第6話~ふたつめ(その2)~
「空君、萩野空君」
聞き覚えのある声だ。その昔、僕がまだ父親と図書館に来ていて頃、本を借りる時に何度も聞いた声だった。
意識が戻って来る。先ほどまで何か不思議なものを見ていたような気がしたけれど、僕は目が見えないのだし気のせいだろうと思い体を起こす。
ずっと机に伏していたせいか上半身を上げると節々が音を立てた。
「やっと起きた。ほら、もうすぐ閉館時刻だよ」
この声の主は確か図書館の職員さんだ。
図書館の閉館時刻は記憶通りだと午後五時半。職員さんの話が本当ならば僕は随分長く寝ていたらしい。
「まったく、なんだか懐かしい子が来たなと思ったらずっとここで寝ているんだもの」
「はは、すいません」
「でも、本当に懐かしいわね。だいぶ背も伸びたんじゃない?」
「そうですかね」
僕には体の成長というのは分からないけれど、三、四年は経っているのだしそれなりに背くらいは伸びているのだとは思う。
「ともかくもう閉館するから出て行く準備をしてください」
そう言われて僕は一度大きく伸びをする。
そういえば日向さんはどうしたのだろう。
「あの、すいません」
「ん?」
「ここへ僕と一緒に入って来た女の子知りません?」
「女の子?」
「はい」
「ん~……いや、ちょっとわからない。なに? もしかして空君の彼女? 久しぶりに図書館に来たかと思ったらそうかデートか。でも、ずっと寝ているというのはちょっといけないんじゃない?」
「ち、違いますよ。デートじゃないですし、彼女でもないです。友達ですよ、友達。で、その子図書館に来たことがないみたいだったんで今日僕が案内したんです」
「ふ~ん。でも今図書館に残っているのは空君だけだし、もしかしてなかなか起きない君を放っておいて先に帰っちゃったんじゃない?」
確かに僕はここでかなりの時間寝てしまったようだけど、しかしそれでも日向さんは黙って僕を置いて先に帰ってしまうような人ではないような気がする。
「ともかくほら、もう時間だから出てってね」
「は、はい」
職員の人に迷惑をかけることも出来ない。だから僕は仕方がなく図書館から出て行く。外に出るとモワッとした少し気持ち悪い空気が全身を包んだ。夏の夕暮れ時の空気。
昔のことを思い出す。僕がまだ小学三年生だった時のこと。その時の僕は学校にいる時間ずっと一人きりで過ごすことに耐えられなくて、必死に友達を作ろうとしていた。
そんなある日の放課後。僕は勇気を出してクラスメイトにこれから遊ぼうと話しかけた。しばらくするとクラスメイトは渋々という感じで「いいよ」と言ってくれて、僕はそれが嬉しくてその友達に着いて行った。
行き着いた場所は学校近くの公園だった。集まったのは僕を含めて六人くらいで、言うところクラスのリーダーだった男の子がこれから何をして遊ぶのか決めて行く。
今にして思えば僕が普通の人と一緒に遊ぶことなんて無理に決まっていた。目が見えるか見えないか、たったそれだけだけど、たったそれだけで大きな溝は出来る。ただ、当時の僕はそんな簡単なことに気が付けないほど寂しかったのだと思う。誰かと話がしたかったし、なによりみんなと違うことがどうしようもなく嫌だった。
自意識の芽生えと共に一人きりになること、自分だけ違うことに対し恐怖を覚えるようになった。だから僕はそんな恐怖に駆られていたのだと思う。
そんな僕にとってクラスメイトと一緒に遊べるというのは友達を作るまたとない機会だと思って、僕は空回りするほどに必死になった。
遊びの内容はかくれんぼ。初めは僕じゃないクラスメイトが鬼になってみんなは逃げて行く。僕もかくれんぼの遊び方は知っていたから逃げた。
だけどどこに隠れていいのか全く分からない。目が見えないのだから隠れる場所を見つけ出すことすらできない。
結局僕は一番初めに見つかった。そして今度は僕が鬼になった。言うまでもないが、僕は誰一人として見つけ出すことなど出来なかった。できるはずがなかった。僕はそのことに気が付いていたけれど、気づかないふりをして必死にみんなを探そうとした。
友達が欲しい。たったそれだけのために出来るはずのないことをしようとした。
時間はどんどん過ぎていって、空気がじわじわと嫌なものに変わる。夏の夕暮れの空気。焦る気持ちと行き場のない思いが燻る。
結局五時を告げる鐘が鳴り響いて、両親に心配もかけられないから僕は家に帰った。
黙って家に帰ってしまったことは明日学校で謝ればいいと思った。
家に帰ると珍しく帰りが遅かった僕に母親が話しかけてくれて、クラスメイトと遊んでいたと答えたら母親は嬉しそうな声を上げていたことをよく覚えている。
後日、僕は昨日勝手に帰ってしまったことを謝った。だけどクラスメイトは「気にするな」と笑いながら、だけど嫌な感じでそう話す。
その後、昨日は萩野が鬼になったところで遊び場を変えたのだというクラスメイトの会話を聞いて、僕は苦しくなった。授業にも出ないで、一人ぼっちでトイレに籠り泣いた。よくは分からなかったけれど、涙が止まらなかった。泣いても泣いても真っ暗で、それが怖くてもっと泣いた。
人間は常に涙を流している状態で普段は我慢しているから涙を流していないという話を聞いたことがあるけれど、たぶんあの時僕はずっと我慢してきたものが壊れてしまったのだと思う。壊れて、崩れて、バラバラになった。
そして何もなくなってしまった後、僕は無理をして友達を作ろうとしなくなった。
でも、やっぱり寂しかった。
だから日向さんとこうして話をする関係になれたことは、友達になれたことはとても嬉しかった。
思い返せばあれ以来僕は泣いていない。あの時の様に日向さんは僕に何も言うことなく去って行ってしまったのではないのかと思うと、我慢できなくなりそうになる。
「日向さん!」
彼女がそんなことをするはずない。そう思う。だけどあの時だってそう思っていた。そして裏切られた。
「日向さん! いる? いたら返事をして! お願いだから、返事をしてよ!」
もしも彼女があの時のようにいなくなってしまったのだとしたら、僕はたぶん、我慢できない。
「は、萩野君……?」
そんな声を聞いて僕の頭の中は真っ白になる。色々な思いが混ざり合いつつ、少しばかりの安堵を抱いて声のした方に顔を向けた。
「日向さん? そこにいるの?」
「い、いますけど……そ、その、河原以外で話しかけないで、ください」
「あ、ああ、そう、だったね……」
たぶん、日向さんのそんな一言がなければ僕は彼女の手を握ろうとしただろう。彼女と交わした条件の一つを破ってしまうところだった。
「そ、その、帰りましょう」
「う、うん。そうだね」
その後は何も言わず、僕は空っぽになった頭のまま河原へと足を向けた。後ろから日向さんが着いてくるのがわかる。
さっき話しかけてくれた様子だと日向さんは僕からそれほど離れていない場所にいたようだ。図書館にいなかった辺りを考えると、おそらく彼女は先に外に出て僕を待っていてくれたのだと思う。
今なら日向さんが後ろにいることが分かる。だけどさっきはそれが分からなかった。僕はきっと、それほどまでに動揺してしまったのだ。
どうしてそれほどにまで心が乱れたのか。昔の苦い記憶が重なった所為なのか、それとも見失ったのが日向さんだからかなのかはわからない。もしかしたら、その全部が混ざって僕はあんなにも取り乱してしまったのかもしれない。
ほんの少し図書館へと向かっていた時よりも早歩きになって河原へと急ぐ。車道を走る車の音も、すれ違う人達の会話も聞こえてこなくて、ただ自分の足音しか耳に届かない。太陽は沈んでしまったらしく、夜の風が僕の熱くなった頬を撫でる。
こんなにも心に荒波が立ったのは久しぶりだった。嵐は何の前触れもなく唐突に訪れるもので、僕はその荒波に飲まれたのだ。原因は日向さん。だけどその荒波から救ってくれたのも日向さんで、彼女は何も悪くない。僕が勝手に勘違いして、勝手に溺れただけだ。
河原へと帰って来る。僕は落ち着きを取り戻すように大きく息を吸って吐く。ほんの少し冷たい夜の空気が僕の頭を冷やした。
「あ、あの……」
河原に戻って来るとさっそく日向さんが僕に話しかけてくる。
日向さんがあまり離れていないところにいたとして、そうならば僕が取り乱していた様子を彼女は見ていたということになる。我ながらこんな風に思うのは可笑しいのかもしれないけれど、あんな風に取り乱すのは僕らしくなかった。
落ち着いて日向さんの不安を取り除くように口を開く。
「ごめんね、日向さん。寝ていた僕が悪かったんだけど、目を覚ましたら日向さんがいないって職員の人に聞いて、もしかしたら日向さんが一人で帰っちゃったんじゃないかって思ったらあんな風に……」
「あ、いえ。その、大丈夫です。少し驚きましたけど、大丈夫です」
「でも、僕寝ちゃっていたし、そこは本当にごめん」
「ううん。そのことはいいの、私は萩野君が図書館へ連れて行ってくれただけで十分嬉しかったから。それよりも、ね? その……」
それよりも。それよりも一体日向さんは何を言いたいのだろうか。
「日向さん?」
「ううん。や、やっぱりなんでもない、です。今日はその、本当にありがとうございました」
「あ、いや、うん。僕もまあ、楽しかったかな」
最後の最後でちょっとしたトラブルが起こったけれど、それでも今日も僕は十分楽しめた。僕自身も久しぶりに図書館に行けて嬉しかったのも事実だ。
だから僕の方も日向さんに「ありがとう」と告げる。すると日向さんは困ったようにはわわと声を上げた。
本当こんな反応をする人が何も言わずにどこかへ去ってしまうわけがない。数十分前の僕に言ってやりたい。
数十分前の僕はやはりおかしかった。こうしていつも通り日向さんと話すことでそれが浮き彫りとなって行く。
一瞬の心の乱れ。その原因は何なのか。寝ていた時に何か夢を見たような気がするけど、どんな内容だったのか思い出せない。昔の苦い記憶も、今は再び奥底へと沈んでいる。
「その、じゃあ今日はこれで」
「え? ああ、うん。そうだね。もう時間も遅いからね」
そう言えば、日向さんはどこに住んでいるのだろうか。時間も遅くなってしまったし、できれば家の近くまで送って行ってあげよう。
僕はそう思って日向さんに家の近くまで送って行こうかと提案した。
だけど日向さんは「大丈夫です」と言ってそれを拒んだ。
しかし、やっぱり女の子が暗い夜道を一人で帰って行くことに不安を感じたから、せめて家がどのあたりにあるのか聞いた。ここからそれほど離れていない場所ならば彼女の言う通り大丈夫だと思ったからだ。
だけど日向さんは答えてくれなかった。家がどこにあるのか、それは私のことを詳しく知ることに繋がるからと言って教えてはくれなかった。
ここまで言われては僕はもうこの場所で日向さんと別れるしかなくて、彼女はごめんなさいと、ありがとうと、また来週という言葉を残して僕の前から去って行く。
僕は彼女のことを深く知ることは出来ない。彼女と友達になる時に交わした約束だ。
だけど僕はその約束を破ってしまいたい気持ちになっていた。もっと彼女のことを知りたいと、そんなことを思っていた。今日あんなことがあったからだろうか。
気が合って、お互いのことをよく知っている間柄を友達と呼称するのなら、今の僕と日向さんの関係性は歪だ。
「…………」
僕はこの日、ほんの少し矛盾という言葉が嫌いになりそうになった。
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