第10話~よっつめ(その3)~

 まずは今の僕について。最近になって気が付いたことは、僕はどうしようもなく臆病者であるということだ。そのことを日向さんに教えてもらった。それは目が見えないことで安心を得ることが出来るほどで、僕はいつの間にか実際に憧れを目にすることを怖がっていた。


 「怖いと思う理由はなんなのですか?」と日向さんに聞かれたから、僕は「先週丘の上で話した通りだよ」と答えた。今までずっと僕の中で培ってきた世界、躓きながらも築き上げてきたもの。生きて来た証と言っても過言ではないそれらが砕け散ってしまうのではないのかと、そう思ってしまうからだ。

 砕け散ることがどうして怖いのか。それは実際にそういう経験を今までしてきたからだ。信じて来たもの、やろうとしたこと。それらが僕の元から簡単に離れて行って、それが心細くて、悲しくて、どうしようもなく辛かった。だから怖いのだと思う。


 中学生の頃、僕は一時期いじめを受けていた。いじめと言ってもクラスメイト全員からそのようなことをされたという訳ではなくて、ほんの一部、少数の人からいじめを受けていた。期間もそれほど長くはなかった。その少数の人と別のクラスになった途端僕がいじめを受けることは無くなった。

 いじめの内容は至極僕に適したもので、目が見えないことを最大限利用したものであった。廊下を歩いている僕の足を引っかけたり、上履きを隠されたり、物理的な暴力を振るわれることはなかったけれど、精神的な暴力は振るわれた。目が見えないだけで優遇されるものな、気楽でいいよな、なにぶつかってきているんだよ、あ、見えないからしょうがないか。そして、何も言い返せない僕をそいつらは笑う。大声で笑う。笑い声さえも僕に対する暴力であると伝えるようであった。


 日向さんが、「どうして言い返さなかったのですか?」と聞いてきたから、僕は「その通りだと思ったからだよ」と答えた。目が見えないだけで世間は僕を優遇しているようでならなかった。目が見えないのだから生きて行くことが辛いだろう。何かと大変なことがあるだろう。誰がそんなことを思っているのか分からないけれど、そういった観念をみんな持っているらしくて、それが僕には気持ちが悪かった。そうすることが常識だから、そうしないことは世間から外れるから、だから僕に親切な対応をしているようでならなかった。そこには僕という存在そのものに対する思いやりが無いように感じた。むしろ自分のことしか考えていない偽善者が僕を利用しているような気さえしていた。

 勝手にそういった偽善を僕に押し付けないでほしかった。本当に救ってほしい時に救ってくれなくて、どうでもいいような時に救おうとしないでほしい。救われているのは僕ではなくてあなたの方だろうと僕は言いたかった。私はこんなにも優しいと愉悦に浸っているだけだろう。僕等を勝手に弱者などとラベルを付けて分類化しないでほしい。僕は弱者でもなんでもない。目が見えない以外は普通の人間なのだから。

 まだ中学生の頃に僕をいじめていた同級生の方がいい。世間は正義という不確かなものを免罪符とし、それを当たり前のように利用している。

 僕をいじめていた少数の人たちは、僕がいじめられなくなると他の人をいじめるようになった。僕の次にいじめられていたのは僕なんかよりもよほど普通の人であった。

 今までは僕のような人だけがそんな風に世間から扱われるのだろうと思っていたけれど、存外そう言うわけでもないということを知った。


 そのことに気が付いた時、一度僕の世界は砕かれた。


 小学生の頃。小学校三年生の担任の先生はよく「みんなで仲良くしましょう」と僕たちに話していた。クラスメイトはその言葉に対して素直に「はい」と返事をしていた。その頃の僕も、みんなと同じように「はい」と返事をしていた。


 だけど、みんなと同じだとは言えないこの僕が担任の先生が掲げた理想の中に入れるわけがなかった。


 友達を作ろうと必死になっていたこと。公園でかくれんぼをしている時、みんなは僕を残して別の場所へと遊びに行ってしまったこと。給食を食べるときはみんなの輪から外れ、僕は補助を受けながらよく知らない大人と給食を食べていた。本当はみんなと一緒に給食を食べたかったし、みんなと一緒に遊びたかった。だけど、そんなことは一度もなく僕は小学校を卒業した。

 両親は普通の人と同じように生活してほしいという願いを持って僕を普通の小学校に通わせてくれていて、僕もそうしたかったから何としてもその願いに答えたかったけれど、結局それは叶わなかった。

 みんなと同じようになりたいと思っていたが、しかしそれはあまりにも僕には難しいことだった。僕はみんなとは明らかに違う。小学校での生活は僕にそのことを教えてくれた。


小学校を卒業すると共に、一度僕の世界は砕かれた。


「日向さん、ここからは少し話が長くなるけれど、大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「うん。じゃあ……」


 僕がまだ小学校に入学して二年目の時のこと。それほど昔のことになると、記憶があいまいになってしまっているけれど、今でもはっきり思い出せることがある。


 僕は日向さんに「日向さんはまだ小学校二年生くらいの時の記憶ってある?」と尋ねた。もしかしたらこの質問は友達になる時に交わした条件の一つに当てはまるかもしれないと思ったけれど、日向さんは「あります」とだけ、小さい声で答えてくれた。


 僕が七歳で、まだ父親と一緒に病院へ通っていた時。当時、僕には病院に行くたびに会っていた女の子が一人いた。

 その女の子の名前を僕は知らないし、僕もその女の子に自分の名前を教えた覚えはない。今隣にいる日向さんのように友達になろうなどと言われた覚えもない。


 初めての出会いを思い出すに、それは春の日のことだったように思う。病院の中庭の木にはピンク色の花が咲き乱れていると女の子が話していた。

 先生が父親と二人きりで話をしたいと言うものだったから、僕は棒を使って歩く訓練の意味も含めて病院内を探検していた。

 病院という場所であるため、僕が棒を持っていると色々なところから僕のことを心配する声が聞こえてきた。純粋に僕のことを思いやっているということが分かるような声で、大体が女性の声だった。


 そんな声を聞きつつ、自分の足だけで病院内を探検する。そんな小さな冒険をしている中で自動ドアの音が開く音がした後に「う~ん」という唸り声が聞こえてきたのだ。

 唸り声が聞こえた方へ向かって僕は「どうしたの?」と声をかけた。どうして声をかけたのかと聞かれたのなら、今の僕は答えることが出来ない。その理由を今では思い出すことが出来ない。僕が日向さんと初めて出会った時と同じように、単なる気まぐれで話しかけたのかもしれないし、もしくはいつも周りの人に助けられてばかりだったから、誰かを助けてみたいと思ったのかもしれない。

 僕が話しかけると唸っていた子は「えっと」と少し間を置いた後、「あの本が取りたいんだけど、届かないの」と言う。小学校の同級生と同じような声質だったから、おそらく僕と同い年だろうと思ったことを覚えている。

 僕が「どれ?」と尋ねると、「あれ」と返事がしてきて、「僕には見えないから、口で言って」と言うと、その子は「そうなの、変なの」と言って口で説明し始めた。

 聞いてみるに、その子は棚の上にある絵本を取りたがっていたらしい。しかしあと少しのところでその絵本には手が届かなくて、う~んと唸るほどに背伸びをして手を伸ばしていたそうだ。

 事情を一通り説明した後、その女の子は「あなたなら届くかもしれない」と期待の籠った声色で僕に告げてきた。どうやら女の子の背は僕よりも小さいらしい。

 それから僕は女の子に手を引かれ指示されて手を伸ばす。そして、女の子が望んでいた絵本を僕は取り、女の子に渡した。

 「ありがとう」と、きっと満面の笑みでそう言っているのであろう声が聞こえて、僕も心の底から嬉しくなって「どういたしまして」と返した。


 その後、女の子の母親がやってきて、女の子は母親に「取ってもらったんだ」と話していた。

 女の子が「バイバイ」と言うものだから、僕も「バイバイ」と言って返した。

 それが初めての出会いだった。


 次にその女の子と出会ったのは二週間後のことだった。先生と父親が二人きりで話をしている間、僕は一人で病院の中庭にやってきていた。中庭のベンチに座っていたところ、上の方から一人の女の子の声が聞こえて、その声を聞いた瞬間、この前の女の子だということはすぐに分かった。

 女の子は「何をしているの」と聞いてくるものだから、「休んでいるんだ~」と呑気なことを僕は言っていた。それから女の子は「私もそっちに行く」と言って、しばらくした後、本当に僕の近くに彼女はやって来た。

 女の子は僕の隣に座って、「桜、きれいだよね」と、やはり楽しそうにそう僕に告げてくる。僕は桜というものが何を指しているのか分からなかったから、女の子にその単語が意味するところを尋ねた。すると、女の子は「私たちの頭の上で咲いている花のことだよ」と説明してくれた。桜は白がほんの少し照れた色をしているらしい。女の子からそのことを教わって、女の子は母親からそう教わったのだそうだ。

 今思うに、僕は桜という存在をこの女の子から教わったのだ。それから僕は自分の母親に桜を見に行きたいと告げて、毎年あの丘で花見をするようになった。

 それからしばらく僕は女の子と桜の木の下で話をしていた。本当、どうでもいいような話だったと思う。どんなことを話したのかなんて全く以て思い出せない。ただ、とても楽しかったことは覚えている。

 それから僕は病院に来るたびに中庭の桜の木の下で女の子と話をしていた。

 「じゃあまた来週」と僕が言って、「うん。また来週ね」と女の子が返事をする。そのやり取りを繰り返していた。


 だけど女の子は唐突に僕の前には現れなくなった。最初に女の子が来なかった時は、きっと何か用事があったのだろう、来週にその理由を聞こうと思ったけれど、一週間、二週間、一ヶ月経っても僕の元に再び女の子が現れることはなかった。

 女の子と僕が会っていた期間は二か月も満たない。回数にして五回ほど。たったそれだけの短い期間だったのに、僕の中にあるその女の子の存在が膨張して、だから女の子が唐突に僕の前から消えた瞬間、風船に穴が開いたように一瞬で萎んでいった。


 何をその程度のことでと周りの人は思うかもしれないが、しかし僕にとってはそれほどの出来事だった。十年近く経とうとする今でさえもそのことが常に心の隅にあるほどだ。

 唐突に消えた女の子。せめてその理由を知りたいと思うが、もうそれも叶わない。

 誰かと話すことを純粋に楽しんでいた僕。僕も楽しいのなら、笑っていられるのなら、そして、相手も笑っているのなら、その相手も楽しいと思っているのだと信じていた。

 もしかしたら相手にも事情があったのかもしれない。だけど、いなくなったことに変わりはなくて、何か言ってくれればよかったと思ってしまう。

 相手にとってもそれは唐突な出来事だったのかもしれないけれど、僕にとてもそれは唐突な出来事であることに変わりなく、理屈のすべてが言い訳になるようで、僕の心の中にはどうしてという思いばかりが募った。


 絶対などなく、不変もない。お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供の様ではあるのかもしれないが、僕の心の中にそういった気持ちが渦巻いたのは事実だった。


 あの時僕が知った世界の一面を明確に言葉では言い表せない。あえて言うなら正体不明の世界の影と言ったところで、その影の中に足を踏み入れた瞬間、僕の世界は初めて砕かれた。


 今まで僕が生きてきて経験してきたものの中で特に心の中に刻まれている三つの事柄。これらを今まで誰かに話したことなどない。今日この場で、こうして日向さんに話したのが初めてであり、実際に語ってしまっている僕自身にも驚いている。

 僕が話し終えた後、しばらく日向さんは黙っていた。普段と比べ、周りの音が耳に張り付いてくる。

 ほんの数秒であるが、しかしそれがとてつもない時間に感じて、本当にこんなことがあるのだと思った頃、日向さんの声が僕の世界に届く。

 落ち着いていて、しっかりとしていて、だけど決して力強くなく、それでも彼女の抱える思いはまっすぐに伝わって来る。


「私は、あなたに謝らなければいけないことがあるの」


 僕は薄々気が付いていた。彼女とはそれほど多くの言葉を交えて来たわけではいけれど、最初にこの場所で彼女の声を聞いた瞬間、ずっと停滞していたものが動き始めたような気がしていた。

 声がとても懐かしいものだったから。話し方は随分と変わってしまっていたけれど、それでも彼女の雰囲気は変わっていなかった。

 時間と言う名の毒に侵される前に、この燻る思いが風化して朽ち果てる前に、自分から向き合う必要があるのかもしれない。

 その結果、再び僕の世界が砕け散ることになるかもしれないけれど、ここで背を向けるわけにはいかなかった。

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