第15話~夜明け~
翌日。僕は昨日と同様に学校へは行かずに病院へと足を向けていた。移植の件はあと三日以内にはどうするか判断してくれと言われているのだが、昨日の内に結論を出すことは出来なかった。だから今日はあの場所に行ってゆっくりと考えてみようと思っていた。
今年の夏も着実に終わりを迎えようとしている中、時の流れと言うものを感じつつ目的地に向かって黙々と歩く。
こうして歩いている間にも様々なことが頭の中を過って行くもので、彼女はもういないはずなのにどうしようもなく彼女の声が聞こえてくる。最近になってすべての物事に彼女がまとわりついてくるような気がしていて、本当に容赦なく僕を今居る場所ではない異なった場所へと導こうとしているようであった。
普段なら病院へ向かう途中で河原に行くことはないのだけど、今日は何となく河原を通って行きたかった。いや、何となくと言いながら理由などわかっていて、もしかしたらという根拠もない妄想を頼りにしてしまっている結果なのだろう。僕は彼女とこの場所で出会い、そして彼女は本当に消えた。彼女は現世に落とした影すらも飲み込む輝かしいほどの光に包まれて夜明けとともに旅立ったのだ。だから僕がそんな妄想にとらわれてはいけないと思う。けれど、どうしようもなく僕はこの場所に来てしまった。
子供が水遊びをしているのか数人の幼い声が下の方から聞こえてきた。僕は一度も川遊びをしたことがないから、楽しそうに声を上げているその子供たちがひどく羨ましい。
周りから聞こえてくる幸福の声を、しかし僕は素直に聞き入れることが出来ない。僕は少し早足になって、それこそ逃げるように河原を過ぎて行った。きっと僕は現実から逃げている。この場所に来るのは彼女に会うためだったから、これからここに来るたびに彼女はもういないのだという現実を僕は突きつけられるのだろう。
病院に着くといつものように受付の人が僕に向かって挨拶をしてくれた。僕も出来る限りいつもと同じように取り繕い挨拶を返した。
今日は滝口先生と会う約束はしていない。向かう場所は中庭だ。
中庭に行く途中で売店へと差し当たる。ちょうど自動ドアが開く音がした。思い返してみるに、本当に彼女と出会った場所はここだった。僕は彼女に絵本を取ってあげたのだ。彼女のありがとうという言葉は今でも脳裏に直接響いてくる。おそらく僕が初めて他者から言われた感謝の言葉だったと思う。
そんな彼女がどんな絵本を手に取ろうとしていたのかなど僕にはわからない。その絵本の物語がどのようなもので、その紡がれた物語によってどのような思いを受け取ることが出来るのか僕は知らなかった。
気が付けば僕は売店の前で足を止めていた。思考の谷から救い上げてくれたのは、どこかで聞いたことのある声だった。
「あの、もしかして萩野空さん、ですか?」
正面から聞こえてくるその声は女性のものであった。
「はい、そうですけど」
僕がそう返すと、その女性はどういうわけか「ああよかった。やっと会えました」と口にした。
とても懐かしい声だった。
「あの、どこかでお会いしたことがありましたか?」
「ええ、初めて会ったのはこの場所です」
「この場所、ですか?」
「はい。この場所です。私は日向一美と言います。日向紬の母です」
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「大きくなりましたね。でも、あの頃の面影があります」
日向紬の母親だという女性と共に僕は中庭のベンチに座っていた。ザワザワと桜の葉が奏でる音を聞きながら僕は女性の声に耳を傾ける。
「そうでしょうか」
自身の成長を自覚したことなど今までに一度もなかったから僕にはよくわからない。
「はい。少しずつ大人に近づいているような感じですよ」
「そう、ですか」
「それにしても、本当に萩野君に会えてよかったです。一度お礼を言いたかったので」
「お礼、ですか?」
「はい。お礼です」
彼女の母親からお礼を言われるようなことをした覚えはない。むしろ僕の方こそ感謝の言葉を述べなければならないと思う。こんな僕に体の一部を提供しようと言ってくれているのだから。
それはどれほど感謝しなければいけないことか知っている。しかし僕はその暖かな思いを素直に受け取ることを躊躇ってしまっている。だからお礼を言われるほどのことを僕はしていないし、むしろ僕が謝らなければならないはずだろう。
「お礼を言われることなんて何一つしていませんよ。その、むしろ僕の方が感謝するべきで、それで謝らなければいけないと思うんです」
僕がそう言うと日向さんのお母さんは「移植の話、まだ迷っているんですか?」と僕の核心をついてくる。僕は黙って顔を縦に振った。
「迷うのも仕方がないと思いますよ。急にこんな話を振られて、冷静でいられる方が余程人間らしいとは言えないと思います。それに、迷ってくださっているというのはそれだけ真剣に考えてくださっているということです。ありがたい話だと私は思いますよ」
そういう日向さんのお母さんの声は今まで僕の聞いたどの声よりも思いやりに満ちているような気がした。その言葉を聞いて、僕の内面に潜む重みが軽くなる。
「その手術の話と一緒に、お礼をしたいという意味も含めて少し話をさせてください」
そして、僕の知らない日向紬の昔話が語られ始めた。
始まりは彼女がこの病院から別の病院に移動した時にまで遡った。やはり彼女はあの時僕の予想通り別の病院に移動したらしかった。移動先は都会の大きい病院で、それほどまでに彼女の抱えていた病が大きなものだったのだということを再認識した。
彼女がそれほどまでに苦しんでいたのに、その頃の僕は彼女に裏切られたのだと見当違いも甚だしい見解をしていたと思うと情けなくて仕方がなくなった。
簡潔に述べるのなら、結局彼女の病は治ることなく彼女は生きながらに死ぬ状態へと至るまでずっと病室で孤独と戦っていた。
薬の副作用で何度も吐いて、何度も涙を浮かべ、髪の毛がすべて抜けようと、毎晩激痛に襲われて夢と現実を行き来しようと、それでも彼女はゼロではない可能性を信じて笑っていたのだそうだ。
その様子は心を痛めるには充分すぎたと日向さんのお母さんは語る。
こうして語られただけでもこれほどまでに居た堪れない気持ちになるのだから、その様子を直視した日向さんのお母さんの心情は計り知れなかった。
そんな過酷な現実と向き合っていた彼女の気持ちはどのようなものだったのだろうか。ずっと病室と言う閉ざされた世界で苦痛と向き合う日々はどのようなものだったのだろう。そして、どうして彼女はそのような世界に生きながらも笑っていられたのだろうか。
「紬は、ずっとあなたのことを話していました」
日向さんのお母さんの言う話によると、僕のことを話す時は決まって笑っていたそうだ。たった数日間で交わした言葉を、彼女は何度も何度も話していたらしい。内容なんて僕は忘れてしまっている。それほど些細な会話だったのに彼女はその時のやり取りを思い出していた。
いつか一緒に桜を見ようだとか、一緒に図書館に行ってみようだとか、そういうやり取りをしていたらしい。どれもこれも未来を夢見た些細な願い事ばかりだった。
「萩野君にとってはたった数日のことで今となっては忘れてしまっている話なのかもしれません。ですが、娘にとっては後にも先にも誰かと楽しく話すことの出来た最後の数日間でした。娘を支えてくれたのはあなたです。本当に、ありがとうございます」
忘れたことなんてない。あれから今まで心のどこかに彼女がいた。いつかまた会えることを望んでいた。ただ、僕はつまらない理由をつけて忘れたいと思ってしまったことも何度かあって、それがひどく悔やまれた。どうしようもなくて、この気持ちをなんと呼べばいいのか分からない。目が熱くなって、眉間に力が入って、胸が苦しくなる。
「娘もわかっていたのだと思います。もう外に出ることが出来ないことを、何より日に日に衰えて行く自分の体から確信していたのだと思います。私の目からも明らかに娘の体は弱っていきました。時折力なく笑う顔が、今でも忘れられません」
それは彼女が寝たきりになってしまう数日前のこと。彼女は母親に最後のお願いを言ったのだそうだ。
一つ、死ぬ前にもう一度あの場所に戻りたいこと。
一つ、死んでしまったのなら、この目を彼に提供し、また誰が提供したのかも伝えること。
一つ、手紙を渡すこと。
あの場所というのは今僕がいる場所のこと。彼と言うのは僕のこと。
「手紙、というのは?」
「これです。どうか、受け取ってください」
僕の片手が温かいものに触れる。その後、静かに一枚の紙が僕の掌の上に置かれたのが分かった。
「娘が眠る数日前に書かれたものです。私はこの手紙を読んでいません。これは娘からあなたに宛てられたものですから」
「でも、この手紙は……」
手紙を渡されても、僕には読むことが出来ない。
「萩野君、移植の話ですが、別に断ってもらっても構いません」
「…………どうして、ですか?」
「きっと、あなたが光を得たのなら娘の分まで生きなければならないと、なによりあなた自身が思ってしまうと思うからです。それはあなたにとってこれから生きる上で負担にしか成り得ない物だと思います」
確かに僕はそう思うだろう。否、そう思わなければならないのだと思う。かつて生きていた人のおかげで僕は光を得るのだから、むしろそう思うことが責務でもある。
「それは、当然のことではないのですか?」
「はい。きっとそうなのだと思います。私も萩野君と同じ立場になったのなら同じことを思うはずです。ですが、もうこの世にはいない誰かのことを抱えながらこの世の中を生きて行くことは少しばかり辛いものであると思います。たった一人、自分自身のことを考えるだけでも大変なのに、決して手助けをしてくれない人までも抱え込むのは、本当に大変なことなのだと思うのです。もちろん、心の底から感謝していただけるのなら娘にとっても報われる話ですし、娘もそれを望んでいるでしょう。ですがそのことであなたに負担をかけたくないとも思っているはずです」
もっともな話だと思った。彼女はもう人に迷惑はかけたくないと言っていたし、一方で誰かの役に立ちたいとも話していた。そんなことを心の底から願っていた彼女なら、きっとそう言うのだろう。
だけど、僕はそれでも彼女のことを忘れることは出来ないと思う。ずっと僕は彼女のことを抱えて生きて行くことになるのだろう。彼女がそれを望んでいないのだとしても、僕はきっとそうする。
「萩野君、答えたくなければいいのですが、どうして迷っているのですか?」
その質問に対して僕は「臆病者だからです」と答える。僕は単純に、今まで知らなかったものを知り、見えなかったものを直視することを恐れているだけだ。端的に言うのであれば、僕は変化することを怖がっていた。
「要するに、変わることが怖いと、そう言うことですか」
「はい。そういうことなのだと思います」
色々なものをそぎ落とし、最後に残ったものを一言で言い表すとしたらそのように表現するのが適している。
「そうですか。ですが萩野君、それはみんなも怖いものだと思いますよ」
「そう、なんですか?」
「はい。私も娘が変化してしまうことに恐怖の念を抱きましたし、知っていた場所などがいつの間にか無くなっていたりすると怖いと思うことがあります」
日向さんのお母さんは、変化することは避けようのない運命のようなものなのだと言う。僕たちはどうしようもないほど無慈悲な時間という存在に抗うことなど出来ない。時の流れに変化は付きもので、僕たちは変化に対する恐怖から度々時間を止めてほしいと願い、変わる前へと帰りたいと思えば時間を遡りたいと思ってしまう。しかしそんなことなど起こるはずもなく、だからこそ僕たちはこの変化というものとうまく付き合っていかなければならないと、日向さんのお母さんは語った。
「私も日に日に衰弱していく娘を見ながら、何度も時間を止めてほしい、娘を生む前の時間に戻りたいと思いました。娘が遠くない未来にいなくなってしまうという変化が怖くて仕方がなかったんです」
そして今、娘は本当にいなくなってしまいました。と続ける。
「よく死んでしまってもその人は関わり合った人の中で生き続けるなんて言われていますけど、あれ、正直私は信じていませんでした。綺麗に飾られた言葉でしかないと思っていました。だって本当に好きな人なら、一緒にいたいと思える人ならば、その思い通り一緒にいるのが一番いいことに決まっていると思っていたからです。ですけど、いざそういった場面に立ち会ってみると使い古された言葉も存外間違いではないのかもしれないと、そう思わなくもありません」
手で触れることは出来ないが心が触れ合っている。一方通行でしかないそんな思いも慰めくらいにはなるのだと言う。
「仮に時間を巻き戻しますかと言われたとして、おそらく私は巻き戻しませんと答えるでしょう。例え巻き戻すことで健康な娘と今この瞬間にも一緒にいることが出来たとしても、巻き戻さないと言います。だって、病気と闘った娘も確かに私の娘で、時間を巻き戻すことはそんな娘を否定することを意味してしまいます。娘が短いながらも懸命に生きて来たという事実は確かです。もう娘はいません。だからこそ、誰かが存在していたことを覚えていなければならない。先ほども言った通り、それはとても辛いことです。きっとこの先どうしようもなく娘に触れたくなる時が来ると思います。記憶だけでは物足りなくなる時が来ると思います。ですが、やはり萩野君が言っていた通り、そうしなければならないのだと思います。なんて、私も娘に怒られてしまうかもしれませんね」
そうしなければならないという根拠などない。ただ、そうしなければならないのだと自然に思ってしまう。理由なんていくらでも上げることが出来るだろうが、きっとそれは無粋な行いであり、誰かと触れ合った時に得られる幸福と呼ばれる感情の出どころを探す行為と同じものなのだろう。理屈など必要なかった。
「日向紬さんは、どうしてそれほどまでに諦めることをせず生きてこられたのでしょうか」
自分自身がいなくなるというこれほどにもない変化を自覚していた彼女の恐怖は、きっと僕が経験してきた恐怖とは比べ物にならないほどのものだろう。しかしそれでも彼女はその感情と向き合い笑って過ごしていた。その強さはいったいどこから来ていたのだろうか。
「きっと、それはあなたからだと思います」
「僕、ですか?」
「はい。最初に話しましたが、本当に娘はあなたのことを楽しそうに話していましたし、あなたと外の街を歩くことを望んでいました。娘はずっとそんな明るい未来を想像していました。ありきたりな言葉で言うのなら、あなたが娘の希望になっていて、その希望が娘を奮い立たせてくれていたのだと思います」
「そう、ですか」
「未来のことを考えると怖くなるのは事実です。変わることが怖いのも仕方がない。ただ、もしかしたら娘のように心の底から望むものを一つでも持っていれば何とかなるのかもしれません。怖さすら忘れ、掴み取りたいと思えるもの。それは目に見える物でも見えない物でも構わない。生きて行くことは複雑そうに見えて根はそんな風に単純なのかもしれません」
何か一つ見つける。思い返してみると、僕は目が見えたらやってみたいことを抱えすぎたのかもしれない。
「と、少しばかり長く話し込んでしまいました。萩野君の方はお時間の方大丈夫でしたか?」
「えっと、ええ、大丈夫です」
「そうですか。本当、こうして改めてお話することが出来て良かったです」
「いえ、僕の方こそ、こうして話すことが出来て良かったです」
「本当ですか? そう言っていただけると嬉しい限りです。それに手紙も渡せましたし、これでようやく私もあの子のささやかなお願い事を叶えてあげることが出来ました」
日向さんのお母さんはそう言った後、僕の手の平を握ってくれた。久しぶりに触れる人の温もりだった。
「最後に、こんなことを言ってしまっては萩野君を困らせてしまうだけになってしまうかもしれませんが、どうかこれからも定期的に私とお話をしていただけないでしょうか? 一年に一度でも、三年に一度でも構いません」
「はい。構いませんよ。むしろ僕からお願いしたいくらいです」
こんな風に話をすることが出来るのなら、僕も嬉しい限りだった。
それから僕は、日向さんのお母さんと感謝の言葉を交わして別れた。別れ際にあなたの今後の成長を娘と共に楽しみにしていますと言ってくれた。こんな僕が誰かの支えになることが出来る事を願わずにはいられなかった。
「…………」
日向さんのお母さんがいなくなった中庭には僕一人が取り残される。しかし、どうしてか寂しさだとか、そういう気持ちは湧いてこなかった。
僕の手の中には彼女の生きた証がある。
たった一つ、生きて行く為に支えとなるものを作ること。光を得たその先に望むことは沢山あるが、その中でたった一つを決められたような気がする。
決まった瞬間、僕の行く末に小さな光が灯ったような気がした。
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