第8話~よっつめ(その1)~

 人の中に悲しみを溜めて置ける箱があったとして、その容量は人それぞれ違うものなのだろうか。いつでも笑顔を絶やさずにこの程度よくあることだと前を向ける人の箱は大きく、いつでも目を伏せて泣き続け、後ろを向いてしまう人の箱は小さい。もしかしたらそうではなくて、箱の大きさはみんな平等で、悲しみの大きさが受け手に依存しているだけということもあるかもしれない。


 どちらにせよ、やはりその箱には限界があって、一定量まで悲しみが溜まってしまった場合はもちろんのこと箱から溢れ出てしまう。限界を超え我慢できなくなってしまったのなら、入りきらないそれは外に出してあげなければならない。普通の人が初めに悲しみと触れる場所が目なのだとしたら、やはりあふれ出たそれは入ってきたところから出て行くのだろう。

 歳を重ねると涙もろくなるなんて母親から聞いたけれど、長い時間生きていればその箱は一杯になっていくのだからそれも当然なのかもしれない。


 ともかく、人それぞれそんな箱を持っているとして、ならば今の僕の箱には何が入っているのだろう。

 箱の中に仕舞われた、長い年月を経て溜まったものは埃を被っていて、ふとしたきっかけでその埃が舞い古ぼけたそれらが顔を出す。普段過ごしている時間のふとした中で、夜寝る前の布団の中で、寝ている間、無意識に見る夢の中で、それらが顔を出す。

 その都度埃が僕の胸を苦しめて少し辛くなる。

 もうじき僕の箱の中で一番長く仕舞われているものが再び姿を現そうとしているように感じた。


 僕は目が見えること自体になんの不自由も感じていないし、辛さも感じていない。ただ目の見えない僕に対する周りの人の行為が僕を苦しめる。

 中学の頃も、小学校の頃も、そして小学校に通う前父親と病院に通っていた頃も。世の中というものは不思議なもので、普通ではないものには脊髄反射のような早さで少なからず拒否反応を示すものらしい。

 平等という名の鎖に巻かれ、自由という名の抑圧を強いられる。どうやら僕が直接見ることの出来ない世間にはそういった一面があるらしかった。


 病院に行く前、目を覚ましてベッドから起き上がり階段を下りてリビングに向かう。そこでいつも流れているテレビからの音声が色々なことを伝えてくれた。

 そういった話を毎日聞いているから、そのことも相まって僕は世界を直接目で見ることを躊躇しているのかもしれない。

 先週の丘の上で日向さんに聞かれたことを思い出す。景色を見てみたくはないのかと、そういう質問だった。

 僕はその時わからないと答えたわけだけど、その答えは一週間経った今でも変わっていなかった。

 僕の目が見えたらいったいどうなるのだろうと考えたことは何度もある。目の見える人達が羨ましいと思ったことも、どうして僕は見ることが出来ないのかと悔やんだことも何度もある。だけど、それと同じくらいに目が見えてしまったことで生じる出来事に対して恐怖感を抱いてきた。それら二つが入り混じっていて、それは今になってはどちらが本当に僕の望んでいることなのかわからないまでになっている。


「…………」


 僕は手さぐりに椅子を見つけてそこに腰を下ろす。台所で洗い物をしている母親に今は何時なのかと聞いたら、ちょうど八時だと答えが返って来た。

 病院に向かう時間までまだ少し時間がある。僕は他の人よりも少し時間をかけて朝食を食べ終えた後、今日は早めに家を出ることに決めた。

 自室に戻って昨日のうちに母親が用意しておいてくれた服に着替える。そう言えば、僕の服装は周りから見るとどのように見えているのだろうか。いつも母親が選んでくれているものを当たり前のように着て来たけれど、今日はどうしてかそのことが気になった。

 少しの間着替える手が止まる。頭の中が真っ白になる。どれくらいそうしていたかはわからないけれど、下の階から聞こえた母親の声で我に返った。

 それからいつものように着替え、何も持たずに部屋を出て玄関へと向かう。母親に「病院へ行ってきます」と一言声をかけてから棒を握って僕は家を出た。


 気が付くと八月に入っていたらしく、扉を開けた途端、朝なのにも関わらず夏の熱気が僕の体を包み込む。今日の空気はカラっとしたもので、体の中の水分がどんどん外へと蒸発していくようだった。

 僕は汗を掻くのは好きではないし、歩く道にどんな危険が潜んでいるのかも分からないからゆっくりと足を進める。一歩一歩、今年の夏を踏みしめるようにいつもの場所へと向かって行く。

 病院へ行って先生と何をするのかというと、まあ簡単にいえば近況報告のようなことをしている。先生と話を始めて、最初の方こそ体に異常はないだとか、目に違和感はないかだとか聞かれるけれど、それも二、三分で終わる。

 毎週毎週、人に話したくなるような出来事なんて起こらないもので、基本は先生の話を聞いて時間が過ぎて行く。医者というのはやはりその職業柄からか話題が絶えないらしい。同じ一週間でも、僕と先生とでは密度が大きく違っているらしかった。

 心が温かくなるような話から心を痛めるような話まで、先生は人の命というものに一番触れているのだから、そうなるのも当然だろう。


 だけど最近になって僕から先生に話を持ち掛けることも多くなった。その理由に日向さんが関わっているのは言うまでもないと思う。

 ただ、僕は先生に日向さんの名前を明かしていない。先生には病院の帰り道で出会った友達と言っている。

 どういうわけか先生は時々僕に色恋について聞いてくる。彼女は出来たかだとか、好きな人は出来ただとか、そういう具合だ。

 誰かのことを好きになるというのが僕にはわからない。先生の話によると、まず顔を見て可愛いなと思えたら声をかける。そして、仲良くなってうんぬん。僕は先生のその話に対して、「まず顔を見ることが出来ません」と答えた所、先生は「ああそうだったそうだった。わっはっは」と楽しそうに笑っていた。先生はそういう人だ。


 ともかく、普通の人なら誰かを好きになる要因の一つに外見があって、それが大きく作用しているのだろうけど、僕にはそんな要因などない。その所為もあるのか僕は未だに誰かのことを好きになったことはない。

 人は外見でなくて中身だとそんな話を聞いたことがあるけれど、僕にとってはまさしくそれだ。外見なんて見えなければ意味がない。だけど、中身なんて目が見えていても見えないものなのだからなおさら難しい。

 誰かを好きになる感情というのはどういうものなのか。ああ、これがそういう感情なのかとその時になればわかるものなのだろうか。

 そして、いつか僕にもそれが分かる時が来るのだろうか。


 いつものようにあれこれと答えの無い物事を考えながら病院へと足を向ける。住宅街を抜けて大通りへと出る。そうなると周りの様子はすっかり変わるもので、大通りに出てきた途端、周りが賑やかになる。この道はもう数えきれないほど歩いて来たけれど、相変わらずこういった環境に慣れることはない。人が多くいる分、誰かに当たらないようにと気を配って歩くことに疲れてしまう。

 その昔、まだこういった場所を歩くことに慣れていない頃、度々人にぶつかることがあった。ある人は僕の目が見えていないことに気が付くと親切そうな言葉をかけてくれて、またある人は舌打ちをして何事も言わず歩いて行ってしまう。どちらの反応が返ってきても僕は息苦しい気持ちになっていた。

 僕はそれが嫌だから人通りの多い場所を歩くときはいつも以上に周りに気を配る。

 大通りを抜け、時々信号機に歩みを止められつつも病院を目指す。


 そして、僕は病院へとたどり着いた。


 自動ドアをくぐって中に入る。いつも通り「おはようございます」という声が聞こえてきて、僕もやはりいつも通り声のした方へと挨拶を返す。

 病院に足を踏み入れると僕はまるで別世界に来たような気持ちに陥る。病院独特の匂いや辺りから聞こえてくる物音、人が咳き込む音だとか、お年寄りから子供の声、赤ん坊の泣き声がそうさせているような気がする。

 この場所で始まる命があればこの場所で終わる命もある。救われる者がいる反面、救われなかった者がいる。よかったと安堵する人がいれば、どうしてと悲しみを背負う人もいる。真逆のものが入り混じっている場所だということも、病院が他とは変わった場所であると感じる要因の一つだろう。

 色々な声を聞きつつ足を進めてエレベータに乗る。先生が普段仕事をしている場所は五階。点字を頼りにボタンを押す。僕は点字のすべてを把握しているわけではないけれど、エレベータだとか、目が見えなければどうしようもない事態に対応できるくらいには理解することが出来る。

 エレベータが五階に到着したことを告げるアナウンスが聞こえてきた。どうやら押したボタンは間違えていなかったようだ。

 エレベータから降りていつも先生と話している部屋へと進む。


「あ、萩野さん」


 しばらくしたところで看護師さんが僕に話しかけてきた。


「いつも通り滝口先生ですよね」

「はい」

「その、今ちょっと滝口先生手が離せなくて、もしかしたら今日は会えないかもしれないと伝言を預かっています」

「あ、そうなんですか」

「はい。わざわざ来ていただいて申し訳ありません。今日は私が代わりに問診しますので、どうぞこちらに」


 そう言って看護師さんが僕の手を取る。

 こういうことは時々ある。普段会話をしている様子では全く想像できないけれど、滝口先生はこの病院の中でそれなりに偉い先生なのだ。寝る間もなく患者と向き合っているらしく、先週も「あ~さすがにそろそろ休みが欲しいよね」と愚痴をこぼしていた。


「じゃあ萩野さん、こちらに座ってください」

「は、はい」


 僕は看護師さんの案内を受けて椅子に座る。椅子の座り心地はとても良い。多分、僕が今まで座って来た椅子の中で一番座り心地の良い椅子だと思う。背もたれに体を預けると、自然と眠ってしまいそうになるほどなので僕は今日も背筋を伸ばして座る。


「じゃあ萩野さん、さっそく始めて行きますね。最近、体に違和感を覚える箇所などありますか?」

「いいえ」

「では、目の様子はどうですか? 奥の方がジンジンするだとか、乾いているだとか、そういったことはありますか?」

「いいえ」


 と、そう言った具合に僕は看護士さんの質問にいつも通りすべて「いいえ」と答えていく。このようなやり取りは二、三分で終わるのだが、相手が看護師さんではなく先生だったのならこのやり取りの後十分ほど雑談をするわけだけど、今日はそのようなこともなく僕は問診を終えて席を立つ。そう言えば初めて日向さんと河原で出会った時も今日と同じだったことを思い出した。


「では、お大事に」

「はい。ありがとうございました」


 部屋を出て看護師さんと別れる。この後は河原に寄って日向さんといつものように会う予定だけど、少し時間もあるから久しぶりに病院の中を歩いて回ることにした。

 エレベータに乗って一階まで降りる。ゆっくりと歩く。やはり外とは違って、どこか忙しない空気が漂っているような気がする。

 昔の記憶を頼りにしつつ、僕は病院の中庭へと足を向ける。大きな木が真ん中にあって、その木を囲むようにベンチは設置されているらしい。その昔、ある子からそう聞いた。


「ふ~……」


 この場所に来るのは何年振りだろか。毎週病院に通っている僕だけれど、おそらく七年以上はここに来ていないと思う。僕がまだ小学生になったばかりの頃。父親と一緒に病院へと通っていた時のこと。当時、先生と話をする以外で、僕にはこの病院に来る楽しみがあった。


 不意に、肩に何か軽いものが落ちて来た。手で確認してみると、それはどうやら木の枝から落ちた葉であるようだった。

 葉の表面には所々に管のようなものが走っている。葉にはその管以外に凹凸はあまりなく、鼻に近づけて匂いを嗅いでみると、何とも言えない生きている匂いがした。

 葉を手放すと、それは風か何かに乗って僕の手もとから離れて行く。僕の手から離れて行ってしまったものを自分から追いかけて再び握りしめることなど僕には出来ない。今手から離れて行った葉が、はたして空に舞って行ったのか、それとも重力に従って地に落ちたのか、それすら分からない。


 遥か昔。地球にとってみればつい数分前のことなのかもしれないけれど、僕にとっては随分と前のこと。このベンチに、僕と一緒に座ってくれていた子がいた。

 正直なところ、僕等がこの場所で何をしていたのかは思い出せないけれど、その子と話をするのは僕にとってとても楽しいことだったということだけは覚えている。

 そして、その子は先ほどの葉のように、唐突に僕の手もとから去って行った。

 僕はきっと、その時に自分ではどうすることの出来ないことがあることを知ったのだと思う。だけどそんなことは認めたくないから、小学生の頃に必死に友達を作ろうとしていた時期があったのだ。

 だけど、やはり無理なものは無理だった。翼のない人間が、人間自身の力だけでは決して空が飛べないように、目の見えない僕が、僕自身の力だけでは決して掴むことの出来ないものがある。

 頭上に茂る木々が音を立てる。どうしてかその音が虚しく、悲しいもののように感じた。


「…………」


 この場所でずっとこうしているわけにも行かないので、そろそろ日向さんの待っている河原へと向かうことにする。ベンチから立ち上がり、棒を持って足を進める。

中庭を出る際、何枚かの落ち葉を踏んだようだった。

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