第12話~いつつめ(その2)~
日向さんがあの時の女の子であったのだとして、僕等が目指すべき場所はやはりあそこだと思う。
日向さんが「かがんでください」と言うものだから、僕は言う通りにかがんで進んでいく。周りから一切の音が消える。先ほどまで聞こえていた夜風の音や虫の鳴き声だとかが聞こえなくなったから、おそらくここは屋内だ。
それから早歩きになって進んでいく。時々立ち止まって何かから身を隠す。
すぐそばに日向さんがいるのだと思うけれど、どういう訳か彼女の息遣いだとか、そういったものが聞こえてこない。それほど慎重にならなければいけないのかと思い、僕は身を隠している間できる限り呼吸を止めていた。目が見えない分、人よりも周りの様子を感覚的に捉えることが出来るから、すぐそばを誰かが歩いていくのが分かる。コツコツという音が一定の間隔で聞こえてくる。
その音が大きくなるにつれて僕の心臓が内側で暴れ出す。すぐ横を誰かが通り去ったところで極大を迎え、コツコツという音が小さくなるにつれて心臓も落ち着きを取り戻していった。
そんなことを二、三回繰り返しながら僕は日向さんの後を追う。
ふと、正面から夜の少しばかり湿った匂いを含む風が流れ込んでくる。おそらくあの風が吹く場所が僕たちの目的地だろう。そんな予感は的中し、日向さんはそんな風が流れてくる方へと向かって行った。
「ここです」
「ん」
屋内から外へと出る。河原からこの場所まで来るのにそれなりの時間が経ったらしく、外に出るとほんの少し肌寒かった。
「萩野君、ここがどこだかわかりますか?」
先ほどまでいた建物がいったい何だったのか僕はおおよそ予測が出来ていた。夜とはいえ染み込んだ匂いが変わることはない。
そしてこの場所。夜風が空へと向かって流れていて葉が擦れる音が聞こえてくる。たった一本の大木が奏でる音は僕の心を落ち着かせる。
僕の予想が当たっているのなら、この木の正体は桜の木だ。
「日向さん、正面に木があるみたいだけれど、この木は桜の木で合っているのかな?」
「はい。合っています」
「じゃあ、その木の周りを囲むようにベンチがあったりする?」
「はい。あります」
「そう、わかったよ」
ここがどこなのかも、先ほどまで歩いていた場所がどんな建物の中だったのかも。そして何より、君が誰なのかも分かった。
「久しぶり、と言った方がいいのかな?」
「……はい。それで合っていると思います」
直接言葉に出して確認するまでもなく、僕は日向さんがあの時この場所で星の瞬きのような短い時間を共有した女の子であることを確信した。
ただ、そうなると途端に僕は日向さんに尋ねたいことが山ほど浮かんでくる。どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、どうして河原で出会った時、私はあの時の私であると言ってくれなかったのか。そういった疑問が浮かび上がって来る。
しかし、僕がそういったことを日向さんに尋ねる前に彼女は僕よりも先に次の行動に出た。
「とにかく、座りましょうか」
あの時と同じように僕は日向さんの隣に座る。時があの頃に戻ったような感覚さえしてきて、報われたような、色々な感情が混ざり合っていく。ただ決してそれらは絵具のようにある一色へと変化せず、それぞれがそのまま色を残していた。
「先ほどの話の続き、しましょうか?」
日向さんの言う先ほどの話というのは、どうして僕が目を開けることが出来るか自信がないと思うのかその理由を言い当てるというものだろう。
「萩野君? あなたはきっと、あなた自身の心の中で思い描いてきた世界が現実のものとかけ離れていた場合、それを知ることが怖いのでしょう?」
日向さんは僕の中の奥底に眠る恐怖の種の正体を見事に言い当てる。
「目が見えないなりにも大切に育て上げた世界を、憧れ続けていた世界を、なにより現実のそれ自体に裏切られることがひどく怖いのでしょう?」
その通りだった。今日の昼、僕が日向さんに話した三つの出来事。それを経験してしまったから僕は裏切られることへの怖さを知ってしまった。後ろから唐突に突き飛ばされて、深い谷底へと落とされ、落とされた後はさらに混濁とした河の激流に飲まれ、どことも知らない場所に流れ着くような怖さだ。そして、知らない場所から再び少しずつ積み上げて行く。おそらく僕が再び光を得たのなら、今まで経験したどれよりも深い谷に落とされるだろうし、息をすることさえままならない濁流に飲み込まれるだろう。行き着く場所は知っているのに知らない場所で、そこからもう一度積み上げて行くことは壮絶な所行であると容易に想像できた。
「日向さんは、どう思う?」
「なにが、でしょうか?」
「日向さんが今見ているものって、どんな感じなのかな?」
突き詰めればそこだった。決して見ることの世界はどのような姿をしているのか、そのことを知る勇気が僕には無い。
自分の顔に触れる。顔の真ん中に出っ張りがあって、それが鼻だ。それから上にいくと少しばかり肌とは感触の異なる部位に触れる。それは二つあって、目と呼ぶ。僕の目はいつまでも閉じられている。反対に下の方へと手を這わせると口がある。あとは耳があって、頭は髪の毛でおおわれている。
手で確認することが出来るものは限りなく現実に近いものを想像することは出来る。だけど、その答え合わせをするのには勇気が必要だった。
僕の問いかけに日向さんは答えてくれない。代わりに日向さんの昔ばなしが始まった。
「萩野君の気持ちが分からないわけではないんですよ」
曰く、病室から見える景色はとても輝いていて、憧れの場所であった。しかし彼女は病室という閉ざされた世界から飛び出すことを許されてはいなかった。
時間というものはひどく残酷で思いやりのないもので、彼女にとって一時間という時の長さがとてつもなく長いものの様に感じられていたらしい。彼女は常に本を読んでいたそうだ。外には出られない彼女にとって、本と言うものは唯一外の世界と触れることの出来る場所であったらしい。その中で紡がれる物語を彼女は思い描いていた。たとえ現実ではありえない空想上の物語だろうと、彼女にとってはそれが病室の外で繰り広げられている日常であると思えたらしい。
ある本では男の子が空を自由に飛んでいたらしい。またある本では猫が人間の言葉を使って女の子に話しかけていたようだ。
そんなことなどありえない。だけど、彼女はそれでいいのだという。この話について僕は日向さんが伝えたいその真意をうまく理解することが出来なかった。ただ、頭の中で外の世界を空想していたという事実がどのようなものなのかだけは僕にもはっきり分かった。それは僕も同じだった。
「そして私は、思い描いていたことを実際に萩野君にしてもらいました」
「思い描いていたこと?」
「はい」
病室からいつも見ていた丘の上から見える景色を彼女は思い描いていた。いつの日か読んだ本に登場した大図書館を思い描いていた。友情から始まる物語に出くわした時、友達が出来たらどのような話をするのか思い描いていた。
「丘の上から見た景色は、その、ありきたりな表現になっちゃうけど、本当に綺麗でした。街の図書館は思い描いていたものよりも小さかったけど、本当に本がたくさんあって感動しました。友達が出来たらどんな話をするのだろうって思っていたけど、その時に考えていた話は何一つできなかった。でも、とても楽しかったです」
友達を作ってみたいと思い描いていて、それが現実のものとなった。
河原で待っている時間は長く感じられたけれど、病室のそれとは比べ物にならないほど胸が躍った。
「そして」
そして、日向さんは小さく恋とはこういう気持ちのことを言うのかと呟いた。
恋愛物の物語を読むたびに誰かを思うとはどのような気持になることなのだろうかと彼女は思い描いていた。その答えは、彼女にとってあの河原でその人を待っている時間そのものであった。
僕は唐突の告白に動揺してしまう。何とも単純な話だが、急激に体が火照る。
僕は誰かからこういった好意を向けられたことがなかったから、どう返事をすればいいのか迷ってしまう。その様子が露骨なまでに表情に出ていそうで、日向さんもあわわわと随分恥ずかしそうな声を上げていた。
「す、すいません。急に変なこと、言ってしまいました」
「ああいや、うん。大丈夫」
ただ、その好意を僕に向けてくれることを素直に嬉しく思えた。恋だとか、そういった感情を僕は知らないけれど、少なくとも今まで彼女と会って話をしたり、どこかへ一緒に行ったりすることは嫌ではなかった。
それから僕たちはこの場所であの時の様に何気ない会話を交わした。
今まで僕がどんな風に過ごしてきたか。まだ日向さんに話していない出来事を話した。
あの時この場所で止まっていた時を進めるように、空いた穴を少しずつ埋めていくように僕は語った。
目が見えないことで感じた苦痛や世間の姿を語った。改めて振り返ってみるに、僕の中にあるほとんどの話には悲しみが含まれていた。僕は本当に一人だった。
小学校に通い始めても僕は誰かと深い繋がりを持つことは出来なかった。毎日の休み時間も、給食も、掃除の時間も、体育の時間も、他の授業の時間も、遠足に行った時や修学旅行に行った時も、僕は一人きりだった。
その話をしたとき、日向さんは「寂しかったんだね」と言ってくれた。本当にそうだった。今まで色々と考えて来たけれど、結局僕は寂しがりやで臆病なだけだ。目が見えないといえ、僕のように塞ぎ込むこともなく、周りの人と繋がりを築くことが出来ている人だっているはずなのだ。
友達を作りたいと思ったのは誰かと話がしたかったからだ。誰かと話がしたかったのは寂しかったからだ。寂しくても、しかし決して誰かと繋がりを得なかったのは僕が臆病者だったからだ。
憧れる世界をいつしか恐怖の対象として捉えはじめたのも、世界を見ることが出来るようになったとして、それでもしっかりと目を開けることが出来るか自信が無いのも、僕が臆病者だからだ。
それからも僕は語った。今に至るまで何を感じてきたのかを日向さんに話した。日向さんは僕の話すことすべてに優しく返事をしてくれた。
どれくらいの時間、そんなやり取りを繰り返していたのか分からない。ただ、それなりの時間をかけて僕は僕の中に燻っていたすべてを今この場所で吐き出していた。
そして最後に残ったものが、自然とこぼれ出る。
「日向さん、どうして黙っていなくなっちゃったの?」
僕は自然と彼女に尋ねていた。その言葉を発した途端、今まで止まっていた何か急速に動き始めたような気がした。
日向さんは僕の質問に答えてはくれない。
「萩野君と昔ここで話せたこと、本当に嬉しかった。ずっと一人ぼっちで病室にいたから、本当に嬉しかった。あなたと話せたこと、本当に、毎日が楽しくなったんです」
だったらどうしてと僕は言いそうになったけれど、実際にその言葉が日向さんへ伝わることはなかった。
日向さんの声が震えていたから。鼻をすする音が聞こえたから。
「友達なんて、一生出来ないって、思っていました。だけど、あなたはこうして、私と話をしてくれました。本当はあの時、会えなかった時、友達になってくださいって言おうと、思っていたんです。でも、できませんでした。だけど今、こうしてまた、こんな私と話をしてくれました。友達に、生まれて初めての友達になってくれました」
そして日向さんは「だから、本当にごめんなさい」という言葉を口にする。
「ずっと謝りたかったんです。何も言わずに去らなくてはならなくなったことを。本当、ごめんなさい」
涙声になりながらそう言われてしまい、僕は言葉を見失ってしまった。こういう時、いったいどういう言葉をかけてあげればいいのか僕には分からなかった。僕は今まで他の人とあまりにも関わりを持ってこなかった。
「最後に、こうしてここでもう一度、お話出来てよかった」
「……最後?」
彼女は立ち上がる。見えはしないが、もうすぐ夜が明けるような気がした。
朝日を背に僕の正面に立つ彼女が、僕の中にはあった。
「萩野君、ううん。空君。きっと、あなたは大丈夫。怖がることなんてないと思う。私がそうだった。あなたに教えてもらった。外の世界は楽しいって、誰かとお話することは楽しいって、あなたに教えてもらった。だから、そんなあなたが怖がる必要なんてないんだよ」
「でもさ、怖いんだよ。どうしようもなく怖いんだ」
「私も怖かった。すべてが無くなっていくことを自覚するのが怖かった。あまり長く一緒にいることが出来ないのに、誰かを思ってしまうことが怖かった。だけど、だけどね、今ではとてもよかったって、そう思えるよ。この場所で何も言わずお別れしちゃって、それからずっと苦しかったけど、でもあなたはずっと私の中にいて、支えてくれた。いつかまた話がしたいって、それが支えになっていた。今こうしてまたあなたと話せて、それだけで生まれてきてよかったって、そう思えるよ」
日向さんの声は、朝日が昇ると共にその震えを増していく。
「あの時は、ごめんなさい。だけど、本当に、今までありがとう。話しかけてくれて、本当に、私は救われ、ました……」
「今までって、どういうことなの? また、君はどこかに行ってしまうの?」
「……ううん。きっと大丈夫だよ。あなたが積み上げてきた世界に私はずっといる。たとえ新しい世界があなたを傷つけようと、ずっと私はあなたの傍にいる。だから、もう怖がる必要なんてない。私ももう、怖くない。こんなにも、満ち足りて、いるんだから」
日向さんは、紬さんは「ありがとう」を繰り返す。震えながら繰り返した。
真夜中の冷たさを、朝日が優しく暖めてくれる。
「もっと、もっとあなたと話がしたかった。もっと、あなたと一緒に歩いてみたかった。桜を見たかった」
「したかったって、どうしてそんな言い方をするの? これからすればいいんじゃないの?」
「……もう、私には時間がないの。やりたいことなんて、あげれば切りが無いの。だから、そんな風に思えるようになれただけで私は幸せだよ。今まで、本当に幸せだったって、最期に言えるよ」
「最期って、どういうこと?」
もうじき夜が明ける。僕にはそれが分かった。だけど、それと同時にかけがえのないものが失われてしまうような気がした。
怖いだとか、そういう感情じゃない。もっと別の、単純ではなくて入り乱れた思いが湧き上がって来る。こらえきれなくて、立ち上がって、どうしてか光を忘れた目が熱くなった。
「誰かの役に立つことができそうで、本当によかったよ。だから、空君は生きて。新しい世界で、生きて」
「つ、つむぎ、さん?」
「あなたに会えて、私の世界は鮮やかになったよ」
朝日が昇る。
「そんな顔しないで、すぐに会えるから。だから、泣かなくていいんだよ」
光が射す。
「生まれてきてよかった。あなたに会えて、よかった。」
日向さんの笑い声が聞こえる。優しくて、昔聞いたことのある声。
そんな声が、消えて行く。
「つむぎさん!」
手を伸ばす。だけど、そこにいるはずの彼女を僕はとらえられなかった。
彼女の存在が、唐突に、あの時の様に僕の傍から消えたのだった。
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