第7話~みっつめ~

 人はどうして生まれるのかと時々夜寝る前に考えることがある。真っ暗の中、布団の中に入って目を閉じて自分の中に目を向けると、そんなふうに答えのない疑問を頭の中で浮かべてしまうことがある。


 人にはそれぞれに神様から与えられた天命があるというけれど、神様のことを未知に対する変数だとしか考えていない僕にとってみれば天命というのは答えにならない。


 生まれたのだから死ぬ。終わりが定められているのだから生まれてくることに何の意味があるというのだろう。


 多くの人間は両親や周りにいる人間に祝福され、幸福に包まれながらこの世に生まれる。そして死に近づいていくと共にそんな幸福の膜は剥がれ落ち、負の物事にさらされていく。死に近づけば近づくほど、幸福とは真逆である不幸を知ることになる。


 ならば、生きて行くことに意味はあるのだろうかと思ってしまう。両親には申し訳ないけれど、僕は不完全な状態で生まれてしまったから余計にそんなことを考えてしまうのだ。


 何度かそんなことを考えてはきたけれど、僕は人はどうして生まれてくるのかという問いに対する自分なりの答えを出すことは出来ていない。ただ、生きて行くことについて自分なりの答えの輪郭を捉えることは出来た。


 人が生まれた時、赤ん坊の頃、大小はあれみな祝福されて生まれるけれど、当の本人は幸福を実感することは出来ていないだろう。少なくとも僕はそうだ。幸福を実感するどころか、生まれた時の記憶すら持ち合わせてはいない。


 生まれてすぐにそういったものを実感することが出来ないのは、おそらく比較する対象がまだ自分の中に無いからなのだろう。赤ん坊には何もない。だから、物事に対する判断基準を定めることが出来ないのだ。幸福を噛みしめるには不幸を知らなければならないし、嬉しさを感じるためには悲しみを知らなければならない。幸福のみの世界があったとして、おそらくその世界はさぞ退屈な世界になることだろう。ずっと陽だまりに身を預け続けることが出来ればと思うけれど、多分僕は一日も経てば自らの意志で影へと身を潜めると思う。


 赤ん坊は何も知らないから幸福を実感できない。そして、時間を経て多種多様な世界に触れ、様々な経験を通して幸福を知り、不幸を知り、嬉しさを感じ、悲しみを感じる。

 むき出しの感情に触れて自分の中に取り入れて行く。その過程で、自分の世界を作り出していく。生きる目的の一つに、自分の世界を作り上げていくというものがある。


 だから、僕にとって生きて行くということは多彩な世界に触れて自分の世界を作り上げていくということだ。


 僕の場合、それは目以外の感覚に頼って作り出してきた。そう言った面では僕の中にある世界は他の人と比べて鮮やかではないのだろうし、僕は生まれながらに生きて行くことに対してハンディキャップを背負っている。


 もちろん、この答えはたかが十数年生きてきた僕なりの答えだから正しいとも思っていない。そもそもこういった問題に対する答えに正しいだとか、間違っているというのはないのだと思うけれど、ともかくこの考えを誰かに押し付ける気もない。

 僕だって今そう思っているというだけであって、これからさき考えが変わる可能性だってある。


「さて、今日はどうしようか」


 定期健診からの帰り道。僕はいつものように日向さんと会って、彼女の隣に座って声をかける。

 先の話に関連を持たせるとしたら、今僕は日向さんとの会話を通して自分の世界を作り上げているといったところだろう。

 ただ、何かが足りないような気がする。いや、足りないというよりはむしろ物足りない気がしていて、おそらく僕はもっと彼女のことを知りたいと思い始めているのだと思う。別に彼女のことが好きになったからだとかそういう意味でない。僕は純粋に彼女のことを知りたいのだ。


「今日は、ですね……」


 日向さんは何かを考えているようで、独り言のようにそう呟く。


 友達になる時、僕は日向さんについて深く知ろうとしないという条件を飲んだ。だから僕は未だに彼女のことを何一つとして知らない。

 どこの学校に通っているのかはもちろん、どこに住んでいるのかだとか、血液型は何型なのかだとか、そういったことを僕は知らない。知っていることと言えばせいぜい日向紬という名前と、髪型が比較的短いこと、読書が好きであること、あと、今はそうではないらしいが普段は眼鏡をかけていることぐらいだ。


 友達ならば知っているであろうことを僕は知らないでいる。先週も思ったけれど、やはり僕らの関係はどこかで歪んでいるように思えてならない。


「あの、萩野君? どうか、しましたか?」

「へ? あ、ううん。なんでもない。で、今日はどうするの?」

「えっと、今日はですね、その……」

「その?」

「行ってみたいところがあるので、そこに、連れて行ってください」


 先週に引き続き、今日も僕は彼女をどこかへ案内するらしい。ただ先週と違っていることが一つある。日向さんはその行きたい場所に着いた後、そこで僕と話がしたのだそうだ。


「話がしたいって、僕は別に構わないけど、そこは河原じゃない場所なんだよね?」

「そ、そうです」

「いいの?」

「はい。今回はその、大丈夫だと思うので」

「大丈夫?」


 大丈夫というのは何に対してそう言っているのだろう。やはり日向さんは不思議だ。僕が彼女のことを何も知らないからそう思っても無理はないのかもしれないけれど、彼女は不思議で、それゆえに魅力的で、それでいてどこかいつも寂しそうにしているような気がする。


「……いいよ。わかった」


 だけど、きっとそれらの疑問を僕が日向さんに尋ねたとしても彼女は答えてくれないだろう。

 だから僕は日向さんの言う通り今日も彼女が行きたいと望む場所へと案内する。今日はどこに行きたいのかと聞くと、彼女はこの街で一番高い場所に行きたいと、そう言った。


 この街で一番高い場所。僕も何度か行ったことがある。春の季節、この街で一番高い場所では桜が花を咲かせるから、僕は両親と一緒によく花見をしにそこへ行っていた。そこは丘の上で、知る人ぞ知る絶好の花見スポットなのだと母親が言っていた。無論、僕は桜をこの目で見ることは出来なかったけれど、桜の枝が風に揺られてザワザワと音を立てるのを聞いていると、とても心地よくなれたことを覚えている。


 ただ今は夏だ。桜の花びらは完全に散り、葉が隙間なく枝についている頃だろう。


「桜を見たいのなら、季節外れじゃないの?」

「ううん。桜が見たいわけじゃないの。ただ、あそこに行きたいんです」


 ただあそこに行きたい。どうしてだろう。その言葉を聞いた途端、胸の奥底がムズムズと疼いた。何か思い出しそうな気がして、でも思い出すことは出来ない。


「だめ、でしょうか?」

「いや、いいよ。じゃあ行こうか」


 そして僕たちは歩き出す。僕は真っ暗な道を視覚以外の感覚を頼りに進んでいって、日向さんはそんな僕を頼りに前へと進む。


 目が見えないことに嫌悪感を抱くことはないけれど、目が見えたらどれほどいいだろうかと渇望したことは何度もある。花見をしていた時、実際に桜の花びらを見ることが出来たらどれほどよかっただろうと思っていたし、あの丘からの景色はどんなものなのだろうと頭の中で思い浮かべていた。

 いつも僕が触れているのは音と肌に伝わる感覚で、それらと人から聞いた数少ない話から頭の中で情景を形作ることしか僕にはできない。僕の思い描く景色が正しいのかわからない。それでも思い描かずにはいられない。


 いつか、もしも僕にも景色を見ることが出来るようになったとしたら、一体僕は何を思うのだろうか。僕が今まで思い描いていた様子とはかけ離れたものがそこには広がっていたとして、僕はそのことに気が付いた時、何を思うだろう。そのことを想像すると自然と怖くなってしまう。今まで生きて経験して作り上げて来たものは間違っていると言われるようで、だから怖い。

 いつも訪れている河原の景色を見てみたいし、青色がどんなものなのか確かめてみたいけど、それと同じくらいにそうしたくはないという思いもある。真逆の思いが居座っていて、その原因は単に僕が臆病だからだろう。


 僕は臆病だ。臆病だからこそ僕の目は見えていないのかもしれない。心を抉るような出来事を直接目の当たりにしないよう、そっと自分の頭の中で完結するようにしているのかもしれない。


 車が走って行く音。この走っている車が仮に人とぶつかるとその人は簡単に死んでしまう。つまり、この車というのは常に人を殺す可能性を含んでいるということだ。そんなものが日常の中で当たり前のように存在している。だけど周りのみんなはそれを当たり前のものだと認識していて、僕はその事実に恐怖する。

 朝のニュース番組でも僕は色々な出来事を聞いている。どこかの街で殺人事件が起こっただとか、どこかの国とどこかの国が争っただとか、とある国でテロが起きただとか、世の中は怖いことで溢れかえっているようだった。


 その悲惨さを、その残虐さを、僕は知らない。


 怖がってばかりだ。だから、そんなものが溢れかえる世界を直接見ることを躊躇ってしまう。


 僕が憧れているものは、同時に恐怖を与える。


 車が走り去る音が消えて、ほんの少しの安堵を抱えて歩いていく。徐々に周りの音が聞こえなくなっていって、柔らかい風の音と、サワサワと枝葉が擦れる音が聞こえてくる。


 坂道を歩く。小さい頃はこの坂道を上るのに苦労したが、今では難なく上ることが出来る。


 足裏から伝わる感覚は塗装された道のものではなくなっている。時々小石を踏みつ

けて、自然のままである地面を踏みしめて行く。


 どこかから蝉の鳴き声が聞こえてくる。ジージーと夏の暑さを象徴するかのような鳴き声を上げている。周りの気温が下がる。たぶん、周りに生える木々が作る影に入っているのだろう。


 そんな木陰を抜ける頃、一際強く風が吹く。ボウボウと吹き荒れて枝葉が擦れる音はザワザワといった具合に激しさを増す。

 周りから人の気配は感じ取れない。花見の時期はもう終わっているのだからそれも当たり前だ。おそらく今この場所にいるのは僕と日向さんだけだろう。


「日向さん、ここであっているかな?」


 僕は河原以外で初めて日向さんに話しかけた。それがなんだか新鮮で、ほんの少し楽しい気持ちになる。


「は、はい。大丈夫です。ここであっていると、思います」

「そうか。ならよかったよ」


 しかし、どうして日向さんは今回ばかり河原以外で話をしてもいいと言ったのだろうか。先週図書館へ行った時は条件を頑なに守るように彼女が話すことなどなかったのに。


「あ、あそこに行きましょう」

「あそこ?」


 あそこと言われても僕にはわからない。多分日向さんはあそこと言いながらある場所を指指しているのだろうけど、僕は見ることが出来ない。


「ああ、えっと、その。あそこのベンチに座りましょう」

「ベンチ?」

「はい。ベンチです」


 この丘に来たことはそれほどない。だから、僕はこの丘に何があるのかいまいちわかっていない。日向さんにベンチと言われて、僕は初めてこの丘にベンチがあることを知った。


「どこかな? 案内して来てあれなんだけど、僕もあまりここには来たことがなくて、どこに何があるのかわからないんだ」

「そ、そうですか。じゃ、じゃあ今度は私が案内します」


 今度は私が案内すると言われて、僕は手でも引かれるのかと思ったけど、そう言えば条件の一つに決して触れないことというものがあったからそれはないと考えを改める。ならどうするのかと思っていると、日向さんは「そのまままっすぐ進んでください」と声を上げた。


「まっすぐ進めばいいの?」

「はい。まっすぐです」


 少し進んだところで日向さんは「止まってください」と言って、「左に曲がってください」と続ける。まるで、大昔に一度だけやったことのあるスイカ割りみたいだと思った。

 日向さんの言う通りに僕は足を進める。すると、棒に何かが当たった。


「萩野君、そのあたりです。そのままゆっくり座ってください」

「うん。わかったよ」


 僕は中腰になって手の平をベンチに置く。感触からするに、このベンチは木製らしい。ベンチの端を確認してどれくらいの長さのものなのか把握できた所で、僕は日向さんの言いつけ通りゆっくりとベンチに腰掛けた。


「ふ~……」


 僕が座ったところで、日向さんも隣に腰を下ろす。先ほどの感じだと、このベンチはそれほど大きくないようだから、いつも以上に日向さんを近くに感じるような気がした。

 それがどうしてかこそばゆくて、でも落ち着けて、それでいてどこか懐かしい。


「日向さん、ここからはどんな景色が見える?」

「こ、ここからですか……そう、ですね……」


 頬に伝わる感覚からして、正面は大きく開けているのだと思う。風を遮るものが何もない。


「まず、私たちがいつも会っている河原が見えます」

「うん。ほかには?」

「それと……あ、先週連れて行っていただいた図書館があります。あと~、学校もあります。お家もたくさんあるし、山もあります。病院もありました。やっぱり河原から近いところにありますね」


 楽しそうに日向さんは話す。


「やっぱりということは、日向さんもあの病院に行ったことがあるの?」


 日向さんの回答から何気なくした質問。だけど、どうしてか日向さんは黙ってしまう。


「日向さん? どうかした?」

「あ、いえ。なんでもありません。は、はい。病院には、その、行った事あります。その、この街ではあの病院が一番大きいですから、ここに住んでいる人なら一回くらいお世話になっていると、思いますよ」


 確かにそう言われればそう思わなくもない。あの病院に何年も通っている所為で、どうやら僕は的外れな質問をしてしまったようだ。


「日向さん、ここから見える景色を見て何を思う?」


 僕は仕切り直すように話題を振る。話題と言っても、これは単に僕が知りたいことを日向さんに教えてもらうだけだ。


「何を思う、ですか? そうですね……」


 そして日向さんは、この街はあまりにも小さいと、そう言った。


「小さい?」

「はい。その、普段過ごしている場所って、とても大きく見えていたんです。でも、別のところから見てみると、なんだか小さいなって」

「小さい、か……」

「きっと、違う場所から見たのなら私たちなんてアリと同じくらい小さいのでしょうね」


 誰か、それこそみんなが言うところの神様から見た僕らなど、本当にアリと同じなのだろう。一匹のアリの目が見えなかったとしても、そんなものは大きく見れば些細なことで、すべてを内包する世界に影響など与えない。


「私、ここに来てみたかったんです」

「ということは、日向さんはここに来るのは初めて?」

「はい。初めてです」

「そうなんだ。じゃあ、実際にここに来てみてどう?」

「どう、っと言われても……なんだか、よくわかりません」

「そっか」

「あの、私もその、萩野君に言いたいことがあるんです」

「言いたいこと? 河原で言っていた話したいことっていうやつ?」

「はい……そうです」


 日向さんは一呼吸置いたところで話し始める。


「その、いきなりこんなことを言うのは変なのかもしれないのですけど、私、誰かの役に立ちたいんです」

「役に立ちたい?」


 何を言うのかと思ったら、日向さんはそんなことを語る。今回は彼女自身も少し変わったことを言っているという自覚を持っているようだ。だけど、今更この程度で動じる僕でもなくて、数週間前に彼女から友達になって欲しいと言われた時よりは幾分素直に聞き入れることが出来た。

 だから僕はまず、どうして誰かの役に立ちたいのだと思ったのか日向さんに尋ねた。


「どうして、ですか……あ、あまり詳しくは話せないのですが……、その、私、ずっと色々な人に迷惑をかけ続けてきてしまったんです。だから、その恩返しというか、なんというか……」

「なんというか?」


 再びしばらくの間が生まれる。

 風も止んで、僕の周りから音が消える。


「あの、また変なことを聞いちゃうことになるんですけど、萩野君は、どうして生まれてきたんだろうって考えたことはありますか?」


 静寂からのその一言に、僕は思わず息を飲んだ。「どうして生まれてきたのか」という箇所が大きく頭の中に響いた。


 どうして生まれてきたのか。僕はそのことについて常に考えていると言っても過言ではないのだと思う。ずっと考えてきた。物心着く頃にはそんな疑問が常に頭の中の片隅で息を潜めていたような気がする。

 日向さんと出会ってすぐ、僕は彼女に「目以外は普通の人と一緒だよ」と言ったけれど、あれこそが僕の心の奥底に沈んでいる二番目に重たいものを表現した言葉だ。

 僕は憧れていた。普通の人に憧れていた。決して僕が見ることの出来ないものを平然と見ている普通の人が羨ましかった。


 だけど、ここに来るときも考えていた通り僕は臆病で、いざ見られるようになったとしても瞳を開けることを拒んでしまうだろう。

 臆病になってしまった原因。それは色々あると思う。ただ、それらを一つにまとめるのだとすれば、それはおそらく僕は暗闇の中で時間を過ごしすぎたのだ。

 暗闇が僕にとって普通。明るいことは普通ではない。普通は日常で、日常は安心する。そんな風に、僕は慣れ親しんでしまった。


「萩野君?」

「ああ、うん。ごめんね。まあ、考えたことはあるかな」

「そう、ですか……その、詳しく話せなくて申し訳ないんですけど、私も何度か考えたことがあります。大事な人に迷惑をかけ続けて、子供の頃には私は大切な約束を破ったこともありました」


 しみじみとそれらを思い出すようにゆっくりと日向さんは語る。僕はそれ等に対し

て「何があったの?」と聞くことは出来ない。


「ですから、誰かの役に立ちたいなって……」

「そう、なんだ……」


 何一つ具体的な話は出てきていないけれど、僕は彼女が言いたいことを理解することが出来た。でも、そういった考え方を素直に受け入れることは出来そうにない。

 誰かの役に立ちたい。僕はそんなことを思ったことは一度もない。その誰かは僕にない物を持っている人達で、どちらかといえば羨ましくて、妬ましいといった感情を抱く対象だ。


「あの、萩野君は景色を見てみたいと思ったことはありますか?」

「そ、それは……」


 僕は日向さんにそう聞かれて答えに詰まる。どう答えていいのかわからなかった。


「わからない」

「わからない、ですか?」

「うん。わからないんだよ」


 そして僕は、日向さんに「怖いんだ」と告げる。こんなことを言った相手は日向さんが初めてで、僕はどうしてか自然と口に出していた。


「僕は臆病者でね。仮に僕の目が見えるようになったとして、目の前に広がっていた光景が今まで自分の中で描き続けたものと違かったらって思うと怖くなる。心のよりどころというか、まあそんなものに裏切られるのはもう嫌なんだ」

「裏切られる、ですか……」

「うん……」


 でも、裏切られるという言葉だと相手が一方的に悪いように思われるからこの言葉は正しくない。相手だけが悪いというだけでなくて、僕も良くないのだと思う。


「裏切られる、といっても僕も悪いんだと思うけれどね」

「そ、そうですか……」


 何一つ具体性のない話。それこそ独り言のように、ぽつぽつと浮かび上がって来るものを口から吐き出しているようだった。


「日向さんはさ、すごいよね」

「へ? ど、どうしたんですか急に?」

「いや、だって誰かの役に立ちたいだなんて、僕はそんなことを一度も思ったことがないからさ」

「そ、そうでしょうか……」

「うん。きっとそうだよ」


 何一つ彼女のことを知らないけれど、これだけは自信を持って言える。


「でも、その、萩野君もすごいと思います」

「すごい? 僕が?」

「はい」


 一体僕の何がすごいのだろう。目が見えなくて、それこそ僕も日向さんと同じかそれ以上に周りの人に迷惑をかけてきた。両親にだって、主治医の先生にだって、もしかしたら知らないうちに日向さんにも迷惑をかけているかもしれない。そんな僕のどこかすごいというのだろうか。


「私は萩野君に助けてもらいましたから」

「助けた? 僕が? いつ?」

「一人きりで河原にいた私に声をかけてくれました。それに、先週は私のわがままを聞いて図書館に連れて行ってくれましたし、今日だって私のお願いを聞いてくれました。なによりも、こんな私と友達に、なってくれました」

「べ、別にそんなことはすごいことでもなんでも……」

「いいえ、そんなことはないです。何が良くて何が悪いのかだなんて人それぞれなんです。だから、私にとってそうだったのなら、萩野君はそうなんです。萩野君は私のために色々なことをしてくれました。それに……」


 それに、と言うと日向さんの言葉が途絶える。


「そ、それに?」

「…………それに……いえ、やっぱり何でもありません」

「そ、そっか……」


 僕はどうしていいのかわからなくなった。こんな風に言われたのは初めてで、背中がむずがゆくなる。

 だけど、僕はしっかりと日向さんの役に立つことが出来ていたようで、それは純粋に嬉しいと思った。

 日向さんも他の人と同じように僕には持っていないものを持っているはずなのに、僕は彼女に対して妬ましいだとか、そういった思いは抱いていない。


「…………」


 じんわりと、暖かいものが体に染み込んでいくようだった。


「その、ですから、わ、私も……」

「わ、私も?」


 日向さんがこちらを向いたように感じて、僕も見えはしないけれど彼女のいる方に顔を向ける。


「わ、私もその、萩野君の役に立てたらなって、そう、思います……」

「…………」


 風が吹く。どうしてか熱くなっている頬をその風が冷ます。


 日向さんはそう言うけれど、すでに君は僕の役に立っているよ。日向さんは僕が自分を助けてくれたと言っているけれど、同じように僕も君に助けられている。

 こうして話しているだけで、嫌なことを思い浮かべずに楽しむことが出来ている。


 だから、僕の方こそ君に救われている。


 でも、それを日向さんに伝えるのは恥ずかしくて、僕は黙って優しく吹く風が頬を撫でる感覚を噛みしめる。


 それからしばらく、僕たちは何も話すことなく丘の上のベンチに座って時間を過ごした。

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