第17話~僕の世界は生まれながらに死んでいた~

 術後の経過は良好とは言い難かった。世界の鮮やかさに圧倒されて、僕はそれほど長い時間瞳を開けることが出来なかった。だけどこの目で景色を見ることは彼女と同じものを見ているような気がしたから、僕は少しずつ瞳を開ける時間を長くしていった。


 しばらくしてようやく眩い光に慣れ始めた頃、僕は立体を正しく認識し、この色がなんと呼ばれているかなどといった訓練を重ねていった。赤はこのような色、緑はこのような色、黄色は、そして青色はどういった色なのかようやく知ることが出来た。だけど、いざその色を見たところで正直なところ僕の心は奮い立たなかった。ああ、こういう色なのかと、そう思うだけだった。

 どれくらいの月日かは分からないけれど、それなりに長い時間を病室で過ごした。外に出るにはまだ早いと手術をした病院の先生に言われたからだ。

 毎日似たようなことを繰り返す。病室で毎日を過ごすということはこういうことらしく、彼女がどうしてあれほど外の世界に憧れを抱いていたのか分かった気がした。

 病室のベッドの脇に置かれた一枚の手紙に話しかけるのが僕の寝る前の習慣になったのはいつからだろう。いつか彼女の言葉を読むためだけに日々を過ごした。


 赤、緑、青、白、黒の五つの色を覚え、長方形、立方体、球体、円柱、球、といった立体を覚えていった。

 目から見える物を知って行くことは同時に新地となった僕の内部に少しずつ何かを積み上げていくようなもので、少なからず実感を伴いながら確かな色味を帯びていくような気がしていた。

 手術から目を覚まして初めて訓練に臨む際にこの病院の先生から「今まで培ってきたものはいったん忘れてしまう方が上手くいくかもしれません」と言われたことを思い出すに、確かにその通りなのかもしれないと思った。きっと光を得る前の僕のまま様々なものを目の当たりにしていたらとても受けきれることが出来なかっただろう。


 ともかく、一度すべてなかったことにすることは進むうえで重要になる時もあるらしかった。

 病室とリハビリ室を行き来する生活を繰り返し、それなりに目に見える物がなんという名称で呼ばれているかわかってきたところで僕は元いた場所に帰る許可をこの病院の先生からもらった。


 数週間ぶりに親と再会し一緒に帰郷する。術後、親の顔を始めてみた時にはだいぶ違和感を覚えた物だった。しかし、両親が僕の名前を呼ぶその声色は確かに十数年間傍で聞いてきたものであったから、この二人が確かに僕の両親なのだということが分かった。初めの方こそとまどいはしたけれど、最近になって随分と慣れてきた。しかし、未だに自分の顔を見ることに慣れることは出来なかった。鏡に映る自分の顔を見た時、これが僕なのかという思いは抱いたものの、その先からは言い難い奇妙な感覚に陥ってしまい、未だにその感覚には慣れることが出来なかった。

 決して短くはない期間僕は生まれ育った場所から離れていて、久しぶりに帰ってみると妙な安心感が僕を包み込んでくれる。

 帰郷した初日はおとなしく家に帰って一日を過ごした。自分の部屋に入って目を開けてみる。思い描いていた以上に部屋の様子は閑散としていた。しかしながら、どれも青を基調とした家具が配置されていて、自分の部屋を作る時に僕は青色が好きなのだと母親に話していたことを不意に思い出した。

 陽は暮れて夜を迎える。例え自分の部屋に戻って来たとは言え手紙に話しかける癖はしっかりと僕の中に染み込んでしまったらしく、今日も手紙に他愛もないことを話しかけてこの日はゆっくりと眠りについた。


 次の日。僕は再びこの場所に戻って来た。まだ外の光は刺激が強すぎるから、長時間外を歩くときは盲目であった時と同じようにして歩いている。

 地元に戻って初めに行った場所は滝口先生のいる病院だ。移植手術を行うことが出来る東京の病院を紹介してくれたのは先生であったから、術後の経過報告を含めてまず初めに先生に会いに行った。

 僕の様子が術後前と全く変わらないことから、先生の第一声は「おいおい、本当に見えるようになったのか?」というものだった。僕が「まだ光に慣れていないんですよ」と答えると、「本当か~」と言いながら先生は笑った。こうして先生と話すのは久しぶりだけど、先生の様子が全く変わっていないことに僕は安心した。


 簡単に術後の様子を先生に話し終えると、僕はいつも通り、目が見えるようになる前と何ら変わらないやり取りを先生と交わした。

 まず先生が話題に上げたのは「東京の病院に可愛い子はいなかったのか?」というもので、本当に相変わらずだと少しばかりため息を漏らしつつも、「いませんよ、そんな子は」と僕は答えた。

 目が見えるようになって人っていうのがどんな見た目をしているのか分かっただろうと言われたから、僕は分かりましたと答える。滝口先生がどんな顔をしているのか気になるところだけれど、それはもう少し時間が経ってからにしようと思い、終始僕は目を閉じたまま先生との久しぶりの雑談を楽しんだ。

 最後に僕は、これからは一週間に一回ではなくて一ヶ月に一回くらいの頻度でここに来ますと先生に告げる。すると先生は「まだここに通うつもりなのか? 仕方がないな~」とやれやれといった感じに嫌々と答えてくれたが、きっと先生の顔は笑っているのだろう。そういう声色だった。


 その後僕は病院の中には足を向けた。今日はこれからこの場所で日向さんのお母さんと会う約束をしている。


 中庭に着くと、「萩野君」という声がすぐに聞こえて、僕はその声がした方に向かって「久しぶりです」と答えながら隣に座った。

 季節はもうじき夏だ。ベンチに座ると真上に生える桜の木の木陰に入った。いつかこの桜を見なければならないけれど、初めに目にするのはやはり春の季節だろう。どうせなら一番輝かしい時期に見る方が彼女も喜ぶだろうと思った。


 まず僕は日向さんのお母さんにまだ手紙を読めていないことを話した。ある程度日常生活を送れるくらいには見ることに慣れ始めているが、しかし文字はまだ完全に使いこなせるようになったとは言い難かった。だから、これからは文字を覚えて行こうと僕は思っていた。まずはこの手紙を読むことを目標に、その先はどうしようかだなんてまだ考える必要はない。

 これはある意味で僕にとっては決意表明に等しかった。手術を受ける前にこの場所で日向さんのお母さんと会って話をしていないから、この手紙を僕が心の底から望む一つのものにしたのだということを伝えたかったのだ。少しばかり言葉足らずだったような気がしたけれど、その意をしっかりと汲み取ってくれたのか「なら、もう大丈夫ですよね」と言ってくれた。


 そこからは日向さんのお母さんとしばらく世間話をした。何でも彼女には妹がいたらしく、今年から高校に通い始めているそうだった。日向さんのお母さんは「いつか会って紬のことを話してあげてください。きっと喜びますから」と僕に言った。その言葉を受けて僕は「妹さんは紬さんに似ているのですか?」と尋ねると「ん~……どうでしょう、それはやはり会ってからのお楽しみということにしませんか?」とはぐらかされた。しかし、確かにそれを一つの楽しみとして取っておくのも悪くないと思って、そう遠くないうちに会うことを約束した。


 日向さんのお母さんと別れた後、僕は右手に棒を、左手に彼女の手紙を持ってあの場所へと向かう。病院へと向かうことに何の思いも抱かなかった。久しぶりに先生と話をすることも、日向さんのお母さんと話をすることにも別段恐怖だとか、そう言った感情を抱くことはなかった。


 ゆっくりと歩いていく。病院を出て、あの河原へと進む。


 あの場所に近づくにつれ、次第に聞き慣れた音が聞こえてくる。


 川を流れる水の音、土手の上を歩いている人たちに声、風の吹く音、電車が通る音。その一つ一つが僕の耳に届くと共に、僕はなぜか閉じている瞼の力が強くなってしまった。

 いつもの階段に差し当たる。しかしながら、いつものように上ることが出来ない。

 階段の下で立ち止まる。瞳は閉じたままだ。


 人の中に悲しみを溜めて置ける箱があったとして、その容量は人それぞれ違うものなのだろうか。いつでも笑顔を絶やさずにこの程度よくあることだと前を向ける人の箱は大きく、いつでも目を伏せて泣き続け、後ろを向いてしまう人の箱は小さい。きっとそういうわけではないのだと思う。箱の大きさはみんな平等で、悲しみの大きさが受け手に依存しているのだ。

 箱の種類は何も悲しみだけではない。嬉しさも、虚しさも、愛おしさも、人間らしい感情それぞれにはそれぞれの箱がある。きっとその箱の大きさはみんな同じで、しかしその中に入っている一つ一つは人それぞれで異なっている。

 その箱の中に入っているものが共有されていることは他者との繋がりを示していて、例えその他者がこの世界から消えてしまっても、その人の箱の中にはそれが残り続ける。

 他者との繋がりは目に見える明確な繋がりなのではなく、きっと共有していると言うだけであり、だからこそずっと残り続けてしまう。

 虚しいというラベルが貼られた箱に一つのものが仕舞われたような気がする。少しばかり重みを増した足を無理やり上げて階段を一段上る。


 人はどうして生まれるのかと時々夜寝る前に考えることがある。真っ暗の中、布団の中に入って目を閉じて自分の中に目を向けると、そんなふうに答えのない疑問を頭の中で浮かべてしまうことがある。

生まれなければ決して始まらないのは確かだった。しかしながら、永遠ほどの苦痛は存在しないとも思う。だからこそ僕たちは死を迎えなければならない。終わりがあることを知っているから、僕等は生きることが出来るのだろう。彼女が必死に最後まで生き抜いたように。仮に人は生まれた後永遠の時を生きることが出来る存在であったのなら、彼女はおそらく最後まで人らしく生きることをしなかったと思うし、僕もこれほど思い悩むこともなかったと思う。

 時間ほど恐ろしいものはない。しかし、時間ほど人間にとって必要なものも他にはないのかもしれない。

階段を上り切る。少しばかり空に近づいて、そしていつものように大きく息を吸いこみ、吐いた。

自然と彼女の手紙を握っている手の力が強まる。感情が冷めることはなく、むしろ瞳を開けようと思うたびに熱を増していく。向こうの病院では何も感じなかったはずなのに、どうしてかこの場所に立って同じことをしようとするとどうしようもないほど感情に溺れてしまっていた。

 おそらく、本当の意味でこれからが始まるのは今この瞬間からなのだと思う。あの夏が始まったのはここからだ。

 だから、こんなところで躊躇しているわけにはいかなかった。彼女と一緒に同じ景色を見て行くのだとして、僕たちはまずここから始めて行こうと思う。


 この上ないほど瞼の重みを感じ、ゆっくりと僕はその目を開けた。


「…………」


 真っ白な光の世界が一面に広がった後、少しずつ物の輪郭と色がつき始める。


 正面に見えるものは住宅街だった。川を挟んだ向こう側の土手のさらに奥に広がる様子がまず見て取れる。そこから視線を手前へと運ぶ。土手には緑豊かな草が生えており、また所々に色づいた名も知らない花が咲いていた。川の様子は穏やかであった。太陽の光を反射しながら一方向に止どめもなく流れている。しかしながら、その流れに逆らうような水流も見て取れて、そのような箇所があるのだということを僕は初めて知った。


 草花は僕が思い描いていた以上に色づいていた。草は緑色だと聞いていて、僕は病院で見た緑色と照らし合わせて想像していたけれど、その想像は間違えていたらしい。

 右に視線を運ぶと電車の走る鉄橋が架かっていた。その大きさに僕は驚かされる。人間はこれほどまでに大きなものを作り出すことが出来るのかと本心から思った。


 世界は単色で説明できるほど単純ではなかった。もっと複雑に様々な要素が混ざり合っていた。草は緑色などではない。世界に満ちる色は決して単色などではなかった。


「…………」


 そして、僕は顔を上げた。ずっと見てみたかったものを見上げた。病院にいた時にも見ることは出来たけれど、僕はこの瞬間まで見ないことを決めていた。

 この世界を覆っているだけあり、視界一面にそれが映り込む。終わりなどどこにもなく、広大な青がそこにはあった。

 彼女は青を見ると悲しい気持ちになると言っていたけれど、今の僕にはそれがよくわかる。僕も今、彼女と同じ気持ちになっていた。


 顔を上げたまま、ずっと見つめ続ける。視界が滲もうが、水滴が首筋に流れようが、視線を外すことだけはしない。

 色々なことを思い出す。彼女と出会った時のこと。あの声はまだ僕の中に残り続けている。自然と彼女からの手紙を握っている手の力が強くなる。この場所に来て、彼女の声を聞くことが出来ないこと、彼女らしき姿が見えないことが、これほどまでに虚しくて悲しいものだとは思わなかった。

 この感情の原因は知っている。僕の世界が壊れようと、彼女がまだ僕の中にいるからだ。彼女は僕にとって光そのものだった。一緒にいるだけでいい。話しているということだけで楽しいと思える。ありきたりで人間らしい言葉で言うのであれば、僕は彼女のことが好きだった。きっと、こういう感情のことをそう呼称するのだと思う。

 だけど、そのことに気が付くとさらに辛くなった。


 僕は生まれ変わった。光を得て、新しい世界をこれから築き上げて行く。


 しかし、もうそこには彼女の姿はない。彼女という光はない。今、心は暗闇に満ちている。


 僕の世界は生まれながらに死んでいた。

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僕の世界は生まれながらに死んでいた 青空奏佑 @kanau_aozora

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