第11話~いつつめ(その1)~

 僕は生まれて初めて夜の世界に足を踏み入れた。太陽が沈み、暗闇が覆う世界。両親に黙って家を出て行くのはこれが初めてのことで少し胸がざわついたが、しかし外に出た途端それも頭を隠す。

 昼間とは違い直接的な暑さは無い。ただ、昼間に猛威を振るっていた太陽の面影は残っていて、その分時折吹く夜風が各段心地の良いものに感じた。


 見えはしないが夜空へと目を向けるために顔を上げる。今僕の目の先には星空というものが広がっているはずだ。暗闇を照らす無数の光がそこにはある。

 星の光は何百年も前のものであると父親から聞いた。だから今僕の頭上で輝いているそれらは遥か昔の輝きだ。永遠に等しい距離にあるそれらが今この瞬間に消滅しようとも僕は決してその最後を見届けることは出来ないだろう。いや、もしかしたらすでに消滅してしまっているものがあって、今輝いているものは存在していたことを示す輝きであるという可能性もある。

 どちらにせよ、そういうことを考えていると僕は星々がとても魅力的なもののように感じる。やはり僕は自然と光というもの自体に並々ならぬ思いを寄せているようで、暗闇を照らす小さな光という存在がとても美しいもののように感じる。


 夜特有の空気。ここで言う空気は大気だとかそういう意味での空気でなくて、人と人との間で流れる空気だとか、雰囲気と言う意味合いのものなのだけど、やはり昼間とはまったく違うものだ。

 世界には必ず二面性があって、昼と夜のこういった違いはそれを体現しているかのようであった。

 夜に響く音は物寂しくもどこか落ち着いていて嫌いではなかった。昼間のように周りからは多種多様な音は聞こえてこない。聞こえてくるのは夜風と虫の鳴き声、どこかの飼い犬の鳴き声、野良猫の鳴き声、そういったものばかりだった。それら一つ一つが空へと向かって旅立っていくようで、どこか虚しいと思えてくる。


 そんな様子だから僕は無事に目的地へと到達できるのか心配にはなったけれど、途中にあるコンビニだとかそういったお店は昼間と同じように開いているらしく、その自動ドアの開く音などで今歩いている道はこの場所なのかと把握することが出来た。これぐらい歩いたからおそらく今はこのあたりだろうだとか、そんな風にして昼間には一番にぎわっている場所に着いた。夜であろうと車は走っているようで、時々エンジン音が道路から聞こえてくる。

 僕のように夜の道を歩いている人も少しはいるらしく、二、三人とすれ違う。

 僕にとって今歩いている場所は全くもって違う世界であった。日常ではなく非日常を僕は今歩いている。


 それからしばらく僕はひたすらに歩いた。どうしてかいつもよりも時間の流れが遅いような気がしていて、足の進みも遅くなっていくからさらに時の流れが停滞していく。

ただ、河原に近づくにつれていつも聞いている水の流れる音が聞こえて来ると、淀んでいた歩みも再び息を吹き返すように進んでいった。

 土手へと上がる階段を、棒を使って一段一段確認して足をかけていく。土手へと上がり、ほんの少し夜空に近づいたところで僕はいつものように深呼吸をした。鼻から入る空気を味わう。昼のそれとは違い今この付近の空気はしっかりと夜のものになっていた。


「日向さん、こんにちは」


 僕は深呼吸をした後呟いてみる。すると、すぐ隣から彼女の「こんにちは、ではなくてこんばんはです」という声が聞こえてきた。


「はは、そう言われれば確かにそうだよね。うん。じゃあこんばんは。今日日向さんと会うのはこれで二回目だね」


 今日の昼間、僕は僕の経験した出来事を日向さんに話した訳だけど、その後彼女は僕に改めて真夜中にここに来てほしいと言った。だから今日日向さんと会うのはこれで二度目だ。

 他者に対して一度も話したことがないような話をしてまだ数時間しか経っていないためなのか、それとも違う理由からなのか、いささかこうして日向さんの隣に立つことに気恥しさを覚えてしまう。


「今日は夜中に呼び出してしまって、その、迷惑ではなかったですか?」

「ああ、うん。大丈夫だよ」

「そ、そうですか。なら、よかったです。じゃあ、場所を変えましょう。私、行きたいところがあるんです」

「行きたいところ?」

「はい。時間もないので、急ぎましょう」


 日向さんの時間がないという一言が奇妙なほど頭の中に残る。だけど、彼女は「こっちです」といってすでに歩き始めているようで、僕はその声を頼りに足を進めた。


「これからどこに行こうとしているの?」

「秘密です。その、着けばきっとわかると思います」


 歩みは遅い。まるで意図的にそうしているかのようで、だけど一人きりでここまで来るときに感じた寂寥感がこみあげてくることはない。むしろ僕は安心感を抱いているほどで、夏の夜の寂しさは夜空に浮かぶ星のような魅力的なものへと姿を変えていた。


「日向さん、今の空はどんな感じかな?」

「今の空、ですか? つまり、夜空ですよね」

「うん。そう、どんな感じ?」

「ん~……というか、なんだか私はいつも萩野君に尋ねられてばかりのような気がします。だから今度は私が先に質問してもいいですか?」

「え? ああ、別に構わないよ」

「じゃあ、萩野君が思い描いている星ってどんなものですか?」

「それは……」


 星についての知識なら少しはある。星とはそのほとんどが暗く広大な宇宙に浮かぶ恒星の輝きであり、それらの光を受けて輝く惑星や衛星などもその正体だ。

 ただ、それらが実際にこの夜空でどのように見えているのか僕には見当がつかない。

 周りの人から聞いた話によると、一面黒い画用紙に小さな光が所々浮かんでいるように見えるらしく、また、そこには昼に輝く太陽の代わりに儚く光る月が浮かんでいるらしい。

 その様子が僕にはうまく想像できなかった。暗闇というのならわかるのだけど、光というのが分からなかった。

 星の中には夜空を駆けるように流れるものもあるらしく、それに願い事をするとその願いが叶うとも聞いた。なんとも非現実的な話だとは思ったけれど、それはとても魅力的だと思った。

 ともかく、僕には星がどのような様子で夜空の中で輝いているのか全く分からない。だから、分からないなりに「小さな眩しい光が所々にあるのかな」と答えるしかなかった。


「そうですか。じゃあ、光とはどのようなものだと思いますか?」

「どのようなもの? そうだね、とても眩しいものだと聞いているよ」

「はい。確かに強い光は目を開けていられないほど眩しいです。ですけど、星はそこまで眩しいものではないです。萩野君、光って色々な色がありますよね」

「ああ、うん。そうだよね」


 それらは物理の授業で教わった。細かな理由、原理だとかそう言ったことは覚えていないけれど、光には色々な色があるということくらい僕は知っている。


「星もそうなのですよ」

「へ、そうなの?」


 てっきり僕は、星はすべて眩いものだと思っていた。


「はい。よく目を凝らしてみると、星それぞれで色が違うんです」


 その話を聞いて、僕の中にある夜空が一段と色味を増す。果たして夜空にはどのような光景が広がっているのだろうか、増々興味が湧いて出てきた。


「萩野君、なんだかとても楽しそうな顔をしていますけど、夜空を見てみたいって思いましたか?」


 やはり僕は感情がすぐに表情に出てしまう性質らしく、日向さんに心の中を見抜かれてしまった。


「萩野君、次も私から質問してもいいですか?」

「うん。別に構わないよ。でも、今日はなんだかいつもとは立場が逆みたいだ」

「そ、そうですかね? 嫌ですか?」

「ううん。嫌じゃないよ。それに昼間は僕の話を聞いてくれたから、大丈夫」

「そ、そうですか。それじゃあ改めて、萩野君は土手の上から見える景色ってどんなものだと思っていますか?」

「土手の上から? その土手って僕たちがいつも会っている河原の土手でいいんだよね?」

「はい。その土手であっています」


 どんな景色が広がっているか。まず、当然ながら川が広がっているだろう。川とは水が山から海へと流れて行く為の道だと聞いている。そして、その川の上にはおそらく電車が通る鉄橋が架かっていると思う。度々ガタンガタンと大きな音が聞こえていて、過去にその音の正体は何なのかと父親に聞いて確認をしているから、おそらくそのようになっているはずだ。

 それと僕等がいつも座っている場所には雑草が生えている。雑草は緑色だと聞いているから、河原には緑色の光景が少なくとも広がっている。真上には青空があって、そこには雲が浮かんでいる。時々鳥が鳴き声を上げながらそんな空を自由に飛んでいて、数名の人がいつも土手を歩いていたり、走っていたりしている。

 それらのことを一つ一つ確認するように日向さんに話していく。彼女は終始、「はい、そうですね」「そうです」と相槌を打ってくれた。


「つまり、緑があって、青があって、白があって、人がいて川が流れている。そんな感じでしょうか?」


 電車の走る鉄橋の存在は消えていたが、大まかに僕の中にあるあの河原はそのようなイメージであった。だから僕は、「そうだよ」と答えた。


「大まかに言えばそれで合っていると思います。じゃあ、その一つ一つについて、まずは川というのはどのようなものだと思いますか?」


 その問いに対し、僕は先ほど話したように山から流れ出た水が海へ向かうための道だと答えた。


「はい。そうです。知識としてはそうだと思います」

「うん。そうだろうね」


 そう、知識としてはそれで合っているだろう。ただそれは知識であってそれ事態ではない。そんなことなど僕が一番良く分かっていた。

 それから雑草や空、雲についても日向さんに同じ質問をされたけど、やはり僕は川について答えた時と同じように、知識として蓄えているそれらをそのまま説明するしかなかった。


「わかりました。じゃあ、数週間前に連れていっていただいた丘の上から見える景色はどのようなものだと思いますか?」


 あの丘の上から見える景色。街を一望できる場所だと聞いているから、おそらく多くの建造物が建ち並んでいるのだと思う。建物の形は様々らしいけど、基本となる形は直方体の上に三角柱が横になってのっているらしい。

 そういった景色が広がるのが地上。そこから上へと視線を運んでいったのなら、ちょうど正面を向いた時、たしかあの丘から海が見えるということだから水平線というものも見ることが出来るはずだ。水平線とは海と空を分ける一本の線のことらしい。実際にそのような線など存在していないが、自然とそのような線が引かれている様に見えるのだそうだ。

 太陽がその線を越えて行く時、街は暖かな光に包まれていくと聞いている。そして次第にその光が消えて空に星が浮かび始めるのだそうだ。僕の母親はそんな風に緩やかに世界が変わっていく様子を見るのが一番好きなのだと言っていた。

 とても不思議で、現実なのに幻想的な変化だと僕は思う。光が消えて闇が覆う。そして再び闇は消えて光が覆う。それを毎日繰り返している。


「はい、確かにそうですよね。でも萩野君、何か忘れていませんか?」

「えっと、桜のこと?」

「はい。そうです」

「忘れてなんかいないよ。でも、あの丘の上にはどれくらいの桜木があるんだろう」

「さあ、どうでしょう。大きな桜の木が一本あるのか、それとも春には桜吹雪が舞うほどたくさんあるのか。萩野君はどちらがいいと思いますか?」

「僕? そうだね……僕は大きな桜の木が一本あるほうがいいかな」

「どうしてですか?」

「どうして……どうしてだろう?」


 ただなんとなく、そちらの方がいいように思えた。


「日向さん、丘の上には何本の桜の木があったか教えてくれない?」

「ん~」


 日向さんはしばらく唸る。


「いいえ、教えてあげません」

「え、どうして?」

「だって、それは萩野君が実際に確かめるべきことだと思うからです」

「確かめるって、僕は目が見えないからそんなこと出来ないよ」

「いいえ。そんなことはありません。いつか必ずその日が来ます」


 日向さんがそう断言する。


「あったとしても、僕はしっかりと目を開けることができるのか自信がないよ」


 ぽつりと口からこぼれ出たそのつぶやきを日向さんはしっかりと聞いていたらしく、彼女の歩みが止まる。


「どうしてですか?」

「…………」


 僕の歩みも自然と止まり、立ちつくす。


「私が言い当ててみましょう。ですがその前に、そろそろ目的地に着きますのでそこでお話します。それと、ここからはなるべく音を立てないように。お話することもダメです」


 僕は日向さんに導かれる。いったいここはどこなのだろう。ただ彼女に着いて行けばいいと思っていたから、周りの様子を確認して歩いては来なかった。だけど、僕が知らない場所ではないような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る