夜明けの兆し
第13話~日向紬~
「紬さん!」
大声で彼女の名前を呼ぼうと、その悲痛の塊のような叫びは誰にも届かなかった。喉が枯れるほど叫んだ。唐突に消えるなんてありえないと思ったから、眠気すらも忘れて街中を彼女を求めて歩き回った。
途中で何度か転んだ。陽もだいぶ昇って来たらしく街に人が増え始めた。ある人はボロボロであろう僕の姿を見て心配しているような声をかけてくれた。一方で怪訝な声を上げている人もいた。そういった人の視線が刺さっているのも自覚することが出来た。だけど僕は彼女の名前を叫ぶことをやめなかった。
今まで確かに感じることの出来ていた彼女の存在が唐突に消えたのだ。そんなことはあり得ない。なにより信じたくはなかった。
これからだと思った。昔、彼女が僕の目の前から今のように消えてしまったのは彼女なりの理由があったのだと思う。でもこうしてまた会えたのだから、止まっていた何かを進めるのはこれからなのだとそう思い始めていた。
それなのに、どうしてこうもうまくいってくれないのだろうか。生まれながらに酷な現実を背負わせられたのだから、一つくらい僕の言うことを聞いてほしいと本当に思った。だけど、その思いをどこにぶつければいいのか分からなくて、結局それを彼女の名前に込めて叫ぶことしかできない。
心の中が空っぽになるほど叫んで、何も無くなってしまった頃に僕は河原へとやってきていた。いつも通りの様子だ。聞こえてくる音や優しく頬を撫でてくれる風、伝わって来る雰囲気は何も変わっていない。それなのに、そこには僕の求めているものなどなかった。
失ったのだと、そう思った。日常へと帰って来た僕は、かつてあったものが消えていることを否応なく知らされる。
泣いた。我慢が出来なくなった。理由なんてよくわからなかった。ただ、今までやって来たことのすべてが、積み上げてきたものすべてが崩れ去ったような気がした。
いつかこんな風になる日が来るのだと想像していたけれど、それはあまりにも耐えがたいものだった。一人でいることがどうしようもなく辛かった。
彼女の名前を口に出したつもりだった。でも、もう喉はつぶれていて声すら出なかった。我ながらなんて弱々しいのだろうと思った。
それからの記憶はない。どうやって歩いて来たのかもわからないが、気が付けば僕は自分の家の自室のベッドの上にいた。やはり心と体は別々のものであるらしいと思った。
声を出さずに涙だけを流して現実と夢の狭間を行き来した。
今が昼なのか夜なのかもわからなかった。僕の世界はずっと暗闇に染まったままだ。
母親の声がした。心配そうな声だった。そんな調子の声で、「あなたに電話が来た」と僕に告げてきた。
心が消えて空っぽになった僕の体は機械のように命令に従った。無意識に僕は受話器を取った。
相手は滝口先生だった。
そして受話器越しの声は僕に、
「移植手術を受けてみる気はないかい?」
と、そう告げたのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「こんにちは、元気にしていたか?」
月曜日。滝口先生からの電話を受けた翌日、僕は学校を休んで病院に足を運んでいた。もともと学校に行く気分になどなれなかったから、先生からの呼び出しは結果的に僕を救うことになった。
「まあ、ぼちぼちです」
僕は先生に嘘をついた。到底元気があるとは言えない。
昨日は一晩中ベッドの上で泣いていて、何も出てこなくなったところで唐突に頭の中から一切の悲しみが消え失せた。悲しむことさえ疲れてしまったのだと思う。ただ、その代わりに僕はもう一度自分自身に目を向けることが出来た。
きっと僕は知らないうちに日向さん、昔出会った女の子を支えにしていたのだと思う。どうしていなくなってしまったのか、その答えを探すことさえ支えにしていたのだと思う。きっとまたどこかで出会えることを期待していたのだ。彼女は別の病院へ移動してしまったのだと予想していて、いつか元気になった彼女と再び会うことが出来るのではないのかと僕は考えていた。そして、最近まで結果的に僕はまた会うことが出来ていたのだ。
無意識のうちに僕の世界の支えとしていた彼女と会えた。いささか気恥ずかしい話ではあるが、僕の世界に太陽があったのだとして、きっとそれは彼女で出来ていたのだと思う。
だから止まっていた何かがもう一度動き出すような予感がしていたのだと思う。病院の中庭、星空の元、彼女と話したあの瞬間、確かに僕はそう思った。
だけど消えたのだ。僕の世界から光が消えた。
現実のみならず、僕の内側の世界にもとうとう夜が訪れた。
「空君、立っていないで座ったらどうなの?」
「ああ、はい。すいません」
僕は先生に言われた通り先生の正面に置かれた椅子に座る。
「で、昨日の電話の件なんだが……」
移植の話。こう言った話は以前にも先生から聞いたことがある。僕の場合、他人からの提供、つまりドナーさえいれば、視力が手に入る可能性があるらしかった。
詳しい話はよくわからない。いささか僕には難しい話であって、僕はかなり珍しいケースの先天性視覚障害者らしい。ともかく、僕の把握している事実は、僕は生まれつき色や景色を見ることが出来ないことと、移植によってそれらを視覚することが出来るようになる可能性があるということだけだ。
普段僕は目を閉じているわけだけどこれには理由がある。色や景色を見ることは出来ないにしても、光の加減は何となくわかるのだ。ただそのことが僕には煩わしくてしょうがなかった。いっそのこと真っ暗であるほうが良かった。光はかろうじてわかるなど、中途半端に僕の見ることの出来ない世界をチラつかせているだけであり、それが嫌だった。
僕の世界に光は少なからず届いているのだがその先を見ることが出来ない。その先を見ることが出来ないのなら、光を感じ取ることが出来るというのは僕にとって邪魔なだけであった。だから僕は目を閉じた。その光を感じ取りたくはないから、自分の意志で目を閉じている。
移植の話に戻るけれど、以前にもこう言った話を聞いたことがあるということは、つまり僕はその昔、移植の話を断っているということだ。可能性はあるが必ずしも見えるようになるとはならないというのが先生の話であり、簡単に言えば僕は怖がっていた。
例えば僕が移植手術を受けたとして、それでもなお視力を得ることが出来なかったとしたら、それこそ可能性が消え失せる。それが怖かったし、何より色付いた世界を見ることに怖じ気づいていた。今まで日向さんに話してきた通り僕はもう一度この目を開ける自信はなかった。
だから今回もこの話は断ろうと思っていた。今日この場所に来たのは学校に行くよりも早く自分の部屋に帰ることが出来ると思ったからだ。
「移植の件、自分の目を君に提供したいと言っていた子がいてね」
「僕に?」
「そう。ここからは少しばかり話をするよ。その子について君に話してもいいと親御さんからも了承を得ているから、とにかく聞いてくれ」
いつにもなく先生の声が強張っていた。
「は、はい」
それから語られた話は到底僕には信じられない話であった。
そもそも僕に提供したいと話していた子はこの病院に入院していた女の子なのだそうだ。その女の子はちょうど僕と同い年くらいで、二年前くらいにこちらに入院したという話だった。
「ただね、その子、ここに来た時にはすでに植物状態だったんだよ」
「植物状態、ですか?」
先生の話によるとその女の子は元々別の病院で長らく治療を受けて来たらしい。しかしながら、その二年前に植物状態となってしまったらしく、そこからその女の子の希望でこの病院にやって来たのだそうだ。
「希望で、というのはどういうことですか?」
僕の心の中にほんの少し波が立ち始める。
「実はね、その女の子、もともとこの辺りで生まれた子なんだよ。だいぶ昔の話なんだけど、昔その子がこの病院に入院していた時もあった」
「それって、どれくらい前のことですか?」
「十年くらい前じゃなかったかな~」
「十年、ですか」
僕の頭の中で浮かび始めた妄想にも取れる考えが色を帯び始める。
「もしかしたら、昔空君もその子に会っているかもしれないな」
先生の言う通り、もしかしたら僕はその子と十年前に出会っているのかもしれない。
「確か名前は……」
日向紬さん。
先生は、確かにその名前を口にしたのだった。
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