第4話~ふたつめ(その1)~
僕は出来ることならば一度は本を読んでみたいと思っている。正確に言うと本を読むというよりは文字を読みたいのだけど、とにかく僕は本を読んでみたいと思っている。たとえば、誰かが何かしらの思いを込めて書き上げた小説。世界の役に立つ発見を伝えるために書かれた論文。それと、これは本というわけではないのかもしれないけれど、好きな人に向けて書かれたラブレターというのも読んでみたい。
文字が重要というわけでなく文字に込められた思いが重要で、僕はそれを読み解きたいのだ。
それともう一つ。これは先週の青を青と呼ばずにどのように説明するのかという話に繋がっているのだけど、もしかしたら本を読めばその答えが見つかるかもしれないと僕は思っている。それも青だけではない。たとえば恋だとか、夢だとか、希望だとか、絶望だとか、悲しみだとか、そう言った言葉の本当に意味するところがそこにはあるような気がするのだ。
本当かどうかは分からないけれど「月が綺麗ですね」という一文が愛の告白を意味しているという話があるらしい。その昔、父親から聞いた。
その話を聞いた時、僕はうまく理解することが出来なかったから「どういうこと?」と父親に聞いた。その時に父親が言ったことを今でもはっきりと思い出せる。
愛だとか希望、絶望や悲しみ、それらは所詮一般化された言葉でしかなく、人間一人一人に本当の愛だとか、悲しみの定義が存在していて、だけどそれらは明確に言語化出来ない。それでもどうにかしてこの思いを伝えたいと思った時、人は「月が綺麗ですね」のような言葉を生み出すのだと父親は言っていた。
この話を聞いた時、結局僕はその言葉の意味するところを捉え切ることは出来なかった。それは今でも変わりない。僕は未だにその言葉の真意をわからずにいる。
このことについて僕なりに考えてみるに、おそらく僕は未だに本当の愛だとか、悲しみだとか、そう言った感情を抱く経験をしたことがないからなのだろう。
自分の世界を表現する手段が言葉なのだとしたら、そもそも自分の世界にそれらが存在しなければいけない。僕の世界には、未だに愛や悲しみを定義できるだけの経験が無いのだ。
だから、僕は僕にとっての愛や悲しみを定義することが出来ない。
僕が経験したことのない出来事を経験した人たちが文章を表現の場として選び、そうして小説が生まれるのだとしたら、僕はやはり小説を読んでみたいと思う。まあ、そういったことは自分の身で経験しなければいけないのだろうけれど、参考までにという意味合いで読んでみたいのだ。
とにかく、僕はこのような理由から本を一度は読んでみたいと思っている。ちなみに僕の父親は読書家で、その影響を受けていないと言えば嘘になるだろう。
何にせよ、僕にとって本という存在は憧れているものの一つなのだ。先週、日向さんが青色は憧れの色だと話してくれたように、僕にも憧れを抱く対象はある。
決して手に入らない、もしくは手に入れられる可能性が限りなく不可能に近いものにこそ、僕たちは憧れずにはいられないのかもしれない。
そんなことをあれこれ頭の中で考えながら、今週も僕は定期健診を終えて日向さんの居る場所へと足を向ける。
こうして日向さんの元へ向かうことが今となってはすっかり習慣化されてしまった。
階段を上がり土手へ出てほんの少し歩く。日向さんは変わらずに出会った時と同じ場所で座っているようであった。目は見えないけれど、少し近づいて見れば何となくわかる。
「日向さん、こんにちは」
僕が声をかけると、日向さんも「こんにちは」と返してくれる。そして僕は、彼女の隣に座り、この場所の空気を吸う。
空気にも匂いはあるもので、僕は雨の日の匂いと少し肌寒くなった夜の匂いが好きだ。食堂近くの匂いも別の意味で好きだったりする。
どうして好きなのかと言われたら、僕は食堂付近の匂いが好きな理由は説明できなくもないのだろうけれど、他の二つの匂いが好きな理由はうまく説明できない。
理由はない。きっと心がいいと思ったから好きだと思えるのだ。人それぞれ心に形があったとして、その匂いがぴたりと僕の心の形にはまったような、そんな感じだ。
こういったことに理由を見つけ出すのは無粋なもので、見つけ出すことが出来たとしてもそれは単に理由を後付けしただけのことなのかもしれない。
良いものは良い。悪いものは悪い。結局これしかないのだと思う。
「は、萩野君?」
「なに?」
「せ、先週私が言ったこと、覚えていますか?」
「もちろん、覚えているよ」
先週日向さんが僕に話してくれたこと。別れる間際で彼女が話したこと。僕はその時のことを肌に伝わる夕暮れ時の空気と共に思い出す。
毎週毎週、ここで日向さんと会うたびに彼女のやりたいことを一つずつ叶えてあげる。僕は先週、そんな約束を新しく彼女と交わした。
先週、一つ目に彼女がやりたいと願ったことは友達と話すというものだったわけで、今回はいったいどんなお願いをされるのか、僕はそのことを少し楽しみにしてここに来た。
だから忘れるわけがない。
「それで? 今日はどんなことがしたいの?」
「う、うん。今日はね」
日向さんは今日のお願いを話し出す。
「今日は、私を図書館に連れて行って欲しいの」
「図書館?」
「う、うん。図書館」
ついさっき本のことについて考えていたせいか、図書館に行きたいと言われて思わず聞き返してしまった。
「図書館か……」
「だ、ダメかな? やっぱりその、案内だとか、難しい?」
おそらく僕の目のことを気にして日向さんはそう言うのだろうけど、案内するのは問題ない。確かここからあまり離れていない場所に公立の図書館があったはずだ。僕がまだ幼い時、時々父親と病院に行くことがあったのだけど、その帰り道によく図書館に寄り道していた。だから目が見えなくとも日向さんを案内することは出来る。
しかし、僕が気にしているのはむしろ日向さんの方だ。彼女と友達になる際に交わした約束の中にこの河原以外で話しかけないでほしいというものがあった。図書館に連れて行くとなれば、この河原から離れないといけなくなる。そのことについて、日向さんはどう考えているのだろう。
「案内は別に問題ないよ。たださ、日向さんが言っていたこれだけはしないでという条件があったでしょ。その中にここ以外では話しかけないで、というのがあったと思うんだけど、それはどうなるのかなって」
「えっと……あ」
どうやら本人もそのことを忘れていたらしい。余程図書館に行きたいのか、それともただ日向さんが少しばかり気の抜けた人だというだけなのかはわからない。
「その、はい。できる限り話しかけないで、案内をしてほしい、です」
「じゃあ、図書館に向かって歩く僕の後を追うって感じになるのかな?」
「は、はい。そんな感じです」
確かに、そうすれば僕は日向さんと話すことなく彼女を図書館へと案内することが出来るだろう。しかし、だからと言って僕が日向さんに話しかけざるを得ない状況が絶対に起こらないという保証はどこにもない。
「でもさ、もしも僕が日向さんに話しかけないといけない状況が起こったらどうすればいいのかな?」
「そ、それは……じゃ、じゃあ、その時は、周りに人がいないタイミングで、手短にお願いします」
「周りに人がいない?」
その物言いがほんの少し気になった。多数の他者に僕と話しているところを見られたくはないということだろうけど、その理由は何なのだろうか。単に日向さんが極度な恥ずかしがりやだということなのか。それとも、僕のような人間と話している姿を、たとえ自分とは関わり合いの無い人間であっても見られたくはないということなのだろうか。後者の理由ではないことを切に願う。
ともかく、日向さんの願いを出来る限り叶えてあげると約束してしまったのだ。なら、僕のやるべきことは彼女の願う通り黙って図書館へと案内することだろう。
「わかった。じゃあ行こうか」
「は、はい」
そして、僕たちはこの河原から立ち上がって図書館へと歩き出す。
杖を片手に、足裏とその杖から手に伝わる感覚を頼りに前へと進む。日向さんも僕の後ろについてくる。足音は聞こえないけど、何となく感覚でそのことが分かった。
図書館。僕自身もあそこへ行くのは何年ぶりのことになる。三、四年ぐらい前から父親と共に病院へ行くことは無くなったから、少なくとも三、四年ぶりに図書館へ向かうことになると思う。
図書館に対して何か思い出があっただろうかと記憶を遡ってみるに、まず思い出されたのは図書館の匂いだった。本独特の匂い。確か、あの図書館には随分と昔の書籍もあるらしかった。だから、僕は図書館に来るたびにこれが歴史の匂いなのかと思っていたことを覚えている。歴史の匂いと言うと、なんだか随分と味のあるものの様に思えて、僕はあの匂いをそんな風に表現することを我ながら気に入っていた。
匂いに加え、僕は図書館全体に染み込んでいる雰囲気も好きだった。人は確かにいる。時折誰かが咳き込む音や、ページをめくる音、棚から本を出す音だとかが聞こえていたから、そう少なくない人があの場所にはいたのだと思う。でも、それでいてみんなそこにはいないように僕は感じていた。おそらく、図書館にいた人はそこにいながらも皆別の場所にいたのだと僕は思っている。別の場所とはどこなのか、おそらくそれは読んでいる本の中なのだろう。また、もしくは自分自身の中だ。
僕はそんな風に、そこにいるのにいないような、そういう不安定ながらもしっかりと確立しているある意味で矛盾した雰囲気が気に入っていた。読書とは孤独ではあるが、そこには必ず作者と読者、物語が存在していて。決して一人では成り立たない。
少し話は逸れるけれど、僕は矛盾という言葉が好きだ。嫌いなほど好き、だとか、好きなほど嫌い、だとか、相反する言葉を用いると並々ならぬ強さを感じ取れるような気がする。
人間は矛盾した存在なのだとどこかで聞いたけれど、矛盾という言葉が辻褄が合わないという意味ならば、なるほど確かに人というものはいつだって辻褄が合わないものだ。始まりは祝福され、終わりは悲しまれる。
だけど、僕たちが生きている世界はどうしようもなく辻褄が合っているような気がする。光があれば影があるように、表があれば裏があるように、すべては平等にあって、常に均衡を保とうとしているような気がする。僕の目が見えないのもきっとそんな辻褄合わせの結果なのかもしれないと思わなくもない。
世界が辻褄合わせに作られているのなら、辻褄合わせに作られていないものも存在しているはずで、きっとそれが僕たちなのだ。
だからこそ、僕たちは矛盾した存在なのだと誰かが言ったのかもしれない。
矛盾した存在が溢れるこの道は確かに生きにくい。日向さんの様子からして、彼女は外交的な人ではないのだろうから、もしかしたらあまり外を出歩かない人なのかもしれない。でも図書館には行きたいから、僕という壁を一つ作って向かうことにしたということなのだろう。
図書館に近づくにつれて周りからは人々の話し声が聞こえてくる。昨日のテレビは面白かっただとか、まだ課題が終わってないだとか、この後どこに行こうかだとか、様々な会話が飛び交っている。一般的な日常を体現したような場所だ。そして、一般的な日常を過ごすことの出来ない僕はあまりこういった場所は好きではない。僕も騒がしい場所は苦手で、そういった面では日向さんと似ているかもしれない。
仮に僕の目が見えていたとして、スポーツ観戦することが出来たとして、それでも僕は周りのみんなと喜びを共有するよりは本の中で孤独な喜びを好む。大勢で話し込みながら食事を楽しむよりは、誰かと二人きりで静かな場所でゆっくりと話し込む方が好きだ。
だから、僕もそれほど人づきあいが得意というわけではなくて、むしろ苦手だ。そう考えてみると数週間前に日向さんに話しかけたというのは普段の僕らしくなかったかもしれない。でも、このことに関して僕は決して後悔などしていない。まだそれほど日向さんと長く付き合っているわけではないけれど、それでも僕はこうしている時間が好きだ。
話すわけでもなく、だけど目的としている場所は同じで、彼女は僕の後ろをついてくる。
車が行き交う音が聞こえる。信号機が青に変わっていることを示す音楽が鳴っていて、僕は横断歩道を歩く。渡っている途中で犬の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声の後に日向さんの「わぁ」という声が聞こえた。どうやら散歩中の犬に吠えられたようだ。声の様子から随分と驚いたらしい日向さんであったが、犬の飼い主は何も言わずに過ぎ去って行ったようだ。日向さんに大丈夫かと声をかけたくなったけど、それは約束を破ることになってしまうからそのまま足を進める。
横断歩道を抜けしばらく歩くと先ほどよりも車が走る音は聞こえなくなってくる。その代わりに蝉の鳴き声が聞こえてきた。まだ夏本番というわけではないのだけど、せっかちな蝉はすでに木に止まって声を上げている。
蝉が止まることのできる木のある道、つまり街路樹が並ぶ道までたどり着けたらしい。ということは図書館まではもう少しだ。
父親と図書館に行く際、必ずと言っていいほど僕はここに植えてある木の様子を尋ねていた。春はピンク色の花を咲かせ、夏には深緑の葉をつける。秋になると葉は熟し、冬になるとつぼみをつける。僕はそう聞いた。木というやつは季節に敏感に反応するものらしく、そんな風に時の流れと共に姿を変えるというのが僕には面白く感じ取れた。
今は夏の始まりだから、おそらく緑色の葉をつけているのだろう。緑色というのが一体どんな色なのかやはりわからないけれど、何となく今の僕みたいな色なのかもしれない。何かが始まりそうで、少し楽しみになるような、そんな色。
「わぁ~……」
弱い風が頬を撫でた時、後ろから日向さんの声が聞こえてきた。きっと図書館の姿が見えてきたのだろう。日向さんのそんな反応に僕は嬉しくなる。
棒の先が段差にあたる。図書館についたようだ。僕は一度、後ろを振り返って笑って見せる。話しかけてはだめだと言われただけだから、こんな風に表情で会話することは良いだろう。無論、僕は彼女の表情を見ることは出来ないから、一方的な投げかけになってしまうのは残念ではあった。
僕は棒の感覚を頼りに階段を上がり図書館へと進む。自動ドアが小さな音を立てて開くと、中のひんやりとした空気が流れてきた。外の気温だけは夏のものになっているから、そんな冷気を肌で感じた途端、自然と口から空気を漏らしてしまう。
図書館に入るとやはり歴史の匂いが僕を迎え入れてくれた。この空間に染みわたる雰囲気は数年前と何も変わることはなく、少し安心すると共にとても懐かしい気持ちになる。
さて、図書館に来たいと言っていた日向さんはというと、自動ドアをくぐってすぐ早足になって僕の横を抜け、本棚へと向かって行ったようだ。
一方で僕はどうしようかと頭を悩ませる。図書館に来る人の目的といえば、本を読むか、もしくは受験生が勉強をするくらいなのだろうけれど、生憎僕はどちらにも当てはまらない。本は読めないし、受験生でもない。日向さんをここに連れてきた時点で僕の目的は達成されたといっていいだろう。
要するに、図書館に来ても僕にはやることがなかった。
父親と来た時にはひそひそと父親と話ながら借りる本を選んで家で読み聞かせてもらったものだけど、日向さん相手にそれは出来ないだろう。そもそも今この場所で日向さんに話しかけることは出来ない。
結局、僕は日向さんが満足するまで他の人の邪魔にならない場所に座って寝ることに決めた。することがなければ寝る。僕は大体そんな風に生きてきた。まあ、授業中だとか、やることがあっても寝てしまうのは許してほしい。
この雰囲気の中で寝るのはとても心地がいいのだろうなと思いながら、僕は机に伏して目を閉じる。本も読まずに昼寝を目的として図書館に来る人などそうそういないだろう。
ゆっくりと時間が流れて行く。静かで心地のよい空間。
頭の中でいままであった事やどうでもいい考えが脈絡もなく浮かんでは消えて行く。
現実から離れては戻り、少しずつ遠ざかって行く。
僕が眠りにつくまで、そう長くはかからなかった。
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