僕たちの恋物語
歌音柚希
エピソード1 さかさシンドローム
ある日突然、思うように言葉が喋れなくなった。
まさか、と思った。嫌な予感がしたのだ。
その時、世間では≪逆さシンドローム≫なるものが話題になっていた。
これは最近流行り始めた、未知の病気。奇病だ。ウイルス性なのか、感染するのかどうかすら分からない。ともかく、この病気になると、言葉が天邪鬼になるのだ。
思っていることとは
どうしてなのか、なんて誰もわからない。このおかしな特徴のせいで、恋人を傷つけてしまった男性が自殺したそうだ。そもそも、彼が自殺したからこの病が見つかったんだ。
僕には大好きな人がいた。
だから、僕の予感は当たらなきゃ良いと思った。彼女が――桜がこの病気について知っていないから、なおさら。
でも現実は厳しい。
嫌がる僕を押さえ込んだ親に連れていかれた大学病院で、白衣の若い男性が告げた。
「残念ですが……
想反対言葉病。それは、逆さシンドロームの正式な病名だった。
僕は塞ぎ込んだ。闇に包まれて、自分の部屋に引き籠るだけ。
お母さんの優しさだって、今はうざいとしか感じなかった。
さながら精神まで逆さシンドロームに侵略されたかのようで。
でもそんなわけはないから、余計に僕は僕を嫌った。
このまま、一生言葉を発しずに死にたい。
これではダメだ。そう思って、試しにずっと好きだった詩を読んでみた。
けれど、それはひどくつまらないものだった。
愛がどうとか、希望がどうとか、なんだそれ。
それらを伝える手段が無かったら、ひたすらに
どんな時でも、主人公が明るい言葉で皆が救うところが大好きだったはずの少年マンガも、素晴らしい恋愛を文字にした小説も、何もかもが嘘に見えて悲しくなった。そう、昨日までこれらを読んで満たされていた自分を、殺してしまいたくなるほどに。昨日までの人生を、壊して破いて捨ててしまいたいくらいに、自分が嫌になった。未来だって、無くていい。こんな僕は生きなくていいんだ。
激しい自己嫌悪を闇で隠そうとしていた僕の部屋のドアが、急に叩かれた。
三回叩く音。聞いただけで分かる。今ドアをノックしたのは桜だ。
反射で布団に身を隠す。
「
お母さんたちは、桜に何も話していなかった。
……良かった。
「答えてよ。私だよ、分かるでしょ?」
「………知らない。誰?」
久しぶりに出した声は、
それよりも、僕は自分が言った言葉に絶望していた。
逆さシンドロームは、こういう病気だと知っていたのに。
「知らない……って、冗談だよね? 桜だよ、
「僕は知らない」
冗談だったなら、どんなにいいか。
扉一枚の向こう側で、はっきりと桜が傷つくのが感じられた。
「ごめん……。今日は帰るね」
「そう。さよなら。もう来ないで」
違う! こんなの僕の本心じゃないんだ!
いくらそう思ったって、言葉にできなきゃ意味がない。
桜が、泣いている。
一番泣かせたくない人が、僕のせいで。
階段を下りる音が、僕に事実を刺してくる。流れる液体は、僕に流す権利のないものだった。
君はきっと、君が今会話した相手が偽物だって気づかない。
でも、それでいいんだ。このまま、もう真実を知らずに僕なんかとは離れてほしい。そうすれば、絶対に幸せになれるから。
夜は明けない。
あれから一か月が経った。学校にも行かず、引き籠り生活だ。
もう久しく喋っていないな。逆さシンドロームになってから、何もかもが曖昧になった。大切だったはずの想いも、大切な人との関係も。
この世には、何一つ確かなことなんて分からないのだ。
もう、全部がさかさまに僕の目に映る。それは多分幻なのに、僕はバカだから騙されてるんだ。情けないなぁ。
そして、また君が僕を訪ねてきた。
毎週毎週、土日は欠かさずやってくる。いい加減に、僕のことなんて見捨ててくれればいいのに。でも、これを嬉しく思う僕も、まだ存在するんだ。
いつも通り、桜は学校であったことなどを僕に話してくれる。
不意に、桜は言葉を止めた。
わずかに間が空いて、桜はこう言った。
「私、奏のこと大好きだからね。どんなに今酷い人に変わっちゃっても、きっといつか戻るって信じてるから」
「そんなの信じない」
「信じてくれなくたっていいよ。私は勝手に奏のこと信じるけど」
「やめてくれないかな、そういうの」
ホントは、どうだってよかった。この言葉が嘘だって本当だって。
だって、本当でも僕は信じることができないから。
「やめないよ。……あのね、全部聞いたよ、ご両親に」
えっ!?
どうして……! あれだけ言ったのに。
「もしさ、僕が逆さシンドロームになったら、桜には何も言わないでほしいんだ」
僕は、こんなことをお母さんたちに言っていた。これは、僕が逆さシンドロームになる三日前のこと。笑っちゃうね、まるで予想していたみたいだ。
自分が逆さシンドロームになるって。
当然両親は猛反対してきた。お母さんもお父さんも、桜と僕に結婚してほしがってた。気が早いよ、なんて笑ってきたけど。
どうしてかな。今、桜に嫌われたら本当に自分は自殺する気がするんだ。
「奏が、私のことを、想ってやってくれたって、分かってるけどね? でも、でも……! 頼って、ほしかったなぁ……」
微かな
けど、今の僕に桜と顔を合わせる権利なんて無い。
「どうでもいい。勝手に傷ついてれば?」
「私ってそんなに頼りないの? 奏にとって私って何だったの? 私の存在ってそんなものなの?」
涙を堪える声で、君は言う。その言葉全てが僕を苦しませる。
あんなことが言いたいんじゃなくてさぁ……!
「君なんて、僕の何にもなれてないよ? 大切な存在になれてるなんて思ってたわけ? 自惚れないでよ。僕は君のことなんてどうでもいい。愛なんて幻だよ?」
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!
「分かってるよ!! これは奏じゃないって! 安心して!? 私は奏の味方だから! 全然……全然辛くなんかないからね!! 奏が傷つく理由は無いの!」
もうやめて。そんなことしないで。僕が辛いんだ。僕は僕が憎いんだ。死にたい。
だから、こんな無様な僕を愛さないでよ!
「君なんて大嫌いだ」
「大丈夫、私は奏が大好きだよ」
思いっきりドアを開ける。
僕を世界から
その先には、涙を流しながら笑ってる桜がいた。今すぐにでも抱きしめたい。
謝りたい。だけどそれはできない。そうしたら、多分僕は後悔するから。
「奏……!?」
「本当は僕なんかどうだっていいんだろ!? でもここで僕を見捨てたら、お前が自分を嫌いになるから、だから僕に構うんだろ? 心にもない言葉でさぁ! そんなんだったら要らない。放っておいてくれない!?
嫌って、嫌って! 僕のことを嫌いになってほしいんだ。
僕のことなんか忘れてさ、もっといい人と幸せになってよ。
僕は、桜を不幸にしたくないんだ。
「君なんてもう要らない、どうぞお元気でさよならもう大嫌い」
桜が目に見えて傷つく。そして、僕を見る。その視線が僕に固定される。桜の顔に驚きが浮かぶ。何で……?
「泣きながらそんなこと言われても……説得力ないよ?」
慌てて顔に手をやる。そこには確かに涙の筋があった。
どうして、こんなに僕は辛い? ものすごく心が痛いんだ。八つ裂きにされているみたいな。
知ってるよ、知ってる。
僕は桜のことが大好きなんだ。
嫌われたくなんてない。桜は僕の生きる意味なんだから。
本当は、こんな僕を愛してほしかった。
本当は、冷たくなった僕の手を暖めてほしかった。
「愛さないで……」
「いつかきっと原因が分かる。治療法だって見つかるよ。その時まで、私は奏のそばにいるからね」
桜はいつも通りの眩しい笑顔で僕を見つめた。
「何で……」
「だってさ、もう決めちゃったんだよね。私は、奏と一緒にいるって」
………は。
「キャー言っちゃったぁ! 私ってば大胆なんだからー」
思わず、笑い声が
「あはははははははは! 君ってバカだなぁ! はははっ!」
ああもう、桜は何でこんなに、善人なんだろう……!
こんな僕でも愛してくれるんだ。女神さまだね。
「バカだと、自分でも思うよ。でもね、考えるまでもないことだった。私が奏のことを好きな気持ちは、逆さシンドロームなんかに負けない」
そう言って、桜は僕のことを抱きしめた。
「逆さシンドロームが何? そんなくだらないもので私たちを裂けるわけないでしょ!?」
そうだね。うん、桜はこういう人だ。こういう人だから、僕は好きになった。ずっと一緒にいたいって思った。いつだって気丈で、陽気で、優しい。
そうやって僕を救ってくれたのが桜なんだから。
「大好きだよ、奏」
「大嫌いだよ、桜」
十年後、逆さシンドロームの治療法が見つかった。
原因も分かったらしい。だけど、そんなのはどうでもいい。
僕らはその知らせを聞いた時に、抱きしめあって喜び、泣いた。
もう苦しまなくていいんだって。やっと桜に言えるんだって。
結婚しよう? fin.
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