってのそれは、きっと藍菜の記憶だ。


「だから、お前も未来に目を向けろ。記憶喪失がなんだ、まだ未来を創ることはできるじゃないか。いつまでも時間を止めておくのは馬鹿だぞ」

「……そうですね」

ずっとずっとここに留まってるわけにはいかない。

「佐々木はいなくなってない」

「そうですね」

「相宮、お前ができることは何だ?」

僕にできること。藍菜のためにできること。

「また、前みたいに幼馴染みでいることです」

多分これしかできない。僕は無力だ。

「正解」

先生は、優しく微笑んで僕の頭に手を乗せた。

僕が藍菜にする仕草と一緒だった。

「藍菜……!」

今までの思い出たちが蘇ってくる。藍菜が一回だけ僕にしてくれたこの仕草。その温度と、先生の温かさがリンクする。凜乃弥先生の笑顔に安心を感じたのは、藍菜に似てるからだった。もう見られないかもしれないそれに、どうしようもなく涙が流れる。静かに泣く僕を、先生は黙って放っておいてくれた。

しばらくして二杯目の紅茶が差し出される。

「ありがとうございます」

先生は何も言わず頷いた。カップから伝わってくる温度が心地良い。

一口、ゆっくりと口に含んだ紅茶は、人生で一番優しくて、苦かった。



あれから僕は吹っ切れたように藍菜のもとに通い詰めた。

部活は入っていなかったから、学活が終わった瞬間に教室を飛び出す。

今日もそうする予定だった。それを遮ったのは白衣だ。

「よう、久しぶりだな」

「……そうですね?」

「はは、お前にとっては早い二週間だったか?」

二週間。もう、こんなに経っていたなんて。先生の言う通り、僕の二週間はあっという間に過ぎていった。

「元気そうで何より」

「先生も」

「俺はいつだって元気さ」

ふざけたような芝居がかった笑い方は、二週間前に会った時と全く変わらなくて。

相変わらず、軽そうな人だと思う。

「あ、そうだ。先生、なんとなく言いそびれてたんですけど、あの……ありがとうございました」

「礼を言われる筋合いはない。―生徒を救うのが俺の仕事だ」

ふざけていなかった。真面目だった。


これは、自分の仕事に使命感を持っている人の言い方だ。


やっぱりこの人は謎な人物。

「もう帰りか?」

「藍菜のところに」

「そーかそーか。そりゃ良いな!」

じゃーな、と言ってすれ違う瞬間にポケットに重みを感じた。

振り返っても先生は職員室に戻っていくだけだった。

……謎すぎる。本当に。


「こんにちはー藍菜」

「こんにちは、優音君」

藍菜は読んでいた本を閉じて、目を上げた。うっすらと疲労が現れているのは、なんの疲労だろう? 聞くべきか、聞かないべきか。

「最近、私変な夢を見るの」

「夢?」

「夜の公園で、誰かと一緒にいて。空気が綺麗で星空が無限に広がってる。それがどこなのか、隣で笑ってる人は誰なのかは分からない。でも、凄く忘れたくないっていう想いに胸が締め付けられる。そして、隣の人が、記憶の視点の人にとって大事な人だってことも分かるの」

僕はその問いの答えを知ってる。だってその記憶は君と僕のものだ。君が言う『大事な人』はきっと僕だ。僕だって思いたい。

思わぬところで両想いを知ってしまったけれど。今は無かったことにしよう。

「この夢、なんなのかな……」

ごめんね、ちょっとだけ君に嘘をつく。

だって、何も知らない状態で僕は藍菜に伝えたいんだ。

「分からないなぁ」

「そっか。だよね」

「ところで、藍菜外に出ていいんだっけ?」

「え? 退院はまだだけど、外には出られるよ。一泊もできる」

一泊できるなら、あの場所に行ける。あの場所に行けば、何かが変わるかもしれない。なんだっていい。何かが起こればいい。

思い出さなくてもいいから、星が綺麗だと笑ってほしい。

「明日、藍菜と一緒に行きたいところがあるんだ。深夜なんだけど」

そこで察したように藍菜は悪戯っ子のように微笑んだ。

笑顔が変わらなくて、息が苦しくなる。やっぱり一生慣れないな。

「分かった。優音君が言うなら、私はどこでも行くよ」

「……うん」


こんなこと、記憶がないからこそ言ってくれてるだけだよなぁ。



次の日、僕は昼休みを利用して凜乃弥先生のところに行った。

「お、昨日ぶりだな」

「昨日のあれ、ありがとうございました」

ちゃんとした形で頭を下げると、凜乃弥先生は照れ臭そうに言った。

「受け売りだ、受け売り。あれは俺が例のカウンセラーの先生に貰ったやつでね。お守り代わりにつけてたんだ」

「もう、叶いますから。これはお返しします。助けられました」

昨日、すれ違う瞬間にポケットに入れられたブレスレット。

出会った時から先生が腕につけていた、アメジストのものだ。

「いや、いいよいいよ。それはお前にくれる」

「何言ってるんですか!?」

これは先生の大切なものでしょうが。

「お前にあげたくなったからやる」

「意味わかんないですね」

「そういうもんだ」

どうせこのまま議論したって、結局僕が言いくるめられるだけか。

こんなことに気づく自分は、一体どれだけこの人と過ごしたんだ。

いつの間にか親密になっていた。

「お前があげたくなったら誰かにくれてやれ。そうすれば、繋がっていくだろ? 俺たちの絆が」

絆が繋がっていく、か。なんだそれ。

「……かっこいい大人ですね、先生は」

完敗だ。僕はこの人みたいになりたい。もう認めてやろうじゃないか。


凜乃弥先生こそが、僕の憧れるかっこいい大人だ。


「俺みたいにはなるなよ」

「はい、絶対になりません」

「お世辞くらい言えよ」

あぁもう、楽しい。この人と出会えて良かった。

良い大人に出会えて良かった。



夜が近づくにつれて、鼓動が多くなるのが分かる。あと少し、あと少しと時計を見ても、意外と少しじゃないんだ。時計は性格が悪いのか。それとも機嫌が悪いだけ? 機嫌がいい時は、あんなに先走って進んでくもんな。

やっと、時間になった。

待ちに待った音が鳴る。

「藍菜」

「全然眠そうじゃないね」

私は少し眠いな。そう言って眠たげに笑う女神。

「うん。楽しみだから。行こう」

僕は自然と手を握っていた。一歩後ろを歩く藍菜を振り返ることは流石にできない。そこまでの勇気なんて、もう残っていなかった。


この前よりも早く着いた気がする星の広場。

「ここ、星の広場って言うんだ」

「星のためにある場所だね」

返事が前回と変わらなくて、やっぱり藍菜は藍菜なんだなって思う。

記憶が無くても、藍菜を感じさせる言動とか仕草が何回かあった。

その度に、嬉しくも悲しいみたいな気持ちになったけど。

「あったあった!」

あの時の僕たちが座っていたベンチ。藍菜の笑顔が目に浮かぶ。そこにいるんじゃないかって錯覚してしまう。違うだろ。今藍菜は隣にいる。

「ここって……!」

「夢の場所?」

「そう。でも、どうして、あれはいつのこと……」

「そんなことはどうでもいいんだよ。僕らは星を見に来たんだから」

手を引いて、ベンチに座る。あの日をきっかけにして、僕たちの関係は確かに変わったんだ。変わったけど、僕はまだ臆病だった。もう迷わない。

時間は有限。知っていても実感は無いままで生きてきた。それは仕方ないことなんだろう。だって失わないと気づけないのが人間だ。

「見上げてみなよ」

冬の夜の空気は最高だ。星空の美しさが最大限に生かされるから。

僕につられたように空を見上げた藍菜が息を飲むのが聞こえた。

やがて、藍菜が息を飲む音が僕の耳に届いた。

「ふたご座流星群だ。そうだよ、私は佐々木藍菜。あの日隣にいたのは、私の一番は、相宮優音だよ!」

その声は震えていて、けれどとても透明で。流れる涙に不純なものなんて何一つ含まれていなかった。

「優音……! 私、私だ! これが私だった!!」

繋がった手の強さが必死になる。まるで僕がいなくなってしまうかのように。

「夢じゃないよ、藍菜」

「うん、うん……! 夢じゃないね、ここにいるよね」

夢じゃないなんて自分が一番信じてない。夢みたいなんだ。

だってこんなことって。こんな奇跡、信じてなんかなかった!

「この場所が日本で一番綺麗だよ!」

「うん、綺麗だよ」

「綺麗だって、思い出したっ……」

ああどうしよう。藍菜の泣き笑い見てたら、僕まで泣きそうだ。

こんなにも嬉しくて何も考えられない状態なんて、初めて味わう。

涙が溢れる瞬間、僕は藍菜を抱きしめた。

確かにそこにある温もりと記憶が嬉しい。嬉しい以上の言葉が見つからない。嬉しいなんて、陳腐な言葉だけど。


「もう離さないから。ずっと好きだよ、藍菜」


やっと言えた。臆病者はやめたんだ。

「私も……! 絶対、離さないでね。絶対」

「絶対に離さない。こんな怖い思い、二度としたくないから」


僕たちを、あの日と変わらない星空が包んでくれる。

雲ひとつない星空だった。



僕は、僕たちは、世界で一番幸せ者。











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