第9話~よっつめ(その2)~

 病院を出て、夏の熱気を体に纏わせながら河原を目指す。時間が経つにつれて陽は高く昇り気温は上がる。最近の夏はいささか自己主張が強くて、少しは遠慮というものを覚えてほしいと思う。

 こうも暑いと自然に喉が渇いてくる。病院から出てくる前に飲み物を買っておくべきだったと後悔した。

 なるべく汗を掻かないようにとゆっくり歩いていた努力も空しく着ている服が汗を含み始めて背中に張り付く。べったりと付きまとわれるようなこの感覚が僕は嫌いだ。


 河原に近づいてきたのか、水の流れる音が聞こえてきた。この音を聞くとほんの少し涼しくなったような気がするから不思議だ。


 僕にとって音は重要で、それは目の見えない僕が周りの状況を知る上で大切な要素だ。今のように水の流れる音が聞こえてくれば、僕は近くに川があることを知ることが出来るし、人の話し声が聞こえたのなら周りに誰かがいることを知ることが出来る。ほかにも信号が青になっていることを伝えてくれるのも音であるし、枝葉の擦れる音が聞こえたのなら近くに木が生えていることを知ることが出来る。

 何より僕は声で誰かを認識している。最近でいえば日向さん。僕は彼女の声を聞くことで彼女の存在を認識することが出来ている。


 それだけでなく、僕の中にある思い出は常に誰かの声や周りの音と共にある。楽しかったことも、悲しかったことも、すべては音と共にある。

 人の声には思いの外その人の感情が現れるもので、その人が嬉しいのなら声も自然と生き生きし、辛いのなら自然と涙を含む。


 日向さんの声は普通の人のそれよりもそれらが顕著に現れる。先週、丘の上で話した時、彼女の声は真剣であり、一歩踏み出そうとしているような、そんな勇気が籠っていた。


 水の流れる音が大きくなっていく。僕は土手へ上がる階段に足をかけ、上った先で立ち止まり深呼吸する。いつも通り、慣れ親しんだ匂いが頭の中を包み込んでくれた。

 それから日向さんを探し出す。この辺りかなというところで「日向さん」と声を出してみると、「あ、萩野君。こんにちは」と日向さんの声が聞こえてきた。


「こんにちは。今日もいい天気だね」

「はい。そう、ですね。でも、暑くて干からびてしまいそうです……」


 そして僕はいつものように彼女の隣に腰を下ろす。


「さて、今日はどうしようか?」


 日向さんに会うと必ずこの言葉を彼女に言っている気がしてならないが、今日も彼女はそんな僕の問いかけに答えてくれる。

 毎週一回、日向さんがやりたいことを僕が叶える。今日のその内容は、しかし僕にとって叶え難い内容であった。


「そ、その、萩野君のこと、もっとよく知りたいんです」


 僕が「どういうこと?」尋ねると、日向さんはどうしてそう思ったのかその訳を説明し始める。

それは先週にまで話を遡る。その時日向さんは誰かの役に立ちたいと話していたが、その誰かという場所に僕の名前が当てはまったらしい。そして、役に立ちたいのならその人のことをよく知らなければならないという結論に達したようだ。


「別に、僕の役に立とうだなんて思わなくてもいいよ」


 誰かに助けられるほどの価値が無いからという訳ではない。いつの日だったか日向さんが色々な人に迷惑をかけ続きたと言ったように、僕もまた色々な人に迷惑をかけてきた。だからもう誰かに迷惑をかけたくはない。日向さんは恩返しをするように誰かの役に立つことを望み、僕は誰かの迷惑にならないよう生きて行くことを望んでいる。


「いいえ。私が決めました。決めたんです」


 だけど、日向さんはどうしてかその意思を曲げない。普段の彼女からは想像できないような声でそう告げる。


「……どうして?」

「そ、それは……」


 なぜか日向さんは黙ってしまう。

 僕のことを知りたい。そんなことを僕に言った人など今まで誰一人としていなかった。だから僕自身、誰かに昔あった出来事をさらけ出したことなど一度もない。何か嫌なことがあろうとも、喉に何かが詰まって胸が苦しくなろうとも、僕は一人で飲み込んで、無理やり仕舞い込んできた。

 目が見えないことで今まで両親には迷惑をかけてきて、だから少しでも迷惑にならないようにと両親にはそういったことを話さないで来た。先生に対してもどうしてかそういったことを話す気持ちになれなかった。


 誰かに話せば心が軽くなるというけれど、それは本当にそうなのだろうか。僕は今までこんなにも辛い出来事を経験してきたと、ただの苦労話をして自己満足の世界に浸りたいだけなのではなかろうか。


「僕は……」


 僕はどうなのだろう。少なくとも、今日向さんにあなたのことが知りたいと言われて嫌な気持にはならなかった。話してもいいのではないのかとさえ思えた。今まであれこれと考えてずっと置いたままにしてあるものがあって、それらに中々手を出さないでいた理由がすべてつまらない言い訳なのではないのかと、そう思わなくもない。

 臆病者である僕の小さくても意味のある一歩を踏む時が今なのだとして、それをきっかけに何かが変わるのだろうか。


「そうだね……」


 何も日向さんに今までの僕のことを話したところで、僕の目が見えるようになるわけではない。僕にとって一番怖いものを目の当たりにするわけではない。

 それに日向さんの願いを出来る限り叶えてあげようと僕は決めたのだから、話すくらい、いいような気がした。


 ずっと固まっていたものが水を含んで溶け出すように、ゆっくりと口から流れ出てくる。


 塊の表面である最近の僕の話から、だんだんと深く、内部に入るように昔のことを話していこう。

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